昭和63年の年末に竹下登総理は、内閣改造した。それに伴い組閣した次の日に野中広務先生は、建設政務次官に就任した。前述したように、金丸信先生から「建設政治次官でどうか」という内示の連絡があり、少し経ってから建設省(現国交省)の官房長から事務所にアポが入り、官房長が1人の建設省の職員の方を事務所に連れて来られて、これからの内閣の手続きと建設省の所管事項について打ち合わせをしに来られた。一緒に連れてこられた職員は、建設政務次官に就任すると省内の予定や国会や委員会答弁などの調整を担当される事務方の秘書である。また、建設省では政務次官専用車と省内の三階の大臣室の隣に、政務次官の広めの部屋と事務の女性2人を配置してもらえる。また、組閣の翌る日には、政務次官に就任した議員が総理官邸で政務次官初会議をした後、組閣の写真と同じように官邸の階段で総理と並んで写真を撮る。当時政務次官というと今の副大臣と同じような位置付けで建設省の組織順でいうと大臣、政務次官、事務次官、技監、官房長、局長という順であったが、政務次官は役所では盲腸とも呼ばれていた中途半端なポストでもあった。
建設大臣は、菅前総理が秘書として仕えられていた小此木彦三郎先生。その大臣の元で建設政務次官野中広務という配置であった。この頃は、京都府内のインフラ事情は、遅れていたためその整備に尽力できるポストになれたことに、野中先生はじめ後援会の方や事務所の関係者はみんな喜んでいた。
また、マスコミ発表と同時にお祝いのお酒や花や品物、電報など議員会館の事務所に入りきらないぐらいのものが沢山の方から届いた。野中先生は、その後、大臣や党役員にも就任したが、この頃は、バブル景気の真っ只中だったので届いたお祝いの品は、私の記憶では後に就任されたどのポストの時よりも一番多かったように思う。お祝いをいただいて言うのも申し訳ない話であるのだが、もらったもので何が一番大変だったかというと日本酒の現物をいただくのが一番大変だった。当時は、木箱に日本酒の一升瓶10本入りが届くと場所も取るし、重いし、運ぶのにも苦労した。事務所ではこれだけのお酒をもらっても消化しきれないので、建設省に持って行き、各局に配ってもらった。この頃は、どちらの省庁も夕方18時ぐらいになると各課で酒盛りが始まる。今もそうであるが、霞ヶ関は、不夜城で国会の会期中などは、委員会などで質問する議員が、大臣に対する質問通告をなかなか出さないため大臣答弁を作成する職員の皆さんは自宅にも帰ることが出来ず、徹夜で答弁書を作成することになる。また、昼間は、陳情団などの対応や国会議員に対する法案や予算案の説明。各種の会議や打ち合わせ。地方出張など。朝は、自民党本部などで政務調査会の会議での説明など霞ヶ関の官庁の職員の方はいつ寝ているのかわからないぐらいハードワークで、我が国や国民のために昼夜を問わず働かれれている。私はそれを目の当たりにして、私には、こんな仕事ぶりは到底真似できないな。と頭の下がる思いだった。話は長くなったが、各課の酒盛りに私たち秘書も入れてもらえるようになると職員の方と親しくなり、いろいろなことを教えてもらいながら選挙区に予算を付けてもらったり新しい制度の情報をいち早くキャチするためには、夕方からの酒盛りは、人間関係を築くチャンスの一つだった。私は、この頃から私たちの仕事は夜作られるものなんだということを思った。
お祝いで届いた日本酒などを運ぶのに、議員会館の事務所と建設省の間を台車を借りて車に積み込み何往復もした。そうこうして政務次官就任をされた処理をしているうちに、年末を終えた。
ここで少しこの当時の議員などの説明すると野中先生の前任の建設政務次官は、古賀誠先生で当選回数は野中先生と一緒ではあったが、野中先生は補欠選挙で当選したため議員の在任期間が短く、昭和55年当選組はこの時、当選3回であるが、野中先生は、当選3回と言えども補欠選挙で出てきたため、当選2.5回のカウントだった。当選3回といえば同期では、先の古賀誠先生や高村正彦先生、平沼赳夫先生、久間章生先生、麻生太郎先生、白川勝彦先生、太田誠一先生、桜井新先生、谷垣禎一先生など、後に党の幹部などを歴任された先生方であった。
そして、正月を迎えることになるのだが、消費税導入を成立させた臨時国会や内閣改造が年末にあったために、大蔵予算原案内示も越年になり、昭和天皇の体調も芳しくないまま、昭和64年となったのである。昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、元号が平成になった。小渕官房長官が記者会見で『平成』を発表されたが、日本国中は天皇陛下が崩御されたため自粛ムードとなった。例年なら大蔵予算原案が既に、内示されているので通常国会が始まるまでは、正月モードから徐々に私たちの仕事も助走をしながら動いていくのだが、この年は、年明けから予算内示、そして野中先生が政府側の立場になられたので日常の政治活動や党の会合更に、建設省の仕事と私たちのすることがいきなり増えた。私は、昼間は野中先生が政務次官専用車を使われるので、それまでなら会合に先生が出席中は、車の中で待機しながら身体を休めることもできたが、これが出来なくなり、本来なら本人が出席される昼間の会合の代理出席やお客様の政務次官室への案内と送り迎え。また、野中先生は、建設省の公務と政治活動の区別をきっちりケジメをつけられるため朝の党の部会や夜の会合などは、事務所の車を使われるので運転していた私は、野中先生の政務次官在任中は、以前に比べると余裕のある時間もなくなり、常に休む間もなく動いている状態だったので一日が非常に長く感じる日々が続いた。政務次官になられると事務所は少し楽になるのかな。と思っていたが全く真逆だった。これらの経験は、私たち秘書にとって良い糧となっていった。
建設大臣は、菅前総理が秘書として仕えられていた小此木彦三郎先生。その大臣の元で建設政務次官野中広務という配置であった。この頃は、京都府内のインフラ事情は、遅れていたためその整備に尽力できるポストになれたことに、野中先生はじめ後援会の方や事務所の関係者はみんな喜んでいた。
また、マスコミ発表と同時にお祝いのお酒や花や品物、電報など議員会館の事務所に入りきらないぐらいのものが沢山の方から届いた。野中先生は、その後、大臣や党役員にも就任したが、この頃は、バブル景気の真っ只中だったので届いたお祝いの品は、私の記憶では後に就任されたどのポストの時よりも一番多かったように思う。お祝いをいただいて言うのも申し訳ない話であるのだが、もらったもので何が一番大変だったかというと日本酒の現物をいただくのが一番大変だった。当時は、木箱に日本酒の一升瓶10本入りが届くと場所も取るし、重いし、運ぶのにも苦労した。事務所ではこれだけのお酒をもらっても消化しきれないので、建設省に持って行き、各局に配ってもらった。この頃は、どちらの省庁も夕方18時ぐらいになると各課で酒盛りが始まる。今もそうであるが、霞ヶ関は、不夜城で国会の会期中などは、委員会などで質問する議員が、大臣に対する質問通告をなかなか出さないため大臣答弁を作成する職員の皆さんは自宅にも帰ることが出来ず、徹夜で答弁書を作成することになる。また、昼間は、陳情団などの対応や国会議員に対する法案や予算案の説明。各種の会議や打ち合わせ。地方出張など。朝は、自民党本部などで政務調査会の会議での説明など霞ヶ関の官庁の職員の方はいつ寝ているのかわからないぐらいハードワークで、我が国や国民のために昼夜を問わず働かれれている。私はそれを目の当たりにして、私には、こんな仕事ぶりは到底真似できないな。と頭の下がる思いだった。話は長くなったが、各課の酒盛りに私たち秘書も入れてもらえるようになると職員の方と親しくなり、いろいろなことを教えてもらいながら選挙区に予算を付けてもらったり新しい制度の情報をいち早くキャチするためには、夕方からの酒盛りは、人間関係を築くチャンスの一つだった。私は、この頃から私たちの仕事は夜作られるものなんだということを思った。
お祝いで届いた日本酒などを運ぶのに、議員会館の事務所と建設省の間を台車を借りて車に積み込み何往復もした。そうこうして政務次官就任をされた処理をしているうちに、年末を終えた。
ここで少しこの当時の議員などの説明すると野中先生の前任の建設政務次官は、古賀誠先生で当選回数は野中先生と一緒ではあったが、野中先生は補欠選挙で当選したため議員の在任期間が短く、昭和55年当選組はこの時、当選3回であるが、野中先生は、当選3回と言えども補欠選挙で出てきたため、当選2.5回のカウントだった。当選3回といえば同期では、先の古賀誠先生や高村正彦先生、平沼赳夫先生、久間章生先生、麻生太郎先生、白川勝彦先生、太田誠一先生、桜井新先生、谷垣禎一先生など、後に党の幹部などを歴任された先生方であった。
そして、正月を迎えることになるのだが、消費税導入を成立させた臨時国会や内閣改造が年末にあったために、大蔵予算原案内示も越年になり、昭和天皇の体調も芳しくないまま、昭和64年となったのである。昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、元号が平成になった。小渕官房長官が記者会見で『平成』を発表されたが、日本国中は天皇陛下が崩御されたため自粛ムードとなった。例年なら大蔵予算原案が既に、内示されているので通常国会が始まるまでは、正月モードから徐々に私たちの仕事も助走をしながら動いていくのだが、この年は、年明けから予算内示、そして野中先生が政府側の立場になられたので日常の政治活動や党の会合更に、建設省の仕事と私たちのすることがいきなり増えた。私は、昼間は野中先生が政務次官専用車を使われるので、それまでなら会合に先生が出席中は、車の中で待機しながら身体を休めることもできたが、これが出来なくなり、本来なら本人が出席される昼間の会合の代理出席やお客様の政務次官室への案内と送り迎え。また、野中先生は、建設省の公務と政治活動の区別をきっちりケジメをつけられるため朝の党の部会や夜の会合などは、事務所の車を使われるので運転していた私は、野中先生の政務次官在任中は、以前に比べると余裕のある時間もなくなり、常に休む間もなく動いている状態だったので一日が非常に長く感じる日々が続いた。政務次官になられると事務所は少し楽になるのかな。と思っていたが全く真逆だった。これらの経験は、私たち秘書にとって良い糧となっていった。