(ゲッキツ=月橘・シルクジャスミン。また開花しました。)



今回も、お付き合いいただければ、嬉しいです。



復帰50年に寄せて③世替わり-唐(中国)・大和の世(薩摩藩・江戸幕府)



沖縄で、時代の大きな変わり目を意味する"世替わり"。



琉球・沖縄の変転の世替わりが、端的・俗的に表現されている下記の歌詞に沿って、その歴史を辿っています。



唐の世から大和の世/大和の世からアメリカ世/ひるまさ変わたる/この沖縄(くぬ・ウチナー)

(嘉手苅林昌・作詞「時代の流れ」)



前回は、琉球王国(1329ー1879)が、中国と冊封関係にあった"唐の世"について、簡単に触れました。



次に来るのが、"大和の世"です。大きな節目としての"大和世"は、



概略すれば、明治政府により、1879年(明治12)に琉球の処分(公文書用語)武力で断行され、琉球王国が消滅、沖縄県として日本国家に組み込まれた時期からとなります。



今回は、そこに至るまでの期間を、私なりに、"唐・大和の世"(1609-1879)と名づけ、書いていきます。



薩摩藩・島津氏の侵攻に敗れ、その支配下に置かれながら、中国との冊封関係も維持していた二重属国の時代のことです。



特に、大和世(薩摩藩・江戸幕府)を中心に進めます。



2009年は、薩摩侵攻から400年の節目でした。


沖縄では、この歴史的な事件を照射し、検証する企画・催事がありました。手持ちの資料をご参考までにアップ致します。



(イベント・チラシ)


(本の表紙)



さて、江戸幕府を後ろ盾として行われた薩摩藩の琉球侵攻。



その主な目的は、琉球の島々の占有と、琉球の中国貿易の利益を得るため、とされます。



ときは、1609年(慶長14)の春。



薩摩藩の軍勢は、琉球王国が統治していた奄美大島などを制圧し、いよいよ琉球に攻め入ります(3月7日)。



「薩摩軍が奄美の島々を侵攻していることを知った琉球王府は和睦の使者を派遣しますが、叶いませんでした(比嘉康文氏、文献後述)。



80余隻の船に乗ってやってきた薩摩の軍勢3000人の前に、全面的な抵抗をすることなく屈服(4月5日)。薩摩藩(江戸幕府)の支配のもとに置かれることになりました。



最初に上陸を受けた北部・古宇利島(こうりじま)では、琉球側の兵士や農民たちが棒などで戦ったといいます(比嘉、同上)。



琉球では、尚真王代(1477-1527)に武器禁止令が出され、武器管理策をとっており、その当時は、一種の非武装状態にあったようです(王府の武器管理については、諸説あり)。



余談ですが、Wikipediaによれば、



英国人バジル・ホール(1788-1844)は、1816年、琉球を訪れ、那覇に40日ほど滞在。中国語のできる官吏・真栄平房昭を通訳として交流を深め、その時の記録を『朝鮮・琉球航海記』として著しました。



さらに、1826年の第3版『琉球その他の東海航海記』では、ナポレオンとの会見録が追加され、その中で「武器がなく戦争をしたことがない国」と、琉球を非武装国家として伝えています(ここまで参照)。



バジル・ホールの話を聞いたナポレオンは、「何?武器のない国があるだと!」と驚いたと言われています。




さて、薩摩藩は、琉球支配の拠点として、那覇に在番奉行所を設置(1628〜1872)。20人ほどの役人が常駐し、琉球側の動きを監視したとされます。



また、統治後から3年をかけて、琉球諸島の検地を実施、琉球の石高を決定しています(下地和宏氏、文献後述)。



そして琉球には、"江戸上り(江戸立ち)"と言われる、江戸幕府への臣従儀礼の任務が課せられました。



幕府の将軍の代替わり(襲職)時に慶賀使(けいがし)の派遣

琉球国王の代替わり(襲封)時に謝恩使(しゃおんし)の派遣が義務づけられたのです。


江戸上りは、

1634年(寛永11・将軍家光への慶賀)に始まり、

1850年(嘉永3年・尚泰王の謝恩)の終了まで、18回(延べ20回)、行われました。


(『沖縄大百科事典』上巻より転載)


江戸上り終了の背景には、


日本国内で明治維新につながる動乱が拡大していく時期にあり、


「幕府と薩摩にとって小国琉球にかかわっておれなかった」「つまり薩摩の侵略による琉球領有の意義は著しく変質を来たし」つつあったことがあげられます(宮城栄昌氏、文献後述)。



(イベント・チラシ)



江戸上りの人数は100人内外で、正使、副使、賛議官(吟味役)、掌翰使、楽正、楽童子ほかで構成。


王国の威信をかけて、学術・芸能等に秀でた人材が選出され、江戸における公式行事への参列、芸能披露も行われています。


幕府・琉球のそれぞれの代替わり時の2〜3年後に実施。薩摩藩の参勤交代に合わせて行われたようです。


一行は、海路・陸路で薩摩や日本各地を経由し、江戸に到着。往路4000キロ。宿泊、移動、警備などの費用は、琉球・薩摩・江戸幕府の三者が負担。


江戸での滞在期間は約1カ月。出発から帰国までおよそ1年を要する大がかりなものでした。


この儀礼遂行は、琉球にとって、経済的・精神的な負担となっていたようです。



(熱帯果樹・アセロラが開花!)



江戸上りで特筆すべきは、

異国風であること、唐(中国)風の装束を着けることが申し渡されていたことです。


その理由は、江戸幕府の異国支配の権威付けのため、とされます(宮城氏、同上)。


異国風の琉球人行列は、もの珍しく江戸庶民も多数、見物したとされます。

(『琉球・沖縄史の世界』より転載)



江戸幕府への献上品の一覧です。

時代によって種類・数量などに変化があります。

(『琉球使節の江戸上り』より転載)


"香餅"とあるのは、下記の薫餅(光餅=クンペン・クンピン)でしょうか。


芭蕉布や太平布(宮古上布)、琉球漆器の加飾技術・堆錦(ついきん)の硯屏(けんびょう)なども献上。


その背後に、献上品を生産する人々の苦労(技術者の場合は誇りか?)があったと思います。


薩摩藩は、琉球からの派遣者を"召し連れる"と表現していて、琉球側のプライドは、いかばかりであったか。


薩摩侵略直後の1609年5月17日、敗戦処理のため、尚寧王は琉球を発って鹿児島へ。


鹿児島で10カ月ほど留めおかれたのち、翌年の4月、江戸へ向かっています。そのかん、江戸では琉球の処遇についての議論があったのではないか、と推測する研究者もいます。


下記はその時の旅程表です。


ここでの表現は、「島津家久に伴われて」とされていますが、"捕虜として連行される"と書かれている資料もあります。


表題に、江戸上りとありますが、正式な江戸上りではありません。



(『"江戸上り"歴史と文化の交流』より)


8月16日、駿府で徳川家康に謁見の際、

家康は、家久に対し、「徳川が天下統一した早々に異国を征伐し、その王を連行してきたのは大勲功」だと賞賛したようです(影山建樹氏、文献後述)。


沖縄では、江戸上りの長旅の途上で病没し、いまも異郷に眠る先人たちに、芸能を奉納し追善供養するツアーがあり、私も40代のころ参加しました。


瑞泉寺(名古屋市)、西見寺(浜松市)、清見寺(清水市)にて追善供養。


下記は、その時の資料です。



つい最近、先人たちの"江戸上りの旅"を身近に感じる文章を地元紙の投稿欄で拝見しました(田本恵子氏、文献後述)。



1790年、徳川家斉の将軍即位祝賀のため、薩摩に向かっていた琉球王府の使節船が大しけに遭い、長崎県の崎津港に漂着、崎津の方々に救助して貰ったことを天草の旅で知ったという内容でした。



それによれば、琉球使節団は、お礼に、杉ようかん、という餅の作り方を教えたそうで、今に伝わっているとのこと。



天草・崎津の、"杉ようかん"。

杉の葉は香り付けと防腐剤の役割があるそうです。



(南風屋の杉ようかん ネットより)


その方は、杉ようかんに、沖縄のサンニン(月桃)の葉で包む"ムーチー(鬼餅)"を連想したそうです。


サンニンの葉も、香り付けや防腐剤として使用されます。


(ムーチー、沖縄県のネット画像)



"江戸上り"や薩摩藩との関係においては、琉球にとって文化的な意味でプラス面もありました。次回、少し触れたいと思います。



長くなりましたので、今回は、ここまでとします。

主な参考文献
⚪︎『琉球使者の江戸上り』宮城栄昌、第一書房、1982
⚪︎「島津軍が最初に上陸した古宇利島」比嘉康文、「宮古から見えるもの」下地和宏、いずれも『薩摩支配400年 琉球処分130年を問う」同編集委編・刊、2009に所収
⚪︎「"江戸上り"歴史と文化の交流(沖縄芸能奉納の旅)』野村流古典音楽保存会、1999
⚪︎「琉球王使節"杉ようかん"を伝授」田本恵子、琉球新報[ティータイム]2022-8-5付
⚪︎『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社編・刊、1983
⚪︎『琉球尚家と歴史の流れ』佐野明生、発行年不明
⚪︎『琉球使節とその音楽』影山建樹、1996





私の愛するマリン(推定2歳、男の子、同居2年目の夏)


お陰様で元気な日々です。

リビングのカウンターの上で仮眠するときもありますが、ぐっすり眠りたいときは、そっとフェードアウト。


その日の気分や天候により、眠る場所が変わります。


眠りから覚めると、必ず「起きたよ〜」と鳴きながらやってきます。


そのときは、私も最大級の歓待で、全身をまさぐってあげます😆


床に寝転んで撮影


皆さま、今日もご訪問、有り難うございました。


まだ、前回の訪問途中ですが、先にアップ致します。ゆっくりのお訪ねになることをご了承下さい。



終戦記念日。沖縄では、毎日のように沖縄戦の記事が地元紙に載りますので、戦争をいつも身近に感じています。私は、非戦の心で生きています。


皆さま、どうぞお元気でありますよう!


(8月16日  午前5時30分 気温29度  南風あり 玄関先にて)