昭和61年のゴールデンウィークが明けてから、だんだんと世の中の空気が衆議院、参議院のダブル選挙というような流れになってきた。ほぼ衆議院を解散するのは間違いないというようになった頃には、京都の葛野大路五条北東角に借上ている場所は、既に選挙事務所となるプレハブが建てられていた。また、後援者の方々に任せておくと全て選挙の設備関係の準備は進めてもらえるような状態になっている。秘書たちは、選挙期間までの代議士がどの地域を先に回り、どちらの地域からせめていくか。また、選挙をする人員を確保するためのお願いや選挙前や期間中のイベントは、いつ頃どういうものをするのか。など戦略的な案を考えていくことや各地域の後援会幹部や府議会議員や市町村会議員などに選挙準備の挨拶回りしたり、各市町村の後援会の会議に出るなど、目まぐるしく昼夜を問わず動いていた。平常時でも事務所は、かかってくる電話の本数やお客様の対応など選挙期間中と同じぐらい忙しいのだが、選挙が近づいてくると動きにさらに、拍車がかかった。私は、この頃何をしていたかというと諸々の雑務と私のミッションである学生の運動員やウグイス嬢の確保など他の自民党の陣営に取られないように運動員の頭になるメンバーに依頼して運動員の手配をしていた。

野中先生は、東京から戻ると少ない時間で選挙期間中には、なんせ広い選挙区なので回れない地域を集中的に、国政報告会と銘打って集会を開いた。ひと会場少ないところでは2〜300名、多いところで800〜1000名ぐらいの入場者があった。あの頃はこれぐらいの動員は普通だった。

そうしているうちに、衆議院が解散され本格的に
選挙の事前活動に拍車がかかり、中曽根内閣の大蔵大臣をされている竹下登先生を迎えて、選挙前に陣営の引き締めと士気を高めるための一大イベントをする企画が内々に進められることになった。このイベントの成功が、今後の選挙を有利に戦えるかどうかの明暗を占う最初の作戦であった、、、