竹下登大蔵大臣を迎えて3000人規模の決起大会を京都市伏見区に新しく出来たドームでする計画が着々と進められた。会場の下見、借上、各市町村の後援会、野中系の京都府、京都市の議員、来賓に、連絡をして京都府北部地域の後援会からは、何台もバスをチャーターして来ることになり、軽く3000人を上回る動員数を確保し準備万端整っていた。あとは、これを乗り切って勢いをつけて公示日にのぞむという陣営のシナリオだった。
 いざ決起大会を迎える2日前になって警察から何回も警告が入った。それは、各主要幹線道路の街路灯に張り巡らせた「竹下登大蔵大臣来る!○○会場」という立て看板の警告だった。このままこの決起大会を開催すると選挙違反になる。
 動員がかかって集まる人数も目処が立っているのに、このように大々的に派手に告知することもなかったのだが、秘書同士の連携不足による単純なミスだった。ひとりの秘書が独自の判断で立て看板を注文して立てさせたものであった。既に、警察から何回も警告されているものを開催してしまうと確実に選挙違反でやられる。野中陣営としては、この場所での決起大会を断念せざるを得ず、急遽中止して事務所開きとして、葛野大路五条の選挙事務所になるところでやることになった。
葛野大路五条の事務所では、精一杯入って300人程度しか収容出来ず、陣営としては、完全に出鼻をくじかれた状態になった。野中先生は、「これだけの動員を各後援会にかけたのに、何を君らはやってんだ!竹下もわざわざ来てくれるのにどういうことだ!」とこの不始末に激怒した。
決起大会から事務所開きに切り替えるのに、北部地域のバスのキャンセルや各後援会に動員をお願いしているところをさらに人数を減らしてもらう上にお願いしていたところにお詫びをしないといけないという状況を後援会の役員さんたちにかさないといけない出だしとして最悪の状態を作ってしまった。
当日は、決起大会の中止の連絡が行き届いているか判明しないところもあるので、秘書2人が、決起大会を予定していた会場前に配置され、あるものと思って来られた後援会の方に、頭を下げて謝った。夕方、竹下登大蔵大臣が京都入りして、葛野大路五条の選挙事務所予定地でパイプ椅子を並べて約300名の事務所開きが始まった。現在、この日の私の記憶は、ここまでしかない。この日を迎えるまでに、私は、既にこの頃は、選挙準備の手配に忙殺され一日に3時間くらいしか眠れておらず、寝不足で立っているのがやっとだった記憶しかない。事務所開きだけは、何とか滞りなく終わり竹下大蔵大臣が、葛野大路五条の事務所を後にされたことだけは事実である。