京都の事務所では、暮れの大蔵原案予算が閣議決定された資料の発送が終わると各市町村の消防団の夜警に差し入れをするための挨拶まわりを秘書が手分けして行った。また、昼間は、各後援会の幹部宅や系列議員、選挙区の自治体の幹部や選挙の応援に来てもらった方などに、この年は総選挙があったので、例年より年末の挨拶に伺うところの数が多かった。また、事務所の年末の掃除を一通り終えて大晦日の夜明けから先輩秘書の運転をして京都府の三重県と奈良県の県境の南山城村の後援会の幹部宅に朝一番で伺い、椎茸の原木などをもらい、各市町村の後援会幹部宅の要所、要所を京都府南部から順にまわりながら、その地域で採れる農産物や特産品をもらい、その足で京都府北部にある宮津事務所まで車を走らせた。そして、そちらで京都府南部地域でもらったお土産を渡すと今度は、日本海で獲れたブリやイカ、イワシちくわなどの北部地域の特産品などをもらい。それをまた、南部地域に持って行って渡すという物々交換が大晦日の事務所の行事になっていた。と言っても、これは野中先生は、多分、知らなかったと今になって思う。これも、秘書が後援会幹部宅に何らかの理由をつけてまわるための作戦であり、より一層、後援会幹部との関係を深めるための活動だった。この頃は公選法もこの程度のことなら大目に見てもらっていたように思う。

 京都府第2区の選挙区は広く北は兵庫県との県境と福井県の県境、南は、奈良県と大阪府、そして三重県の県境まで、11市33町村あり、それを全て1日でまわるのは無理だけど、朝から一周南と北、そして南に戻り、全て配り終えて先輩秘書を自宅に送って「帰っていいぞ!」と言われるまでに、年が明けてしまっていた。車の中での年明けとは自分でもなんかやりきれない気持ちになっていたのを覚えている。

そして、自宅に戻る頃には、正月早々から朝になっていた。自分がなりたかった野中広務の秘書の仕事だから仕方ないと思う元旦だった。
また、1月1日と2日が、仕事は休みで、久しぶりの休暇だったので眠り続けた。そうして3日になると朝3時に自宅を出発して京都府の丹波町(現南丹市)須知の国道9号線と27号線が交わる交差点のドライブインに朝5時に街宣車を運んだ。ここで先輩秘書と何人か集まって新年の挨拶をして話をしていると6時30分ぐらいに野中先生が到着する。
7時には、舞鶴市から選出されている2人の府議会議員の各後援会のバスが8台づつぐらいチャーターをして、京都市内の神社に初詣をする三社詣りという行事が毎年3日の恒例行事になっていた。その一行が、トイレ休憩に須知のドライブインに立ち寄る時に駐車場に集まってもらい新年の野中先生の第一声をあげるのである。2回に分けて各府議会議員の参加している約700人づつぐらいの後援会員に向けて新年の挨拶をするのが年明け一発目の日程だった。それを終えるとドライブインのレストランに集合して野中先生と秘書と園部町の手伝ってくれている人たちと朝ご飯をとって、そこから、また、事務所の新しい一年が始まる。
1月4日からは、各種団体などの新年賀詞交換会が始まり、野中先生本人が出席するものと秘書が代理で出席するものに手分けしてまわる。私は、基本的には、野中先生に随行していくのが担当だった。
 新年の業務が始まると私が担当する「自由新報」(現自由民主)の号外版の新年号を発行するための原稿を書かないといけなかった。2月の中旬に発送するためには、1月の20日前後には、原稿を書き上げないといけない。見ての通り私は、文章を書くのが下手ではあるが、自分が秘書である位置付けを保ち続けるためには、どうしても機関誌の号外版は、自分が作らないといけないと思っていた。最初のページは、野中広務のキャッチフレーズの「いい郷土(くに)つくろう!」と顔写真と挨拶文、2ページ目からは、京都府がどのように変わっていくか。京都府の予算要望書を見ながら京都縦貫自動車道や地下鉄東西線、第二外環状道路、京滋バイパス、京奈和道路などのこれからの状況や、京都国体前だったので、国体に向けての事業、丹後リゾートや舞鶴FAZ計画などを記事にした。この内容は、それぞれ北部版、中部版、京都市内と周辺の地域版、南部版と4箇所に分けるように野中先生から指示されていたので記事を変えて書いた。そうして最後のページは、国会での活動や海外に訪問された時などの記事を書いて1番下の段には、現在の役職一覧をつけた。この時の役職一覧で覚えているのは、議員連盟だけで157議員連盟に加入されていた。今から思うと凄い数だが、この当時の国会議員は、これぐらいの加入は普通であり、議員連盟に入っているとその関連団体から選挙の時には、その団体から推薦がもらえるのと関連予算がつくと議員連盟の事務局や担当官庁から情報がもらえた。また、議員連盟に加入する時には、地元の関連団体から加入するのに、認めてもらわないと入れてもらえない議員連盟もあった。
上記のような記事と役職一覧などを書いて、原稿を野中先生に見せると初稿で8割以上が直されてしまい元々、私が書いた原稿の原型はほぼなくなっていた。色構成ゲラ刷りの時まででも文章の修正が入り、印刷会社の担当者が怒り出す始末だった。
これらが1月中の私の仕事で、この原稿と並行して後援会名簿15万人の帯封の印刷がされていた。
印刷費と送料を入れると約1000万円は、かかる活動であった。
この新年の賀詞交換会の出席と機関誌の発行、発送が終わると私には、政治資金収支報告書の作成をする仕事を任された。当時は、地元には、政治団体が3つあり、野中ひろむ後援会連合会、野中ひろむ後援会、地域政策研究会というものだった。2月の中旬から3月末までは、初めての収支報告書作成でやり方がわからなかったので、手探り状態で作成していた。現在の政治の状況でいうと初めてやった私の政治資金収支報告書は、資金の透明化がされており褒められるような報告書だったのではと思えるが、当時は、大失敗の収支報告書であった。
いい経験にはなったが、野中先生からは、怒られ後々までチクチクと言われた。
しかし、この自由新報という機関誌と政治資金収支報告書は、誰もやりたがらない事務所の溢れた仕事で、それを私がすることになり、私の秘書としての位置付けが確保されたのと、秘書としてのスキルがついてよかったと現在でも、これらを駆け出しの私に、任せてもらえたことに感謝している。
以上が年末から3月にかけての私の地元秘書としての仕事の流れだった。