アグネス・チャんこの世界 -2ページ目

アグネス・チャんこの世界

アグネスの世界へようこそ

久々に見たインド映画です。 
4時間(インド映画としては短い方)の大作でしたが面白くて一気に見れます。 

それにしても、このDVDのジャケットが非常によくできています。

インドの灼熱と砂の大地をよく表していて印象深いです。

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不可触民、シク教徒、ムスリム、ヒンドゥーの霊能者など

インドならではのキャラクターの登場がこの映画に色を添えます。 

イギリス人とインド人がクリケットで勝負する 
内容から、インド人のアンチ・ブリティッシュ 
感情のはけ口の映画かと思いきや、

本作の中では、イギリス人は公平心のある人々として描かれていて、

『インド人の自立』的な事のみにテーマが絞られていた所が清々しい! 

いや~インド人。良い民族ですね☆ 

エンドもインド映画らしく心地よいハッピーエンドでした☆ 

 

 

私が最も好きな作家のひとり、在日コリアンの小説家、梁石日(ヤン ソギル)の小説。

 

 

 

 

 

舞台は二十世紀初頭の済州島。
当時の済州島の両班階級には男子が8才頃になると、

18際程の少女と結婚させる風習があった。
これは、『結婚してこそ一人前』という儒教の教えに則り

、家督を継ぐものを一人前だと周囲に見せるため、

代々受け継がれてきた風習だった。

主人公はそのような風習で8才の夫に嫁いだ春玉、18才。

 

 

感想

 

 

20世紀初頭の両班の生活が非常に良く表されている

日本の朝鮮統治がどのように始まったかと言う経緯がわかる

 

家郷での抑圧から逃れるために、

更なる抑圧の大元となる日本に逃れねばならなかったと言う

在日コリアンの悲劇の構造が描き出されている。

引くも地獄、進むも地獄の状況のなか

それでも果敢に進む主人公の芯の強さに胸を打たれる。

 

朝鮮における両班(地主)と小作人との対立の構図が描かれている。


私の母の実家は代々滋賀県の地主階級(GHQの農地改革で落ちぶれたけど、、、)

父は茨城県の水呑百姓。

言ってみれば私のルーツもこの小説の登場人物と同じく

歴史に翻弄されてきた『土』に這い蹲り生きる民なのだ。

 

この小説では、その土に活きる民の哀しさや、

逞しさが描かれていて、琴線に触れるものがあった。

ロマンスも有り。

 

 

梁石日の小説が好きだと言っても彼の事を知らない人は多い。

けれども、彼の作品はいくつも映画化されている。

 

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魯迅と並んで二十世紀最高の中国文学者と言われている張愛玲の短編小説 《红玫瑰与白玫瑰》日本語訳:『赤薔薇と白薔薇』。

この小説の冒頭はこのように始まっています。

『振保(主人公)の人生には、2人の女がいる。
ひとりは彼の白いバラ、貞節を守る妻;
ひとりは彼の赤いバラ、熱烈な愛人。普通、節烈はこうして二つに分かれる。

男の人は誰でもこういう二つの女があったかもしれない。少なくとも二つ。

そして、紅いバラを娶れば、その紅色は月日のたつうちに壁についた蚊の血のようになってしまうが、白は依然「床前の月光」のままである。

白いバラを娶れば、その白は服についたご飯粒のようになってしまうが、紅はみぞおちについた赤い痣のようである。』

女性は、「結婚したい女」「遊びたい女」に分類されるみたいですね。
(物語上ではどっちを選択しても残念は残念みたいですが。。。)
主人公の振保は白いバラを嫁にします。

少し死語かもしれませんが、

日本のネット上で、女性 を表す2つの言葉があります。

それは、 「俺の嫁」「ノーチェンジ」

両者とも”男性が良いなと思う女性”という意味合いですが、
使われ方にはパターンがあり、

「俺の嫁」は萌えキャラのような従順そうで可愛らしい女性に場合よく使われ

「ノーチェンジ」は、グラビアアイドルやセクシーな女性を指す時に使われる傾向があるみたいです。そもそもノーチェンジは
風俗産業の指名制度からきている呼び方らしいです。

この2つの分類もこの赤バラ、白バラと同じ概念なんだなと思いました。


『赤薔薇と白薔薇』は世界文学のフロンティア(四)「ノスタルジア」(1996岩波書店)の中に所収。


張愛玲という文学者についての研究書は以下がお勧め。
客家人とは中国の河南省あたりが発生の民族ですが、

漢民族からの迫害をのがれ、南下し、福建、広東、台湾、

マレーシア等の東南アジアにディアスポラした民族です。



彼らには繰り返される迫害の歴史の中で賢く、強く生きてゆく知恵を身に着け、

経済界や、政界に影響力のある人物を多く排出してきました。



そう、言ってみれば、東方のユダヤ人、と言ったところです。



そんな彼らの知恵を学べるのがこの一冊。

特に自営業の方にお勧めです。

読んで絶対に損はございません!









TOUTUBEでそんな客家人のメンタリティーを表している曲があったので

紹介いたします。

曲名は【客家本色】

歌ってるのも、字幕も客家語です。

中国の普通語と客家語はちょっと似てて何となくわかるので

一応日本語に訳してみましたが、間違ってるかも知れません・・・





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唐山過台灣 沒半點錢
一銭も持たずして中国本土から台湾にやってきて





剎猛打拚耕山耕田
狩りをし、田畑を開墾し




咬薑啜醋幾十年 毋識埋怨
何十年も辛酸をなめたけど 全然(客家を迫害した漢民族を)恨んだりしていない。



世世代代就捀勤儉傳家
先祖代代真面目に働き、倹約し





兩三百年無改變
その精神は何百年も変わらない





客家精神莫豁忒 永遠永遠
客家精神は永久に不滅です! 永遠に 永遠に





時代在進步 社會改變
時代は進歩していて、社会も変わる





是非善惡充滿人間
正しいもの、間違ったもの、善、悪は人間界に溢れるけれど




奉勸世間客家人 修好心田
客家人はいつも心を正し、世間に奉仕します。 




正正當當做一個良善介人 就像偲介老祖先
我々の先祖がそうであったように、 正当な良い市民として頑張ります。




永久不忘祖宗言 千年萬年
永遠に先祖の言葉を忘れません。 千年万年。




客家人の世間への奉仕、という理念、素晴らしいですね!


また『恨み』という感情に固執しない客家人は偉い! 
辛い過去は学ぶためにあるスタンスの客家人だからこそ、大きく成長したのでしょうね。


同じ大陸出身なのに死んだ敵の墓を掘り起こして9回も鞭打つ漢民族とは違いますね。
ただ、漢民族としても、敵をそれだけ徹底的にやっつけないと、広い中国大陸なので
まだ隠れている一味に逆襲される恐れがあったのです。
そうゆう異なる背景があるので違ったメンタリティーが形成されるのは当然でしょうね!

禁じられた遊び

 

 

禁じられた遊び(1952年 フランス)は無力な幼女が戦争に翻弄される様を描き戦争の悲惨さを訴える反戦映画だと一般的には言われているが、私がこの映画を見て別の感想を抱いた。

これは反戦映画に見せかけつつ、本当のメッセージとして反ユダヤ主義を訴えている映画なのではないかという感想だ。

 

 

 映画の内容

 

 

 この映画はナチス・ドイツ軍の空襲の中逃げ回る親子三人を描くシーンで始まる。両親は爆弾を受け死亡してしまうが、5歳のポーレットは両親の腕に守られ生き残る。孤児となったポーレットが一人村を徘徊しているところに貧しい農村の少年ミッシェルと出会う。ミッシェルは両親のいないポーレットを家に連れて帰る。上等な衣服を着ていて、育ちも良い可愛い顔したポーレットに興味を抱いた一家はポーレットを引き取る事にした。

 引き取られて数日後、ミッシェルがポーレットを教会に連れて行くと、ポーレットは十字架を指さし、「あれ、何?」とミッシェルに尋ねた。ミッシェルが十字架というものをポーレットに教えると、ポーレットは「あれが欲しい」と言う。そこから2人の禁じられた遊びが始まる。ミッシェルは民家や教会に入り、十字架を盗んでは2人の秘密の基地に隠してゆく。村では十字架が無くなって行く事が一大事件となり、最終的に2人の悪事がばれてしまう。そして十字架盗みの元凶となったポーレットは孤児院へ引き取られることになる。

 

 

 感想

 

 

まず、5歳の子供が十字架を見て、「これ何?」と言った事から彼女はカトリック的な宗教教育を受けていない事がわかり、まずそこに違和感を感じた。なぜなら宗教が信仰の対象であるという概念が希薄になってしまった現在の日本の5歳児ですら宗教的な物に対する『畏れ』という概念を持っているのが普通だからだ。5歳児でも、仏壇に手を合わせるお祖父ちゃん、お婆ちゃんなどの姿や、仏様の出てくるような日本の昔話の絵本を通じ、宗教的な物に対する畏怖だったり畏敬の念は知らず知らずのうちに彼らの中にインプットされているものだ。

そう考えると、カトリック色の強い当時のフランス社会において、裕福な家庭、つまり文化的生活が十分可能な家庭で生まれたポーレットが十字架を見たことが無かったのは不自然な事だと思った。なのでポーレットが十字架を知らなかったのはカトリック文化に敢えて触れる必要が無かったからではないかと思えた。何故カトリック文化に触れる必要が無かったか、を考えるとポーレットがカトリック教徒で無いからだと想像される。

  ポーレットのこの映画での役割は、ミッシェルを十字架盗みに駆り立てる、というものである。これは貧しいながらも善良なカトリック教徒(ミッシェル)をその教えから背く行為をさせたという事で、つまりポーレットは人を信仰から背けさせる事が出来たという事である。人々の信仰を妨げそして社会に悪や混乱を広げる存在とされヨーロッパや植民地時代のアメリカでは多くの女性が魔女とされ処刑された事実がある。ポーレットはミシェルに十字架盗みに駆り立て、村に混乱をもたらした。つまりポーレットはこの映画で魔女的な役割を担っているのだ。魔女という存在が信じられていた頃、魔女の疑いをかけられたのは精神に異常をきたした女や、異教徒の女だ。なのでポーレットは実は異教徒だったのではないかと思った。

 この映画は異教徒の女がカトリック教徒を惑わし、社会を混乱させる物語だ。では何故このような映画描かなくてはならなかったのか。それは脚本家が宗教的・社会的な何らかの理由で異教徒を憎んでいたからではないか。ヨーロッパで憎まれる異教徒と言えばはやりユダヤ人だろう。ポーレットがまだ物心のつかない5歳児であるにも関わらず、村を混乱に陥れたという事から、異教徒(ユダヤ人)は意図せずとも存在だけで災いをもたらし得るというメッセージをこの映画で示しているのではないか。

そしてこの映画のラストでポーレットがカトリック教会の孤児院に引き取られるのだが、孤児となったポーレットは尼に姓を聞かれても、自分の姓を忘れてしまって答えられず、適当な姓を付けられてしまう。自分の姓を忘れた、つまりユダヤ人であるという自分の素性を忘れてしまったポーレットはこれからカトリック教徒のフランス人としてフランス社会に生きて行く事になる。その事から存在だけでも危険(と一部の過激論者に信じられている)彼女のユダヤの血はカトリック教徒の仮面をかぶりフランス社会に脈々と受け継がれ、広まって行く事が示唆されている。

 

この映画の監督ルネ・クレマンは自信の撮ったこの作品についてこんな事を言っている

 

 

「・・・・「禁じられた遊び」で私は子供たちの不幸の責任者である大人たちに告発している。こういうことが政治に参加することになるかどうか知らないが、少なくとも私が考えていることを表現することにはなるだろう」

 

 

 そう、同氏は反戦主義のためこの映画を撮ったと言っている。だから私の反ユダヤ説は九割九分九厘外れだとわかる!

 

 でも、人間の裏には何があるか分からない

 

私の友達の旦那さんのおじいちゃんはロシアからメキシコへ移住して、自分で商売を始めて成功するとその土地に大きなカトリック教会を建てた。地元の成功者、カトリック信仰に熱い一族としてその土地で彼らは大そう尊敬されたそうだ。でも、実はその一家はユダヤ人だったのだ。移住してきた異邦人が成功をおさめ嫉妬されないため、そして何よりユダヤ人である事がバレないためにカトリック教会までたてたこの行動、さすがにすごいと思う。

 人の裏には何があるか分からないので、もしかしたらルネ・クレマン監督は平和主義としての仮面を被った反ユダヤ主義の人だった、と言う事があってもおかしくはないと思う。