夜香木(やこうぼく、別名・ナイトジャスミン)。西インド諸島原産。
葉の緑色はずっと美しいままで、枝は柔らかです。
今年、2回目の開花。その名のとおり、夜風にのって甘く香ります。
復帰50年に寄せて④世替わり-[続]唐(中国)・大和の世(薩摩藩・江戸幕府)
今回も、お付き合いいただければ、嬉しいです。
前回の続きですが、
今回は、薩摩支配下(1609年〜)における、進貢貿易と琉球貿易、中国への薩摩支配の隠蔽、冊封儀式などを記します。
琉球王国の、中国(明・清)との冊封関係は、明治政府によって、清への進貢が禁止される1875年(明治8)まで続けられました。
服属国が宗主国に対して貢物を進献する進貢。
冊封体制下、中国皇帝から朝貢に対する恩恵として与えられた琉球の進貢貿易。それは、琉球・薩摩藩にとって大切な財源でした。
明初期には、決められていなかった貢期は、その後、琉球の、明の国法に触れる行為を理由に、2年1貢となり、人員も100人に限定されます。
さらに明側は、琉球の疲弊を理由に、進貢回数を10年1貢としますが、薩摩の督励により琉球は従来の2年1貢を願い出、それにより5年1貢が許され、1634年にようやく従来の2年1貢に戻りました。
明側は、進貢品に対して50倍〜100倍以上の評価をし、その半額分は織物などによって支給。さらに持ち込まれた物資については純然たる貿易品として取り扱いました。
当時、鎖国政策をとっていた日本は、長崎のみ、貿易が許されていましたが、琉球貿易は1630年頃、唐物貿易のサブルートとして、幕府から公認されます。
しかし、当初は市場コントロールのため、長崎会所を通じた販売は認められず、琉球唐物は、薩摩藩を通じて長崎商人や大阪・堺の商人たちに引き取られていたのではないか、と推測されています。
1810年(文化7)、幕府は琉球が輸入する織物類、唐紙、花紺青の染料など8種について長崎市場での販売を許可。
さらに、1825年(文政8)に、薩摩藩が販売品目の拡張を幕府に要求。薬種など16種類の販売権を獲得。薩摩藩は長崎貿易に浸透していきます。
具体的には、琉球唐物、琉球産物という名前で長崎会所に持ち込まれ、価格交渉を経て、薩摩藩が買い上げ、それを長崎会所の入札に出す、という仕組みです。
その頃、琉球が得た利益は、仕入れ値の約3〜4倍。琉球唐物は、長崎会所以外にも、薩摩側の自家消費を名目とする注文品があり、かなりの利潤があったようです。
球磨茶や、富山の売薬商人によって薩摩に運ばれた昆布、瀬戸内海産の繰綿などが琉球に持ち込まれ、中国へ輸出されています。
1840〜50年代には、長崎への唐船の数が減り、長崎貿易が衰退。背景には、アヘン戦争などの中国の政情混乱があったようですが、逆に琉球の唐物貿易が活発化していきます。
薩摩藩の「貿易拡大の要求が刺激的に琉球王府の対応をうながし、さらにこれをうけて渡唐役人たちの私貿易が盛んになっていく」と考えられるようです。(上原兼善氏、文献後述)。
幕末期に、琉球船がたくさん中国に漂着しているのは、貿易目的ではないか、と推測されています。
文献からは、琉球や薩摩、日本各地の商人たちの活気が伝わってきます。きっとたくさんのドラマがあったことでしょう。
ご参考までに。
(上原兼善「幕末期の琉球貿易」より)
さて、中国と国交が断絶していた幕府は、琉球の進貢貿易を継続させるため、薩摩支配を中国に秘匿・隠蔽する必要があり、
琉球もまた、中国との関係を第一に考慮していたため、共に隠蔽政策をとりました。
貿易商品は、当時、薩摩・琉球に属していたトカラ(吐噶喇列島)から仕入れている、と偽っています。
1719年以降、本格的な隠蔽工作が始まったようですが、では、具体的にどう隠蔽したか。
冊封使一行が来琉し、滞在する半年間は、
那覇の在番奉行所の薩摩役人たちを、近隣の浦添に転居させ、その姿を隠します。
また、徹底的に大和めきたるものを排除。例えば大和ことば、大和年号などの禁止。宮寺の額、絵馬などを隠し、冊封使一行との交わりを禁止。冊封使側にも、関外に出ないよう注意するなど、厳重に統制し、薩摩との関係がもれないよう配慮しています。
それだけでなく、「中国文化に寄り添った琉球の姿を冊封使側に見せることを意識していた」(麻生伸一氏、文献後述)ようです。
では、中国・冊封使たちは、琉球の現状に気づかなかったか。
中国側は、その実情を察知していたようですが、宗主権を公的に主張することなく、最後まで容認の形をとっています。
あと一つ、薩摩藩や幕府にとって、琉球の存在が便利だったのは、渡唐した琉球の役人によって中国の最新情報がもたらされることでした。(ここでは詳細を省略)
さて、琉球では国王が崩御すると中国に使いが出されます。
中国から、国王の霊をなぐさめ、新国王を冊封するため冊封使一行が来琉、首里城での冊封儀式などが催されます。
冊封儀式のあらましです。
(首里城公園管理センター・パンフレットより)
3枚目の左下に七宴名があります。
1719年「中秋の宴」後の、見送りの様子が、冊封副使・徐葆光(じょ・ほこう)の『中山伝信録』に記録されており、再現すれば次のような情景だったようです。(注・中山は琉球王国のこと)
「帰路につく冊封使一行を、二丈(注・6m)もある松明(たいまつ)を持った人々が両側から明るく照らし、
宿となっている天使館までの道のりを平民を加えた数千の人々が見送る所まで演出」(絵本作家・赤嶺進氏)
言葉で書いても、イメージしにくいと考え、赤嶺進氏の絵を借用掲載します。
(沖縄タイムス 2018-10-21付。記事中の"天使"は、中国王朝の使い、という意味です)
絵を拝見して、その美しさに思わず息を呑みました。
中国からの賓客に対する琉球側の対応は、政治的な意図が背景にあったにせよ、その心づくしに、礼儀を重んじる「守礼の心」が、いかんなく発揮されていると感じます。
現在は、唐突な存在に見える観光名所・守礼門が、この時代には、生きていたことが実感させられます。
さて、薩摩の支配以降、王国消滅までの270年間、
中国からの冊封使を迎えての儀礼や、江戸幕府への江戸上り儀礼、
中国と冊封関係を結んでいた他の国々を圧倒するほどの進貢貿易を行い、
欧米船の度重なる来琉(1797〜1851年)や、あらたに課せられた過酷な税に対処し、
中国・日本の、そのときどきの政策に翻弄されながらも、国家のプライドをかけて生きてきた南海の小国・琉球。
その時代の姿に改めて思いを馳せ、今回は終わりとします。
支配者としての琉球王国の姿、薩摩藩や江戸上りによる文化的な恩恵は、また改めてとします。
【注】画像の無断使用は禁止とさせていただきます。
主な参考文献
⚪︎「近世琉球の中国関係と冠船」麻生伸一、『組踊上演300周年記念・沖縄県立芸術大学ー組踊・琉球舞踊公演』パンフレット、沖縄県立芸術大学刊・所収、2019
⚪︎「基調講演 東アジアのなかの琉球」紙屋敦之、「講演 琉球の進貢貿易をめぐる一視点」真栄平房昭、いずれも『沖縄文化研究25 法政大学国際シンポジウム特集号』法政大学沖縄文化研究所刊・所収、1999
⚪︎「幕末期の琉球貿易」上原兼善、『琉球王国評定所文書刊行事業完了記念シンポジウム報告書』浦添市教育委員会刊行・所収、2002
⚪︎「琉球という国」麻生伸一、沖縄タイムス、2014-6-12、コラム「唐獅子」
⚪︎『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社刊、1983
私の愛するマリン(男の子、推定2歳、持病あり)
お陰様で、同居2年目の夏の終わりを元気に通過中です。
マリンは、いろんな表情を見せます。
段ボールのゴミ出しのとき、紙ヒモで遊ぶ様子。宜しければ、動画8秒(笑)