日曜日、近鉄大阪線の河内山本駅から、東高安線に乗り換えました。
ここまでは「前座」で紹介しましたね。
なお「近鉄東高安線」を検索したら、3位にユリブロが上がってくるで😜
生駒山系が迫ります🗻
高安山が見えて来ましたよ。
昭和40年頃の写真を見ると、一面のハゲ山でした。
薪に使うためで、時代を感じますね。
六甲山系や高野山でも、ハゲ山だった写真を見ます。
終点の信貴山口駅に到着します。
昭和5年の開業時を伝えています。
信貴電の王寺駅も、昭和時代はこんな造りだったと聞いています。
電車を降りると、祭囃子が聞こえて来ましたよ。
折しも神輿が駅前に到着です。
掛け声は河内弁ですよ😁
金髪はもとより、頭をインコみたいに染めた兄貴など、祭りの景色がありました😆
子供用の神輿です。
祭りの軍団が去ったあと、東高安線の線路に移動しました。
夏草を掻き分けて、信貴山口駅に到着します🚃
真夏の太陽に照らされます☀
信急鋼索線に乗ります。
辺りは蝉しぐれが絶えず、夏の山麓を演出です。
信急鋼索線は、ICOCAが使えるようになりました。
なお、前回に訪問時には汲み取り式だった便所は、残念ながら水洗式に改良されていましたよ。
003ユリ子が、信貴山口駅の汲み取り便所で着替えをしたのを、近鉄社員の知るところとなった?😆
高安山駅の水道水を運搬です。
車体は、昭和32年の営業再開時に作られ、原型を保っています。
扇風機が忙しく回転しています。
カップルが目の前で乗り遅れ、鋼索線は高安山を目指します。
窓を開放は、懐かしい夏の光景となりました。
小学生の頃、地下鉄第6号線と南海汐見橋線が、窓を開けていましたよ。
たちまち、大阪の街が一望となります。
昭和19年の営業休止の際に切断された鉄柱の根元から、復活時に継ぎ足しているのを見逃さないです😁
高安山駅に到着です。
急斜面が分かりますね。
アルミサッシに替えられながらも、昭和5年のデザインが健在です。
下見板のレンガタイルに、戦前の造作を伝えます。
下車の乗客は直ちに四散して、人影も無い待合室です。
軒先部分は、営業再開のときに屋根を変えたように感じました。
遠くから見ると、開業時のコンクリート壁面とのアンバランスが分かります。
戦前の高安山駅は、鳥瞰図ぐらいしか記録を見い出せないです。
これを元に、考察することになります。
昭和11年の空撮写真から、高安山駅を描くことに致します。
さらに申し上げると、山上平坦線の車両を高安山に上げる記述でも、曖昧なのがあります。
「山に上げる時は、恩智からの道路を使い・・・」
信貴生駒スカイラインが開通まで、高安山には電車を運べるような道はありませんよ。
「営業休止の時は、鋼索線の台車を使って下ろした」
これは正しいながら、戦時中にしては作業員の格好が昭和初期モードですね。
当時なら戦闘帽姿の筈ですが😜
それに「負け戦」写真なんて、撮れないと思います。
しかも、写真の「6」は、昭和12年に谷底へ転落ですよ。
駅前ロータリーは、静かな佇まいです。
観光客が殺到してインスタ蝿や、秘境駅巡りも来ない、ゆっくりとした空気を楽しめます。
砂地の広場は、かつて山上平坦線の車庫がありました。
掘ったらコンクリートの構築が現れるかも知れないですね。
眼下には、大阪平野が広がります。
アイドルユリ子は、高安山を爽やかな青春讃歌で歌いました。
『いただきから 見えるのは
私が生まれて 育った街よ
喜び悲しみ 若い命に
刻んだ青春の あかしと信じる
高安山の 空たかく』
信急の連絡自動車が、出発時刻を告げています。
さて、新型コロナは終息したと誤認されていますが、扱いが変わっただけですね。
ユリ旅行では、第1波のときから三密以外ではマスクを外していましたよ。
今回の旅行での、マスク着用状況を紹介しますね。
これからの路程をバラすことになりますが😜
地元の私鉄😷
大阪地下鉄😷
近鉄大阪線😷
近鉄東高安線✖
信急鋼索線✖
信急連絡自動車線😷
信貴山境内✖
奈良交通バス😷
信貴電✖
関西線😷
大阪ミナミ😷✖