この間「未曾有」という言葉を何度聞いたことでしょうか。災害の実態が明確になりつつある今、それに伴う苦しみと悲しみ、紆余曲折が否応なしに訪れます・・・感情を持つ我々人間としては実に耐え難く、計り知れない試練の時と言えます。
さて今日は、皆様に「神山は本当に原理が分かっていない!やっぱり、一般人だ!こいつは本当に統一教会を語る資格はない!」と、あえて言われるような問題提議をしてみたいと思います。
それは、文先生の語るみ言の「復帰」と「創造」は微妙に同じ意味を持たせながら語られているという謎の様な問題提議です。
「復帰」と「創造」は微妙に同じ意味だって?・・・。
まず、以下のみ言を参照して下さい。
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★ 韓国・中央修練院にて 1994年10月9日
● 再創造の公式的内容とは?
皆さん、再創造の路程を通して、復帰の路程が成されるといいました。再創造の公式的内容とは何でしょうか? 神様によって創造されたすべてのものは、必ず主体と対象があるのです。これが公式ですが、それを摂理史に適用したのが、カイン・アベルです。
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このみ言は、平均的な統一教会信徒である皆様だとするならば、多分、ギョッとする内容なのではないかと思います。決して、プリントミスや翻訳ミスではありません。事実、この類のみ言は探すと少なくありません。
今一度よく読んでみて下さい。
このみ言では「アダムが堕落したのでアベルとカインに分立した」と仰っているのではなく、
「神様によって創造されたすべてのものは、必ず主体と対象があるのです。これが公式ですが、それを摂理史に適用したのが、カイン・アベルです。」と仰っているのです。
これをもっと踏み込んで推察してみますと以下の様に言う事が出来ます。
実は「アダムが堕落したのでアベルとカインに分立した」というのは本当ではない!
「神の創造原理が正分合作用の四位基台原理なので、その正分合の≪分≫の部分、つまり、創造する時の主体と対象の分立を聖書の伝統に沿ってアベルカインと喩えているのである」と仰っているのです。
つまり、聖書のアダム家庭の物語(ストーリー)そのものが、ある意味で喩えであり比喩であり暗示なのであり、とどのつまりは本当の原理は原理講論には記載していないという事なのであります。
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(1993・5・9)
新しく再創造するということは、盲目的になさるものではありません。原則的にするのです。創造世界を再創造するという問題になるので、ここには根本的な公式があるのです。それでは、その根本的な公式とは何でしょうか。存在するすべてのものは、主体と対象が一つにならなければなりません。このような主体と対象を中心として、世界のすべてのものが引っ掛かっているというのです。存在するそれ自体も引っ掛かりますが、存在するものが行く生涯とその路程も、すべてここに関係を持って横的に拡大されるのです。ですから、神様の復帰摂理は再創造摂理なのです。
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神の摂理とは、復帰の摂理であり再創造の摂理であります。従って再創造の摂理は創造原理による摂理であります。つまり、再創造は闇雲に成されるのではなく創造原理に沿ってなされるものだという事を我々は知っています。これは元々原理講論で定義されている概念です。
このような認識から言えることは、再創造を司るメカニズムとしての原理、すなわち「復帰原理」とは、実のところ「創造原理」そのものであるということであります。
言い換えて表現するならば、全ての事象は、創造原理による再創造摂理的事象であり、すなわち創造原理による創造摂理的事象として起きているものであるということになります。
にもかかわらず、原理講論では、復帰原理として「アダムが堕落したからアベルとカインに分立せざるを得なかった」「堕落故のアベルカインの分立摂理」という理論構築になっている訳なのです。
これは徹頭徹尾「創造原理の正分合作用=四位基台原理」に当てはめてもう一度、アダム家庭からの全聖書史を解き直してみないといけないという事を物語っているのです。
事実、権進様も私くし神山も全て創造原理に当てはめて解き直す事をして来たのです。それで、このような事を説明させて頂いているのです。
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(真の御父母様の生涯路程④ P371 原理の完成本の執筆課題)
いまだに発表できない相当な部門の真理が残っています。私は既にそのような啓示を受けていますが、未来に公表しようとわざと保留しています。
原理(原理講論)はイエス様までを説明しているため、イエス様以後、先生に関することを皆さんは知りません。それゆえ皆さんはこれから本当に勉強すべきことが残っているのです。統一教会の文先生は原理(原理講論)の中に現れる先生ですか。原理(原理講論)にはイエス様までが入っているのです。イエス様を中心として話したものです。それなのに原理(原理講論)だけ重要視すれば完了すると思いますか。
(祝福家庭と理想天国Ⅰ P802 祝福の意義と価値))
皆さんは先生が分かりますか。先生が分かりますか、分かりませんか。どう分かりますか。先生の何が分かりますか。顔だけ分かるでしょう。皆さんが分かる原理を教えるその程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理(原理講論)です。先生の時の原理(本当の原理)ではありません。先生の歴史が分かりますか。「分かりません」。分からないなら、何をしにこの場に来ましたか。皆さんは孝子になりましたか、なれませんでしたか。「なれませんでした」。孝子にもなれなかった者が、ここに来て座る資格がありますか。
(大母様の生涯と信仰)
原理(原理講論)は外的な世界、キリスト教世界とユダヤ教世界を収拾するためのものです。それゆえ、内的心情世界に対する内容は一つもありません。ですから、統一教会の食口である皆さんも、統一教会のみ旨の3分の1の立場にも立てないでいるという事実を知るべきなのです。
★ 原理大修練会、堕落論講義途中における御言 1967年6月18日
だから本部の方で、行って原理講義をしてやらないといけない。そう考えて今、劉協会長も連れてきた。それをはっきりとしておかないと困るんだね。だから蕩減できない。わかる?(「はい」)。
だから、今まで創造原理と、ま、「創造原理といえば適当に先生が考えた」、そうじゃないよ。これがわからないとね、堕落論とか、復帰路程すべてがこの創造原理を適用して解いていくんだよ。だから創造原理が、堕落論にも復帰路程にもみんなあてはまる。だから、創造原理が真理であるという確認ができるわけなんだ。
それによって歴史が、歴史の背後に動いた神が、神の歴史を通過してきたあらゆる事件がみんなあてはまる。みんなそれが創造原理がなければ解決できない。だから、復帰の路程は再創造の路程であるという、その結論になっちゃうわけなんだ。だから、創造原理を中心としてみんなそれを解いて、そして戻って来るような作用をさせるから、創造原理は絶対的に必要であるというんだね。わかる?(「はい」)。
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ここまで私が述べている事が、本当だとすると大変な事ではないでしょうか?如何でしょうか?
冒頭にありましたように、今日は、皆様に「神山は本当に原理が分かっていない!やっぱり、一般人だ!こいつは本当に統一教会を語る資格はない!」と、あえて言われるような問題提議をしているのです。
それは、文先生の語るみ言の「復帰」と「創造」は微妙に同じ意味を持たせながら語られているという謎の様な問題提議です。
文先生はみ言を語る時、その大半は原理講論をフォローする様に語られます。つまり、殆どを我々が慣れ親しんでいる原理講論に沿って語られるのです。
なので、文脈の前後に「本当の原理」をちりばめて語ってはいるのですが、それは、よくよく注意深く、あるいはマニアックに「本当の原理」はどこに・・・「原理講論の原理」はどれだ・・・という感じで、意識的に分別しながら読まないとついつい見落してしまうのです。
「本当の原理」の部分だけがスゥーッと、通り過ぎて行ってしまうとうのが実感です。
これは、我々の思考が原理講論通りの思考になっていればいるほどその作用は絶大です。
「あ~!今語られているのは、あの事だ!この部分だ!講論でいうこの部分なのだなぁ・・・。」という感じで皆様は納得するのです。そして「お父様は原理のお方だ」「原理を解いただけでなく実践してこられた原理の実体なのだ。あーっ!原理だ原理だ!あーっ原理は素晴らしい!」と。
皆様はアベルカインといえば、堕落故の分立摂理である。これこそが、復帰原理(復帰公式)であると、かたくなに信じています。違いますでしょうか?
まさかアベルカインが、創造原理「正分合作用=四位基台」の≪分≫の部分の主体と対象のことだとは夢にも思っていないということです。
皆様は「アダムが堕落したからアベルとカインに分立したのだ!」「分立摂理は堕落したので致し方なく・・・堕落が無ければ分立摂理は必要ではなかった筈だ!」と、信じ切っていらっしゃる筈なのです。如何でしょうか?
これは、原理講論を良くも悪くも熱心に信じて来たからに他ありません。当然、致し方ないことでありますし、神様と文先生が敢えてそうさせて来たことなのですから必然といえば必然なのです。
何度も言及して参りましたが、文先生一代圏の40年でキリスト教を世界化し再現しなければならないが故に「現代版キリスト教原理」である「原理講論」を与え、これを絶対視させて来たのです。
原理講論の主人は神様と文先生であり、それはそれは本当に厳密に組まれているのです。特に原理講論の堕落論と復帰原理緒論のアベルカイン分立のストーリーはものの見事に構築されています。
そして、その原理講論を理解し信じ実践すると、見事に聖書史(ユダヤ史とキリスト教史)が再現するようになっています。事実、統一教会運動内にユダヤ史とキリスト教史は厳密に再現しているのです。
信じられないかもしれませんが、本当にそうなのです。
神様と文先生は、まずもって使い物になる世界的なキリスト教が必要だったのです。
世界的な一つのキリスト教が再現出来なければ失敗だったのです。統一教会が、歴史時代のキリスト教に本質的に似通った内容を持って再現出来なければ困るのです。
この間、なるべくなら、原理講論の微妙な間違いに気付いてもらっても困るし、例え一部の教学者にその微妙な間違いを指摘されたとしても「これに触れてはいけない!付け足してもいけない!差っ引いてもいけない!これを是正する事の出来る権限は私(文先生)にしかない!」と完全否定せざるを得なかったという事なのです。
皆様!原理講論の教学者の方々が文先生にその様に厳しく言われた過去があると思いますか?
教学者の方々に直接語られたかどうかは分かりませんが、み言にはあるのです。
「私の生涯中の課題中の課題として、もう一度、原理講論を是正し書き換えて世に出す必要があるのです。・・・これを是正する事の出来る権限は私(文先生)にしかありません。・・・誰も手を付けることはできません。」と。
文先生にこう言われれば、従うしかないですよね?
この様なみ言に従順に従ったのは、かかる40年期間中の取るべき態度としては正しかったのです。
原理講論の微妙な間違いに気付きつつも、文先生の仰る事に結果として従ったのですから、これは本当に「天晴れ!」なのです。原理講論を信じ、こよなく愛した人々は大いに摂理的貢献をしたのです。
さて、1960年から2000年までの40年は、見事にキリスト教化させるための摂理だったので、我々が見事にキリスト教化したという事実は、見事に原理講論を絶対視し、見事に原理講論的摂理観に従い、見事に実践して来たという証なのです。
それで、キリスト教の様になるとはどの様になる事かといいますと、統一教会が現代のアメリカの様になるという事なのです。キリスト教文化圏の結実がアメリカである事は、皆様、ご承知の通りなのですが、統一教会はそんなアメリカの特徴に似通った様相を呈しているのです。
そこにはフーバーダムがあり、グランドキャニオンがあり、ロサンゼルスにラスベガスがあるのです。これらは皆、統一教会の中にあるある何かを喩えて暗示的に話されているのです。これは、機会を見てお話したいと思います。
ところで、アメリカという国家の背景はキリスト教であります。従ってアメリカとは、聖書を背景に造られた国とも言えましょう。勿論、そんな単純なものではないのですが・・・。
聖書では初めに神ありきです。唯一、絶対、永遠、不変です。神は最初から完全であり、最初から唯一、絶対、永遠、不変の神であると単純にして明快な神観を提示しています。
神が神になった紆余曲折や、神に成長期間があった。神も自己を克服してから天地創造の神様になったというような神の本当の事情については触れられていません。
以下のみ言をお読みください。
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● み旨と世界 P262 人間に対する神の希望
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▼ 自己中心・自己中心の動機の発祥・・・とは!?
★ 自己中心を克服され利他的に生きる様に成長された神様!?
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ここでは、人間のつくり上げた善悪の定義は関係ありません。善悪の永遠なる基準は神によって定義づけれられるものであります。はっきりした善悪の定義は、エデンの園に悪が入り込んでくるよりずっと以前、神の創造の時に既に存在していました。神の善悪観は決して変わることがないでしょう。神は永遠であり、神の法則は永遠であり、神の善悪の定義は永遠であり、時の流れにかかわらず不変であります。
我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。
この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。
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このみ言が本当の真理だとするならば、原理講論の堕落論の根底を揺るがす大問題だと思いませんか?如何でしょうか?
堕落の誘因となった天使長の自己中心の動機、また、その天使長と相対基準を結んでしまったエバの自己中心の動機。そのエバに相対してしまったアダムの自己中心の動機。
そういった自己中心の動機が人間にあるのは、そもそも神が自己中心的な時期があったので、極自然な事なのだ。人間の成長期間に見られる利己的な傾向性は神がそうであったのでその特質として我々人間に元々あったのだ。堕落したから発生したというものではなさそうだ。
これは、成長過程における動機の成長と転換について問題視しなければならないという説明になっているのではないか・・・。
どうやら、堕落の本質は、成長の時間軸に大きく関わりを持っている様だ。
人生全般に亘り、元々ある自己中心の動機を段階的に克服・転換して、より高く成長させなければならない人格の創造原理的な基準に対し、留まって凝り固まってしまったり、逆に下がってしまうといった事も含めて堕落というのではないか?
とにかく、堕落の本質は、人生全般に及ぶ非常に複雑で深遠なものだと思われる。
先のみ言によれば、自己中心の動機を神自らが克服され、宇宙創造に着手されるようになっていったということが理解できる。
そんな神ご自身の成長期間が人間にそのまま投影されている、という事が本当の真理であるとすれば、これは、一般的に全ての人々に当てはまる素晴らしいお話です。
堕落の本質は、成長期間のプロセスのどこかで凝り固まったり落ち込んで行くという事なのかも知れません。ここまでの説明を受けて皆様はどの様に理性が刺激されましたか?
人間として、オギャーと生まれ、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神と、神に至る成長期間全般を歩まない事こそが本当に深刻な堕落の本質であり、どこかで凝り固まったり、逆に動機がどんどん下がって落ち込んでいったりしてしまう事を「本当の意味で堕落している」と言っているのではないかと思えてなりません。
心が成長せず、つまり動機が成長せず、未熟で無知であれば男女問題も起こすし、盗みもするし、殺人もするし、果ては合法的だと言って戦争までも起こすのではないでしょうか?
勿論、人格が未成熟な段階で「取って食べるな、盗んではならない、殺人はしてはならない、戦争はいけない」と戒められる事はとても重要です。
自己中心的な傾向性が比較的強い個人としての成長段階には、戒めはとても重要だということです。何故なら自己中心的傾向性が強い期間なのですから、原理が理性で捉えられず、情的にも未成熟なのですから、より自己中心的な振舞いに陥りやすいのです。
しかしながら、戒めだけを守っていれば良い!というのも愚の骨頂です。
家庭を持つ前の個人の段階で宇宙創造の神の動機に触れ、神が本当の親であるという尊い真理を掴み、理性的にも情的にも一定の人格に到達しておかなければなりません。
つまり、個人的段階としての人格成長の原理的プログラムを履修しておかなければ問題が起きるということです。
万一、個人的段階としての人格成長の原理的プログラムを履修せず、家庭編成をした場合、果たして、家庭編成の原理的なプログラムに立ち向かえるのでしょうか?
自己中心の動機に凝り固まる・・・。これは何も個人的段階だけではありません。
家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、と神に至るまで各段階に各々設定されています。祝福を受けた統一教会の信徒の皆様は、果たしてどうでしょうか?
今現在、どの段階の自己中心に立ち向かっておられるのでしょうか?
民族的自己中心は如何でしょうか?国家的自己中心は?世界的自己中心は?
今、世の中には、家庭的自己中心に留まっていらっしゃる多くの家庭が存在しています。
皆様!そもそも、これから家庭を形成する未婚の男女が惚れた脹れただけで、氏族、民族、国家、世界、天宙、神に至るまで行けるのでしょうか?
惚れた脹れたは「氏族、民族、国家、世界、天宙、神」に至るまで、その道を行くにあたってとても重要です。むしろその道を行くためには、それを支える強烈な衝動心を持たなければならないので、神を中心とした強烈な恋愛はとても重要であると考えています。
しかしながら、「氏族、民族、国家、世界、天宙、神に至るまで行こう!」という動機と決意を所有する事はもっと重要です。
昨今の統一教会の祝福家庭にも、未曾有の危機が訪れています。生涯にわたって、そういったプロセスを行くという動機と決意を所有していないものが、安易に、家庭形成をしているからです。
一般社会を見る時、これはもっと如実です、
一般的に多くの人は「家族だけは・・・家族を大切に・・・」と言います。決して悪い事ではありません。家庭というのは、人格の成長過程の修練所であり天国の基地です。しかしながら、家庭だけはといって家庭的自己中に留まってしまっては本末転倒です。
家庭的自己中心に留まってしまうという現実は、余りにも多く見受けられます。
これは、神様や文先生から見れば到底納得できません。むしろ、そういうふうに我知らず「家庭的な自己中心の罠」にはまり込んで、凝り固まって成長期間内に留めてしまう。・・・一見良心的な生活・・・。
これは、神や文先生の視点から見た時、次元の違う悩みであり苦悩だといえましょう。
成長期間内に設定されている段階的な自己中心を如何に克服し、如何に神中心の人々を創造できるかに、未来の地球の運命がかかっています。我々はその教育プログラムを文先生のみ言の中に見出さなければなりません。
賢明なる読者の皆様は既にお気付きの事と思います。アベルカインの分立の摂理のお話も本当は違います。アダムが堕落したから分立したのではなく、創造の原則が分立なので分けたという事が本当のところなのです。
実は、統一教会は本当の意味では「堕落論」から始まっていると言ってもよい程、本当の創造原理がボヤーっとしています。これは、愕然とするほどボヤーっとしています。
それは、文先生が明確に語られていないからというより、うまくぼかしながら全体のみ言を語られているからだと言えます。先ほどのみ言はまさにそれです。
私達は文先生のみ言の中にちりばめられた「本当の原理」をいち早く発見し、天使長宗教圏を履修しなければなりません。
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● 統一教会 P9 1963・5・22 ソウル・前本部教会
一番収集するのが難しい人は宗教者です。摂理やその道を信じる宗教者たちです。・・・
● KNSネットニュース 2008・1 第25回 「愛勝日」
今日、統一協会の信徒たちが、宗教圏の垣根を抜け出られず、それに覆われながら生きてきた習慣的なすべてのことを、どのように清算するのかという、重要な起点に今、来ています。私たちの語っていることは、事実か、そうでなければ謎のような言葉です。事実だというならば、皆さんは、アダムとエバが堕落する前に見ることができ、推し量り得る自分自身となっていますか。
アダムとエバの堕落以来、これまでの蕩減復帰歴史において、自分の責任がどれほど大切であったかを考えてみましたか。現在、自分が処している場所が、神様の創造の花のような本然の世界ではありません。想像もできない、自由と平和の理想圏内からは永遠に離別した、そのような場所に立っているのです。天の前に自らを何者としても誇り得ないのです。堕落の血統によって縛り付けられた世界版図を前に、どのようにこれを取り消すことができるかということを考えれば、考える余地がないほどに悲惨だというのです。
● ファミリー 2003・3 P14 「神様の真の愛と天地人の関係の回復」
長い歴史の中で、人間は、宗教生活を卒業しなければならないという、この尊い真理を明らかにした人は、いませんでした。早くから神様のみ旨を知った私は、教派や宗教を創設しようとはしませんでした。神様の摂理の中心宗教であるキリスト教が、私の教えである天道を受け入れなかったことによって、私が初めてつくった組織が、「世界基督教統一神霊協会」 でした。
・・世の中が、私たちの長い公式名称に代わって 「統一教会」と呼ぶことによって、「統一教会」 になってしまったのです。しかし、私は数十年前から、私たちの教会の看板を下ろす日を望みながら、その事実を予告してきました。1996年に教会の看板を下ろし「世界平和統一家庭連合」として出しました。これは、人類史における重大事件です。
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