自民党の各派閥のパーティー券の問題や選挙違反などで議員の他にも秘書が逮捕されたり起訴されたりしている。また、これらのことに関係した議員の記者会見や政倫審で秘書に会計責任者として会計を任せていたので自分はどのようになっていたかわからない。などと国会議員の秘書というキーワードがニュースなどに出てくる。これから私が国会議員の秘書で経験してきたことを綴っていこうと思う。私の経験が全て秘書として同じではないが、少しでも議員の秘書が私の経験からどのようなことをしているのかということを知っていただければと思う。

 私が国会議員の秘書になった頃、先輩秘書から議員の秘書をするからには、自分の将来を考えて3通りの秘書の生き方があるからそれを頭に入れてこれからは動けと言われた。その生き方とは、一つ目は、自分が政治家を目指すために秘書をする者、二つ目は、秘書をして培った人脈で事業を興して経営者になろうとする者、三つ目は、一生秘書で通す者の生き方がある。自分がどのようになりたいかを考えて仕事をすること。と何回も言われた。そして、その中でもさまざまな先輩秘書を見てきて、議員秘書とはどんなものなのか。ということを私の体験をまじえながらnoteに書いていくのでみなさまに議員秘書というものを知っていただければと思った次第である。

 私は、大学を卒業した年の昭和61年(1986年)4月から衆議院議員野中広務秘書という肩書きをもらい選挙区である京都の事務所に勤めるようになった。当時は、生まれてから一度も東京に行ったことがなく、また、話はそれてしまうが、富士山を直接見たのも大学の3年生の時だった。選挙のアルバイトで野中事務所に関係してから箱根で8月末にする田中派の青年研修会に研修生として参加しないかと事務所から声がかかり、その研修会に参加するために熱海駅まで行く新幹線の中から見たのが初めてだった。この時は、まだ新幹線の中にあった売店にカウンターがあり、そこでカレーを食べながら窓から富士山を見た。その大きさと鮮やかさに圧倒され感動した風景は、今も鮮明に覚えているし、今でも富士山を見ると嬉しくなる。また、それぐらい当時の私にとっては、箱根から東の都市には、足を踏み入れたことがなく全く遠い世界であり、憧れの場所でもあった。
 初めて東京に行ったのは、秘書になった年の12月の国の予算編成で大蔵原案が内示される時期だった。議員会館にある東京事務所が忙しくなるから手伝いに行くようにということで1週間ほど出張とすることになった。
 朝、京都駅を出発し東京駅まで新幹線に乗り到着して新幹線から降りると東京駅には、たくさん人がいて、その活気に気分が高揚した。見るもの見る人が私には、全て新鮮で珍しく、驚きの連続だった。初上陸の東京にドキドキしながら駅の構内の上にかかっている表示板を見ながら東京駅の丸の内駅に辿りつくように地下へ降りて行き丸の内線の切符を買って改札口で駅員さんに切符を切ってもらった。改札口を通るあれだけの人数の切符を切る駅員さんの切符をパンチして捌く神業にも驚いた。改札を通ると左に階段があり、ホームに降りると煙草の煙がモクモクとたちこめてホームが霧の中のような感じだったことを記憶している。赤いボディーに、白い線の模様の入った車両が丸の内線がホームに入ってきて扉が開いて乗車すると車内は、木目で「案外都会なのに車両が古い感じがするな」と思った記憶がある。丸の内線は、東京駅の次が銀座で東京駅から銀座駅までの途中で一度車内の灯が暗くなった。銀座駅に着いた時に思ったのは、「ここがテレビのコマーシャルで聞く『東京・銀座・資生堂』という資生堂のある銀座か」と思いながら「自分が東京にいるんだ!」という憧れの人に会うような感じで顔が赤くなってドキドキしていた。そして霞ヶ関駅を過ぎて国会議事堂駅に到着した。
駅を降りて改札口を出て右手に進むとエスカレーターがあり、そのエスカレーターがあるのにも、「国会議員がいるところは、階段だけでなくエスカレーターがついている。流石!凄いな。」と感動しながらエスカレーターで一段目を上がる踊り場のスラロームが少しのぼりになっていてそちらを歩いて二段目のエスカレーターに乗って地上に出た。すると目に入ったのが出口から見える交差点を挟んで斜め前にある煉瓦造りの建物が総理官邸だった。「あれが総理官邸か、将来あそこに出入り出来るようになるかもな。」などと思いながら、頑丈な柵が連なっている国会議事堂に沿って右手の歩道に進むと左側に3棟、等間隔に建っている薄茶色のビルが見える。「あれが議員会館か?」と思いながら横断歩道を渡り、真ん中にある第二議員会館に入って行った。自動扉が開き、カウンターがいくつか設置されていて、そこで受付票に、訪問する議員名とその議員の部屋の階と部屋番号、住所、氏名、職業、連絡先、所属、面会の予約有る無し、面会理由などを書き、受付窓口に持っていくと、訪問する事務所に受付から連絡が行く、それで事務所が許可をすれば受付印を押して、左手の階段を上がると衛視が立っおり、受付票を渡すと票の端っこのミシン線を切る。そうしてやっと議員会館に入館出来る。当時は、「議員会館って物々しいな」と思ったが、現在の方が手荷物検査や金属探知機を潜らないといけないので、もっと面倒になっている。そうして野中事務所は、3階の301号室だったので、1階にあるエレベーターホールに立つと肌色のような色の3台あるエレベーターの1番右は、議員専用、真ん中と左にあるエレベーターのどちらかがくるのを待っていると、「◯◯先生ー、◯◯先生ー」という女性の声で呼び出し放送があった。私は、「へー、出て行く議員の名前をアナウンスするんだ」と思いながらエレベーターが来たので乗り込んだ。するとエレベーターには、何人かの男性が乗っていた。彼らは、ピッシリした紺色のスーツに派手目のネクタイ、白いワイシャツに、髪の毛もきっちり七三に分けて、足元には、ピカピカの革靴を履いて胸を張って立っている。私は、「流石、東京の秘書は、いいスーツを着てパリっとしてカッコいいな。」と思いながら3階に着いたのでエレベーターを降りると少し広めの踊り場があり、右には、よくわからない大理石で出来ているようなカウンターがあり、正面には、ワンルームのような、大学の研究室のような部屋の扉がいくつもあり、そちらから左に廊下を進むと椎名素夫という名札や藤波孝生の名札があり、「テレビで見る名前や」とかワクワクしながら廊下を突き当たりまで進んで行くと、それまでの全ての部屋の扉が開いており、伊東正義、森下泰、野呂田芳成、山本幸雄と並んでいて中を覗くと結構狭い部屋に事務机がいくつもあり、机の上には、本や資料が積み重なって壁のようになっていて、その中で女性が電話を肩にはさみながらメモをしていたり、男性が小さいソファーの椅子に並んで座って大声で喋っているのを見ながら通り過ぎていき301号室の前に着いて「こんにちは、初めまして、山田です。」と言って事務所の中に、入っていった。初めて議員会館の野中広務事務所に足を踏み入れた瞬間だった。
 すると昭和58年の暮れの選挙の時に、選挙事務所で見た公設第二秘書が「やー!やーまだくん、よく来たねー」と笑いながら言われた。この人は、山梨県出身で竹下派(旧田中派)の秘書会では幹部のひとりで金丸信事務所からの推薦で事務所に入った人だった。その奥の方の机には、身体の大きな体格のいい少し若めの秘書がおり、この人も58年の暮れの選挙で見た人だった。この人は、先生の運転をしながら身の回りの世話をしている秘書で隣りの事務所の山本幸雄先生の紹介で入った人だった。また、右の机に、笑いながら「お疲れ様、ちゃんとこられた?迷わなかった。」といつも電話で聞く声の女性秘書が言った。この方は、赤城宗徳先生からの紹介で入られた秘書で、私は、電話でいつも喋り方が「小学校の先生のような喋り方をする人」と思いながらやりとりしている人だった。
「それじゃ荷物を置いて少し休んでから何ヶ所か挨拶まわりをするからね。」と第二秘書に言われて「はい。よろしくお願いします。」と笑顔を作りながら言った。秘書の執務をする部屋の狭さには、驚いたが、その執務室の奥の扉が開いており、覗きこむと野中先生がソファーに座りながら資料を読まれていた。私は、「先生、お邪魔します。はじめて東京事務所にきました。」と伝えると「おぉ、どうや!思っていたより、部屋狭いやろ」と言われたので、「はい」と笑いながら言った。すると第二秘書が「山田君をこれから何ヶ所か主要な先生方の事務所に挨拶に連れて行ってきます。」と言われた。「わかった。連れていってやってくれ。」と野中先生が言うと。私に第二秘書が「じゃ、行こうか、通行証を持って」と言われて、事務所用の通行証を胸ポケットに差し込んで事務所から出た。まず、隣りの山本幸雄先生の事務所に顔を出して頭を下げた。するとさっと立って少し大柄の怖そうな女性秘書が「新しく入ったの若いね。京都から来たの。」と言われた。
私は、緊張して少し額に汗をかきながら「はい。山田といいます。よろしくお願いします。」と言った。左には、若い男性の秘書が2人笑顔で立っていた。挨拶が終わるとその隣りの野呂田芳成先生の事務所に入った。こちらも事務所に入ると女性と若い男性秘書がさっと立って挨拶した。奥の部屋でお客様の対応をされていた秘書が出て来られて爽やかな感じで「新しく入ったのか。頑張ってください。」とお辞儀をしながら言われた。この方は、参議院議員をされて現在秋田県のある自治体の首長をされている方であった。野呂田先生の事務所が終わると徳島の森下泰先生の事務所、伊東正義先生の事務所と順番に3階の並びの事務所に挨拶に行ったが、どちらの事務所も入ると執務室にいる秘書は、礼儀正しくみんな机に座っていた方は立ち上がって挨拶をした。そして議員会館から外に出て、左に進み参議院議員会館の前を通り越して左に曲がり、右手に見えるビルの上に自由民主党という青に白字で書かれている看板が見えた。「あれが自民党本部か」と見ながら歩いていると、そのビルから女性の声で「◯◯先生ー、◯◯先生ーのお車」と呼び出しのアナウンスが聞こえる。私は「へーっ。ひとりひとり、放送して車を呼び出すんだ」と思いながら平河町方面に第二秘書と一緒に歩いて行った。第二秘書は、人とすれ違いざまに冗談を交わしながら知り合いであろう人に挨拶しながら歩いているのを見て私は、「この人いろんな人知っているんだな」と思いながら後をついて行った。上に高速道路が通っている広い道路に出て横断歩道を渡りまっすぐ進むと右に砂防会館、左に海運クラブというビルがあった。その先を進んで左にあるビルに入って行った。少し暗い入口だった。1番初めに挨拶に行ったのは、田中角栄先生の越山会の女王と言われた方の事務所だった。私は無茶苦茶緊張して身体が強張りながら第二秘書の後ろについて事務所に入っていった。そこでは、そちらにおられる田中角栄先生の秘書をされている方に挨拶をさせていただいたが、私にすると遥か雲の上の存在の方でテレビで見ていた世界の人が現実に目の前におられるので自分がお会い出来るなんて思ってもいなかったから緊張してどのように挨拶をして何を言ってもらったのかは、ほとんど覚えてないのだが「オヤジのために頑張れ!」というような励ましの言葉をいただいた記憶がある。
東京に初めて出てきて、1番はじめに挨拶に行ったところが、小学校の時から憧れていた田中角栄先生の秘書をされている事務所に、訪問出来るなんて想像もしてなかったし、夢を見ている気分だった。「東京って凄いところだな。テレビで見ていた世界が現実に自分の目の前にある。」と思いながらも第二秘書に連れられて旧田中派の幹部の事務所に、野中広務事務所に「新しく入りました」という挨拶まわりをする始まりだった。

今日のところは、このあたりにして
これから少しずつ国会議員の秘書についていろいろと私が覚えていることや思っていることをnoteに書いていこうと思う