アグネス・チャんこの世界 -3ページ目

アグネス・チャんこの世界

アグネスの世界へようこそ

私は中国留学を2回経験した。


1回目は2005~2006年の10ヶ月を上海の復旦大学、

2回目は2008年の夏に2ヶ月を長春の吉林大学にてだ。

いずれも語学留学だった。


中国の大学の留学生用の教室には必ず、大きな世界地図が

掛けられている。いずれも紙なのだが、表面がテカテカした材質の地図で

両面テープみたいなもので留められている。


私は中国留学中に (上海でも・長春でも) よくその世界地図を掃除して各教室を周った。


どうゆう事かというと、世界地図によくボールペンで日本海や日本の

領海を示すところに落書きがあったからだ。


中国の地図の日本海を表すところにはちゃんと『日本海』と書いてあるのに、何故か教室の地図には日本海と言う文字に大きくバッテンがつけられていて、その上に大きく「東海」と書かれていた。これはだいたいどこの

教室にも共通していて(上海でも、長春でも!)、その日本海という文字の上のバッテンを水をつけたティッシュで擦って消しても、数日するとバッテンがまたついていた。


また、ひどい物になると、明らかに日本に対する誹謗、中傷的な文字が

書いてあったのでそれもよく消しておいた。


この件について面白い点が3点ある。


 一つ目は、上海でも長春でも同じ現象が見られたこと


 上海だけでこの現象が見られたら、たとえ留学生のほとんどの教室の

 地図が落書きされていても、たまたまだと思えるけど、遠く離れた長春でもそのような現象が見られたので、この落書き主の国の国民性として「地図上で間接的に日本を攻撃する」というものがあるかもと個人的には思った。


 二つ目は、


 その様な落書きを見ても何とも思わない日本人学生が多いこと。


 三つ目は


 その様な落書きを見ても恥ずかしいという気持ちにならない、落書き主の

 国の学生が多いこと。



特に個人的に一番いただけないのが、2番目の、日本人学生が気にしない事だと思った。


なんで、気にしないんだと日本からの留学生に聞いた時に

「別に俺の事じゃないしどうでもいい」

「そんな事でいちいち目くじら立てても生産性がない」

というのが彼らの意見だった。



私は人からの批判は受け入れるけど、扱き下ろされるのは好きでない。

なので自分のアイデンティティの要素、家族、友達、会社、出身大学、

国、故郷、、、、等々を批判ではなくて扱き下ろされた場合も、たとえ相手が誰でも、一応自分なりの意見は言ってしまうタイプなのだ・・・・・・・

なので、結構中国では波風立ててしまった。。。


一度こんな事があった。


中国語の授業で自国の紹介のスピーチをする事になり、私は日本各地の特色が分かりやすいように、コメント入りの日本地図を書いて、資料として用意しておいた。


それを配って、一通り日本の紹介を終えた時に、

一人の韓国人の学生が手をあげて


「この韓国と日本の間の島に『竹島』って書いてあるけど、これは韓国の領土で『独島』だ。勝手にこんな事を書くな」


と言いだした。内心しまった!と思った。

なぜなら「現在日本と韓国で領有権をめぐって議論がある場所」、という説明を地図上に加えるのを忘れていたからだ。

クラスメイトは日本人と韓国人だけではなく、欧米や南アメリカの学生もいたので、本当に純粋な国の紹介、と言う意味で書いただけだったのが、

配慮が足りず、韓国の学生の神経を逆なでしてしまった。


またその韓国人の学生は


「北海道が他の民族の土地だったのに、大和民族が入植してそこの言語が途絶えた、とか言ったら、俺ら韓国人は日本に占領された時を思い出して、俺らも同化させられてたかも、と思って嫌な気分になる」


と言った。


私は 


「むしろその歴史が無かったことだと思ってる日本人がいたらそっちの方が良くない事で、その歴史を忘れない事が同化させられた民族に対する尊重だと思ってる。だからこうゆう事もあったのだと、外国のみんなにも知って欲しくて発表したまでで、別に大和民族の侵略を誇る意味で言った訳ではない。そこら辺は汲んで欲しい」



と言った。


そして竹島についてはまだ決まってないのに配慮が足りなかった、と素直に認めた。


そしたら他の韓国人までも「まだ決まってないんじゃなくて、あれは韓国ののもなんだ!」と怒り出した。


そこですかさず、オーストラリアの学生が


「私はアジアの人間じゃないから客観的な意見言うけど、その問題については国際的にはまだ決まってないのが現状なんだから、日本人は日本のものだという権利があるし、韓国人は韓国のものだと言う権利がある。それでいいと思うし、それが一番自然だと思う。今日は国の紹介ってコンセプト通り、日本側の意見が出て、韓国側の意見も出たんだから、有意義じゃないか!」

と言った。そしたら韓国人以外の学生から

「良いこといった!」

と欧米のノリで拍手が興った。中国人の先生まで拍手をしていた。

韓国人の学生は不満げだったけど・・・・・


この件は私自身が種をまいたので、レアなケースだけど


中国の大学では日本人は他の留学生や中国の学生から

批判されることが良くある。


そう言った際、日本人の学生はたいてい

うまくはぐらかしたり、「別に私は気にしない」

という態度を貫いていた。

一方私は必ず流す事なく、私なりの意見を言っていた。

他の日本人に良くそうゆうのはキリないと言われていたけど、

中国語の練習も兼ねてとことん話してきた。



いろいろ国の事を聞かれて流すよりは話した方が良いと思ってた派なので、手を挙げて反論してきた韓国人は日本人と違って偉いな~と思ったりした。



てな事で、中国留学を通じ色々聞かれた経験から、

結構歴史とか国と国の関係とか

外国人と互角にやっていくためには・・・等々に興味があり

それなりの勉強をしてきたけど、社会人になって事態は一変した。


もう現在では新聞も読まなくなったし、歴史、経済についても

興味はありつつも、積極的に学ぶ姿勢は封印されてしまった。

なぜならどんな事言ったとしても

一番大切なのは「自分の生活を支えること」じゃないかと思うようになったからだ。


自分の義務を全うし、生活を支える事が出来てこそ、その他のアクティビティーが出来ると今は思っている。












 

















この間、東京の歴史を学ぶ遠足を実施した。


第一回目は東京の下町を学ぼう、というコンセプトで

スケジュールは以下のようになった。


ホルモンの聖地青砥にてホルモンの試食

   ↓

浅草散策

   ↓

吉原見学

   ↓

山谷見学(宿泊)

   ↓

浅草散策



実は葛飾区民でありながら、青砥がホルモンの聖地だと

今まで知らなかった。


面白いのが、夕方4時に青砥についたら、

すでにシャッターの閉まってる店が多かった事。

人気の店は3時くらいで閉店するそうで、

ホントのホルモン通の間では午前11時くらいに入店して、

1時くらいには既に出来上がるのが常識とのことだった。


実は私ホルモンに対して特別な感情は持っていなかったけど、

今回青砥のホルモンが美味しすぎて、しかも安くて、すっかりホルモン好きになった。

青砥ホルモンの魅力は、味、値段だけではなく、下町ならではの昭和の趣も大きく加担していると思った。


そこで店内を流れる演歌とホルモンを肴に日本酒をちびちび飲むと、

誰もが日本に生まれてよかったと思うハズ!

今回はちょっとスタートが遅かったけど、次回は必ず11時入りでホルモンを味わいたいと思う!




アグネス・チャんこ -ホルモン


結局ホルモン屋を2件はしごして、



それから夜の浅草見学へ行った。


夜の仲見世通りはきれいにライトアップされててきれいだった。


それから、吉原を見学した。

吉原はどこの駅からも離れてて行きづらかった。

その行きづらさが吉原が生き残ってる理由なのかもね、、、


昔、警察の用語で赤線の地域と青線の地域とうのがあったそうな。

地図の上に赤の線で囲った地域は売春OKと警察も認めた地域で、

赤線地域の外は青線で囲った地域で、その青線は警察の都合によって

取り締まったりガサ入れしたりするよ、という地域だったそうだ。


吉原はまさに赤線の代名詞。

代名詞なだけあってさすがにあの店の多さや、町全体のやる気には感激した!


ちなみにアパレル業界に勤める私は、この赤線・青線 という言葉を聞いて

最近よく聞く『赤文字系雑誌』『青文字系雑誌』というカテゴリーが思い浮かんだ。


赤文字系雑誌とはCanCanとかViViとかのOL系、つまり男ウケ系の雑誌で、

青文字系雑誌とかSoupとかの原宿系というか、POPな女の子用の雑誌の事だそうだ。


わざわざ赤と青で分類しているあたりが実に近いですね。しかも両方とも女関係。

この雑誌のカテゴリー分別は遊郭の区域分割に由来しているのかも知れないと思った!


もちろん、高級地域である赤線の遊女は多分CanCan系のえびちゃんレベルだったと思うし、

いつガサ入れが入るかわからないような不安定な青線の遊女は青文字雑誌の素人っぽい女の子

だったと思う。


こう考えると、いろんな事が繋がってるんだなぁ~と思いますね。





話は戻って、夜は山谷にて一泊。

山谷は昔で言うドヤ街で、地方から出稼ぎの季節労働者が宿泊する
ための安い宿がたくさんあって、大体2000円くらいで泊まれる。

私がとまったのは通常なら3000円の高級な宿。

でも従業員との知り合い割引で2500円で泊まれた。

部屋は3畳だった。私が泊まったことのある宿の中では一番狭い宿だった。



アグネス・チャんこ -宿



ちなみに中国の話になっちゃいますが、中国で地方からの出稼ぎ労働者が泊まる宿を

『招待所』 (発音は『ジャオ・ダイ・スヲ』)というのですが、

私、中国国内を旅行するときにはもっぱら『招待所』ばかり泊まっていました。

アベレージ一泊日本円で400円くらいで、思い出すだjけでも鳥肌が立つくらい

衛生環境が劣悪であると同時に、待機の売春婦と相部屋だったりして、

もれなく中国社会の底辺を垣間見れるという、プライスレスな経験が出来る場所でもありました。


中国の労働者の宿を経験済の私にとって山谷はまだまだ甘く思えた。

でも私が垣間見た山谷もまだまだ一部なので、これからもっと攻めてゆこうと思う!

話はまた東京見学に戻り、、


山谷で一泊後、

南千住で有名なコーヒーの老舗『バッハ』にてモーニングをした。


http://www.bach-kaffee.co.jp/


そしてその足でまた山谷に戻り

山谷人(サンヤ人)の炊き出しを見学したあと

浅草に戻るべく、また吉原を通った。

その時、吉原の入り口である吉原大門の横に

馬肉の料理屋があった。

趣のある建築&店構えで一目で老舗である事がわかった!

どうしても、そこで馬肉が食べたくなって、一緒に東京見学している友達に

そこで食べようと誘ったところ、金欠だから無理と言われたので

後ろ髪を引かれる思いで、店を素通りした。



このようにして泊まりがけで遊んで家に帰ったら

上海に居るはずの父親が家にいてサンデージャポンを見てた。


そういえば母親に

「明日お父さん帰ってくるから、お父さんにご飯食べさせてね!酒飲みすぎないように監視しててね!」

と前日に頼まれたような・・・・・・・

(母はその日に前々から決まってた旅行があったので、会議のため急遽帰国した父にスケジュールを合わせられなかった)


せっかく帰って来たのに、妻は旅行、娘はどこにいるのか一晩中帰って来ない、、、マジ可哀そうな鵜のような

父親を不憫に思った。(鵜将は母)


父は私を見るなり


「おい!一晩中帰ってこないでなにしてたんだ!」


と不機嫌そうに言った。


「普通に友達と遊んでた」


と極あたりまえのように答えたら


「そっか!」


と言って父の機嫌はすぐに直った。

友達と遊んでた、ってだけの10文字の弁解で十分だったらしい。


とは言えちょっと可哀そうだったので、一応形式的にいっちょ自己開示しとくか、と思い。


「え~昨日はさ、新宿で話しかけられて友達になった明治大卒の男友達と、

その友達の友達のアパレル関係で自営してるオジサンと、吉原見学してさ、

それから勢いで山谷で一泊したんだよね!一応東京の歴史を学ぶってコンセプトで!」


「おー!そうか!あれは特殊なエリアだからな!おもしろかっただろ、でもそうやってて

勉強してて偉いな!」


と褒められた。


そして吉原大門の馬肉の料理屋に行きたかったけど、行けなくて残念だったと言ったら

父は喜んで


「あの店オヤジしってるよ!おじいちゃんがあの店大好きだったんだよ。おじいちゃんが事業失敗する前の

羽振りがよかった時、オヤジまだ子供だったけど家族で良く食べに行ったよ!」


と言った。


「あの店、吉原大門のそばにあるだろ、だからおじいちゃんもそうだけど、あそこで馬肉食べて

元気つけてから皆吉原に行ったんだよ。だから昔から有名でずっとあるんだよ」


と言った。


へ~~~


自分が偶然前を通りかかって良いなと思って魅かれた店が、

自分が7歳の時に死んだおじいちゃんのお気に入りの店だったなんて

歴史のロマンというか血脈のロマンを感じますね!


「それって、すごい偶然だね~!やっぱ私にもおじいちゃんの血が流れてるんだね!」


「そうだな!おじいちゃん生きてたら喜んだだろうな!」




というアホ会話を交わす日曜の昼さがり・・・・・・・・・・・・・・・























 

先週金曜日、知り合いの主催するパーティーに参加すべく仕事を7時に切り上げ、六本木に向かった。
 パーティー会場のバーについたは良いけれど、ほとんと人がいなかった。バーテンのオーストラリア人に「I heard a party would be given here tonight, is it canceled or something?」と聞いたら、パーティーがあるのは明日との事だった。多分それはまた別のパーティーだな、と思いつつ、バーテンのオージーはタイプじゃなかったのと、そこでかかってた音楽が好きじゃなかったので店を後にした。(もしタイプだったら、音楽がマシだったらそこで飲んでも良かった)
 ちょうどその日は携帯を忘れたので、主催者の友達に連絡を取るすべはなく、仕方ないので折角だし夜の六本木を一人で楽しむことにした。
 とりあえず、何か高い物を食べようとうろうろした。そして何気に外国の料理屋が多い事に気付いた。アフリカ料理の店を発見したので興味本位でちょこっと覗いてみた。ドアを開けたら黒人しかいなくて、しかもその黒人たちはお客さんってより、みな店主の友達って感じで、一言で言えば店は奴らの溜まり場だった。彼らがたまってるのは良いとして、イラッと来たのは店内の臭いだ。店のドアを開けた瞬間からエグシ臭が怒涛のように押し寄せてきた。エグシ臭とは、エグシスープのにおいの事で、エグシスープとはおそらくアフリカ全土で食べられているアフリカの郷土料理のことだ。日本で言う味噌汁みたいなもので、彼らにとって欠くことのできないスープだ。そのスープにトウモロコシの粉を捏ねたモチみたいなのを浸して食べるのだ。ちなみに私はこの世の中で一番まずい食べ物はこのエグシスープだと断言できる。むしろ、あのまずさはもはや食べ物ではないと思う。中国にもまずい食べ物がたくさんあったけど、大抵はまずくても一応「おいしい」と言って無理して食べる事が出来る。けれども、エグシスープだけはお世辞、無理の余地がない。アフロなbuddyのホームパーティでエグシスープが出た時、
「Hei Sis! this is our African taste! give it a shit!」
と言われ、絶対食べないといけない空気になり、恐る恐る食べたんだけど、ガチ不味くてアフロなGUY達の目の前でリアルに吐いた。あまりの未知との遭遇加減に
「Fxxk! This tastes like a piece of crxp!」
と言ってしまったくらいだ。その場にいたbrother とsister 全員を敵に回してしまった。そんなガチでグロいエグシ臭をまさか、六本木、つまりギロッポンで嗅ぐことになるとは・・・・・・。なんか自分の人生が虚しく感じられた。
今からでも十分人生はやり直せる!と気を強く持ち、アフリカの店を後にし、引き続き
六本木を徘徊した。捨てる神あれば、拾う神あり、とはまさにこの事。偶然『JAZZ BAR since 1964』の看板が目に入った。良く意外に思われるんだけど、私はjazzが大好きだ。Ipodの中のjazz率は4割だし、高校の時はjazz同好会でピアノ担当していた。そんなjazzが好きでもプロの演奏とか歌は生で聞いた事なかったので、結構高そうだったけど迷わず店に入った。地下にあるバーなんだけど、1964年からやってるだけあって、めっちゃ味わいがある店だった。
古き良き時代のアメリカはニューオリンズを思わせる、シックでちょっと薄暗い店内で、
Jazzを楽しむお客さんは、白髪が良い感じのおじ様(総合商社のお偉いさん、62歳)、音大の教授(48歳)とその不倫相手の音大の事務職員(29歳)、セレブ妻グループ(成城大学前、もしくは白金在住、自宅はセコムついていて、訳のわからんやたら高そうなヨーロッパの血統書つきの犬を飼っている)以上のような人たちだった。ま、彼らのプロフィールは全て私の予想だけど。だって飲みの席で昼間の世界で何やってるかなんて聞くような野暮な真似は出来ないぜ!
 9時からプロのピアニストと歌手が来てジャズが始まり、本物の音楽にすっかり陶酔した。斜め横に座ってた音大の教授は更なる陶酔加減で、完全に瞼を閉じ手を胸の前で小刻みに動かしてた。脳内が完全に異次元行っちゃって、妄想の中で彼は指揮者になっているのか、それとも隣の不倫相手に「音楽って魔法なんだよね」って感じで自分の芸術家肌さ加減をアピールをしてるのか、一体どっちだろうか結構気になったりした。
 演奏がひと段落ついて、MCが
「jazzやりたいお客さんどんどん参加してください!」
と言ってからは、お客さん参加型jazzになった。総合商社のおじ様がピアノを弾いて、それに合わせて歌手が歌を歌ったり、ピアニストがピアノを弾いて、それに合わせてお客さんが歌ったりが始まった。お客さんと言えども、本気で音楽をやって来た感じの方々なので、演奏、歌声がとても奇麗で感動した。てか、何の打ち合わせもなく良く音程とかスピードとか合わせられるなぁ、と感心した。私も見る人に感動を与える何らかの特技があったら良かったのに、と思った。私も何かやらないか、とバーのお姉さんに勧められたけど、
「私なにも音楽出来ないんです」
と白状し、でも音楽、特にjazzは大好きだし、音楽で人を感動させられる人はマジかっこいいと思う!的な事を言ったら
「じゃ、知沙ちゃんの事みんなに紹介するよ」
といって他の客さんとか歌手の人を紹介してくれた。そして飲みながらjazzのもろもろについて教えてもらえた。
 いろんな人と話せて、しかもjazzの勉強ができて、酒もおいしくて、音楽も聞けてとても有意義で楽しい夜だった。飲みっていろんな人と話せるし、その話題からもいろんな事を学べるから、飲みこそが私の人生を豊かにするものだとその夜に実感した(前々から感づいてはいたけど)。まさに「No飲み、No Life. 」だ!!!
何らかの特技があったら良かったのに、と思った。私も何かやらないか、とバーのお姉さんに勧められたけど、
「私なにも音楽出来ないんです」
と白状し、でも音楽、特にjazzは大好きだし、音楽で人を感動させられる人はマジかっこいいと思う!的な事を言ったら
「じゃ、知沙ちゃんの事みんなに紹介するよ」
といって他の客さんとか歌手の人を紹介してくれた。そして飲みながらjazzのもろもろについて教えてもらえた。
 いろんな人と話せて、しかもjazzの勉強ができて、酒もおいしくて、音楽も聞けてとても有意義で楽しい夜だった。飲みっていろんな人と話せるし、その話題からもいろんな事を学べるから、飲みこそが私の人生を豊かにするものだとその夜に実感した(前々から感づいてはいたけど)。まさに「No飲み、No Life. 」だ!!!
相田みつをを習ひ、(人間だもの)の
一言に己が無能、己が弱きを、せん方なきやう語る我にて
悩みの深きはあらねど、己が現状に留まりし事ぞ恐ろしけれ。
オズの魔法使いの作者

【作者】
ラフマン・フランク・ボーム(Lyman Frank baum)1856-1919
9人兄弟の7番目として生まれる。
幼い頃は在宅で両親による教育を受けていたが、12歳の時空想癖を直すために石油王である父親によってピークスキル陸軍士官学校に入学させられた。
2年間在学するが持病の心臓発作により退学する。
自宅に戻った彼は自分の印刷機で地域新聞を発行するなどし、芝居にも傾倒する。やがて彼は1878年にプロの俳優となる。
 彼は26歳の時に当時のアメリカでもっとも有名であった婦人参政活動家Matilda Joslyn Gage の娘Maud Gageと結婚する。
結婚後職を転々としていたボーム家の暮らしぶりは貧乏だったが、妻の母マチルダは2人の生活に理解を示し、子育てを手伝いに来たり、ボームに執筆活動のアドヴァイスを与えたりしていた。彼は義理の母を心から感謝し尊敬していた。


一言で言えば、心臓が弱くひ弱な坊ちゃんが厳しい父親に無理やり向かない軍隊の学校に入れられ、落第。その事に対するコンプレックスが彼の創作上の基盤となっていた!
有名なフェミニストの娘と結婚し、またフェミニストな義理の母に影響された事も上記に次いで彼の創作上の基盤となっている。



【作品の時代的背景】

【作品の時代背景】
① 1890年、フロンティアが消滅

それまではアメリカの希望は未開の国土の開拓に託されていた。しかしフロンティアが消滅したことで希望を失ったアメリカ国民は初めて自国の現状と対峙せざるを得なくなる。しかし【国土の拡張=発展、希望】という神話は生き続け、こんどは国外で領土拡張政策が推進される(セオドア・ルーズベルトの棍棒外交)。

② 産業化、工業化、都市化、
南北戦争後に、北部の勝利により産業化、工業化、そしてそれに伴う都市化は始まっていたが、フロンティアの消滅により、アメリカは産業、工業を新しいフロンティアとみなし期待をかけるようになる。

③ テクノロジーの流行
工業化の流れでの中で、電話・電燈・電力・電車・活動写真機・タイプライター・ライト兄弟の飛行機などテクノロジーも進歩する。そして1893年にはシカゴ博覧会が開かれ、そこでは近代都市のユートピアを作り上げる。テクノロジーの発展讃美の風潮が強くなり、テクノロジーの発展もアメリカにとって新しいフロンティアとなる。


④ 「新しい女」の台頭
産業化、工業化の流れで、女性の在り方が変わる。高度な教育を身に着け、社会に出る女性が増え、そのような女性は「新しい女」(New Women)と呼ばれ、それまでの男性優位主義やその中でつくられたた「女性のあるべき姿」を否定する。女性参政権運動やフェミニズム運動も盛んとなる。


⑤ Freak Show / Side Show (見世物小屋)が流行る。
数ある見世物小屋の中でもPhineas Taylor Barnum (July 5, 1810 – April 7, 1891)の率いる見世物団は絶大な人気を誇った。フロンティアがなくなり、未知の領域が国土に無くなったアメリカだが、まだ未知の物が身の回りにある事を見世物小屋を通じて人々は感じる事が出来た。これが見世物小屋がはやった背景である。

   ↓ 当時の見世物の人たち 

http://www5.plala.or.jp/OBA9ANI/sideshow/classic/index.html

                     




オズの魔法使いを読むときの視点



他の少女が出てくる文学との比較

あしながおじさん、小公女、赤毛のアン、少女ポリアンナ等々、
昔のアメリカの少女が出てくる物語のたいがいが、少女の成長の物語だ。
その成長のプロセスはおしなべて、孤児、もしくは家庭的に恵まれない女の子が、ある事をきっかけに家庭の大切さに気付き、家事を覚え、道徳心を身につけるというのもで、そのゴールは必ず身分の高い(もしくは裕福な)男性に庇護される、というものだ!
(1800年代のアメリカの少女小説は家庭の良さや、キリスト教の道徳観を主人公の成長(時には堕落)を通じ少女に教えるものだからそうゆうストーリーラインになる)
 言ってみれば、少女が最初から家庭の良さを分かっていれば成長の余地がないって事で物語は始まらないのだけど、オズの魔法使いでは最初からドロシーは家庭の良さを知ってる。竜巻によりオズの世界に飛ばされた時にドロシーはすぐに北の魔女に
「カンザスに戻りたい」と言っている。


1939年に映画化されたオズの魔法使いでは意地悪なエムオバさんが描かれ(原作では意地悪とまでは描かれていない)、白黒のシーンでカンザスの陰鬱な様子も描かれている。その中でドロシーはカンザスから離れた土地に行くことを願う少女として描かれている。その時にドロシーの歌ったover the rainbowは彼女の逃避願望を表している


Somewhere over the rainbow
Way up high
And the dreams that you dreamed of
Once in a lullaby
Somewhere over the rainbow
Blue birds fly
And the dreams that you dreamed of
Dreams really do come true


しかし映画のラストはオズの国からカンザスに戻ったドロシーが”there's no place like home”と言い【家庭の良さ】を悟り、終わる。
 けれども原作では、従来の少女小説のゴールであった家庭の良さをドロシーはスタート時点ですでに知っている。それに、作品中に道徳と言うキーワードも出て来ない。ドロシーはスタート地点からすでにゴールに立っているので、少女小説につきものの少女の成長(もしくは堕落)もこの作品では一切描かれていない。この冒険で成長した物がいるとすればドロシーというより、むしろ脳を手に入れたカカシや心を手に入れたブリキの木こり、勇気をもらったライオンのように思える。


① フェミニズム文学、という視点
 この物語は奥さんのために書いたものであるとボームは物語の初めのページに書いてある。奥さんはアメリカで当時有名なフェミニズム運動の権威の娘であり、またボーム自身も義理の母を尊敬していた。その事からもこの作品はフェミニズム的なメッセージのある物と考えてよいと思う。考え付く限りで3つのメッセージを挙げる。
・オズの国を治める4人の魔女はすべて女性である。(Ozは男性であるがイカサマなのでカウントしない) これは当時まだ女性に参政権がなかった事実や、また、家庭でも夫の従属的立場にとどまるべき、という価値観に対する反発ではないか。4人の魔女はフェミニズム的な観点による理想像ではないか。
・物語に伝統的な家族を持っている登場人物がいない。当時アメリカでは女性の社会進出により結婚しない女性が出現した。それは白人の出生率低下の一つの要因となった。工業化の流れで移民も増え、白人の人口が移民に凌駕される危険が生じた。本作品出版5年後の1905年にセオドア・ルーズベルト元大統領は、結婚しない子供も産まない白人女性に対し「人種の自殺」であると非難するにまで状況は深刻化した。それに対してフェミニストは猛反発した。
・西の魔女がドロシーに罰として家事をやらせる、それに対し反発するドロシー
 木こりの婚約者の同居者は家事をその婚約者にやらせ続けるために東の魔女と契約する
女性解放期の初期は家事を圧倒的なものだと説くことがテーマのひとつだった。家事は賃金が払われず、正当にも評価されず、骨も折れる作業だとフェミニストの間では見なされていた。『若草物語』や『赤毛のアン』で主人公が楽しく家事(パンを焼いたり、長靴下をあんだり、パッチワークをしたり)を学んでいるのとは異なる。


② アメリカの社会の反映、という視点

・それぞれのキャラクターやモチーフがその時代のアメリカの状況を表している。

カカシ・・・・カラスに馬鹿にされたあげく、畑をあらされた。自信を失くした農夫

1880年代の土地ブームで開拓者たちが土地を求めて開拓地へ殺到する。しかし1887年にはには旱魃が起こり、土地ブームの後に起きたデフレが農家の経済的苦境に追い打ちをかけた。

 ライオン・・・百獣の王でありながらも弱虫。男らしさの特権を保持しにくくなった男性。
19世紀末に男社会の実業界に女性が進出し始めた。また近代化の中で男女の生活領域がより徹底して別れたため、家庭は「女の領域」となる。その中育てられた少年は女性的な価値を刷り込まれ成長した。この時代から一人の男性の中で男性的な男性性と女性的な女性性が葛藤しながら共存するようになった。

 ブリキの木こり・・・もともとは婚約者のいる人間であったが、東の魔女に魔法をかけられ、斧がすべって自分の体を徐々に無くしてゆく。そのつどブリキで体を補って行ったので最終的には体がすべてブリキになってしまった。産業化により機械的労働に従事するようになった辺境開拓者 
ブリキは金属であり、機械化を表す。職場が家庭から分離する(木こりが結婚できなかった事で暗に示されている)産業化の中で男たちは戦場と化した競争社会で感情を切り離して働いていた(木こりに心がない、という事で示唆されている)

 オズ・・・・・偉大な魔力を持つとされたペテン師。当時のアメリカ像。
・1807年にシカゴで大博覧会が開かれ帝国主義的な国際性が示される。しかしアメリカの実情は同年の金融大恐慌で農民や労働者は苦境にあえいでいた。
・フィリピン・グアム・プエルトルコなど、属領にする。キリスト教の宣教による文明化、個人の自由の喧伝という大義名分の下で、民族的、人種的他者の植民化というぺテンを行った。
 
黄色いレンガの道・・・・金とかお金。行きは黄色いレンガの道に沿って歩けばよかったが、帰りは銀の靴でしか帰る事が出来ない。これは金銭的なものを追求していれば良かったフロンティア時代は終焉を迎え、他の価値観を生きる指針にする時代の訪れを示唆しているのだろう。(銀はメタル、つまり工業製品、機械化、を意味している)


③ その他の視点
バーマの見世物小屋の流行がこの作品に大きな影響を与えた、という視点
・この物語にはまともな人間がドロシー意外に一人も出て来ない事やグロテスクな表現。
・William Wallace Denslowによるグロテスクな挿絵。

しかも原作では当時珍しい全部カラー図。

↑これら2点がこの作品がヒットする大きな要因の一つだった。


 同性愛者のための物語、としての視点


“Friend of Dorothy” はゲイの人々の間で、ゲイである自分たちのアイデンティティを示す言葉となった。映画の中でドロシーを演じたJudy Garlandはゲイ界のエルビス・プレスリーと呼ばれカリスマ的存在になり、彼女のコンサートはゲイの集まる場所となった。彼女自身がバイセクシャルであった事、またストーリーの中でドロシーはqueer people(物語の中では”小人たち”を意味する。 ”queerは奇妙という意味があると同時に、“ホモセクシャル”という意味がある)を差別する事無く受け入れている事から、彼女がゲイのカリスマになれたのだと考えられる。(またドロシーは外見は男でありながら、内面は女々しいライオン、つまりゲイの象徴も受け入れている)

現代では「虹」はホモセクシャルの象徴とされている。
この映画の主題曲over the rainbowによって虹がゲイのシンボルになったのではないか。
・1958年のBreakfast at Tiffany's(作者のカポーティーはホモセクシャル)ではプリズム、つまり虹のイメージが多用されている
・1978 年にRainbow Flagが考案された。これは同性愛のシンボルとして国際的に有名になり、ゲイパレードの際掲げられているのが多くの国で見受けられる。
新宿二丁目のゲイのお祭りも「東京レインボー祭り」






高校に入学した時、英語の授業の教科書がこの「オズの魔法使い」の原作だった。
中学英語を終了したばかりの16歳が読むには難しく、当時通っていた英語の先生に
「英語難しいし、内容だって本当につまんないから嫌になっちゃう」
と愚痴った時に、強い北欧の女、スウェーデン人の先生は
「それはね、アグネス・チャんこがその物語にかくされた心理とか分かっていないからつまらないんだよ。よく読んで研究すれば面白いんだから」
 と本気で切れられた。
その時私は
「16歳の英語もままならない人に対して、英語で書かれたストーリーの物語の心理を勉強しろ、って本気で言うなんてどんな理屈だよ!」
と半分この人アホなんじゃないかと思った。

でも今だから言えるけど、オズの魔法使いに描かれた心理は面白い!