久しぶりだなぁ。
近いんだけど。


『ちくわ玉ねぎ串揚げ天と肉汁うどんセットLL(¥899)』



平日限定というのに引っかかってしまった(笑)
平日しか来ないのに。。

鯛100%ちくわってのがいいよね。
うずらに変更もできると言われたけど、もちろんちくわでしょ?愛知県民じゃああるまいし。





エッジの効いた不揃いなうどん。
基本的には武蔵野らしい噛み応えなのだが、やはり不揃いな分、細めのところはそれなりに柔らかく、良く言えば色んな食感が楽しめる。







天婦羅はなんとサラダスタイル!!?



うん、ちくわ天美味しいねぇ。
ちゃんとした一品だよね。



ただね、ここは汁のパンチが弱いんだよね~
なんか物足りないのよ。
肉も基本少ないし。
だから、どうしても「肉汁うどん食べてぇ~」ってなったとき、他所を選んじゃうんだよな。




菊花賞関西遠征にて。



『カレーうどん(¥600)』



おっと、現在は700円になってますね。
10月のことだから最近上がったようだ。
にしても100円も上げるのか。。

朝だったのでさっぱりいきたいとこだけど、カレーライスの品書きに「新カレールーになりました」とあったので、自信があるのだな、と。

やはり大阪王道の柔らめの麺です。
カレー汁は、ルーが新しくなったといってもスパイシーとかではなく、そこまで特筆するものはないんだけど、ふつうに美味しいです。
十字グラフの真ん中(笑)


うどん、そばが基本なんだけど、他にもいろいろメニューあるのでまた来たいですね。



SOMPO美術館にて。

『モーリス・ユトリロ』展
 
 
 
この展覧会で知った画家。
重度のアル中だったようで、けっこう苦労したみたい。
 
同じ建物や通りを度々題材にしてるんだけど、
『モンマニー時代』『白の時代』『色彩の時代』と画家人生のなかで調の変わる3時代ごとの変化がはっきりとしてて面白いですね。





そんな作品の大半が撮影OKだったので、現場の解説と共にご紹介っ。






『モンマニーの屋根』



セーヌ河岸やモンマニーの風景を多く描いた画業最初期「モンマニー時代」の典型的な作例である。パリ近郊の小さな町モンマニーは、1896年にヴァラドンと結婚したポール・ムジスが邸宅を構えた地であり、若きユトリロはこの地とモンマルトルとを行き来する。葡萄畑や果樹園に囲まれた長閑な地を描いた本作において、画家は、 俯瞰して捉えた屋根の連なりとその合間に繁茂する木々との一体感を、緑を基調とする色彩の調和と印象派を思わせる動きのある筆触によって表している。画面全体を覆う緑の中に、オレンジ、黄、青を散りばめつつ、また筆触の大きさや動きによっても確かな空間的奥行きを生み出している点からは、ユトリロ独自の色彩感覚と空間構成の力量がうかがえる。





『パンソンの丘』



ピュット・パンソン(パンソンの丘)にあるダンスホール付きの居酒屋は、パリの人々が週末に余暇を過ごす場所であった。ユトリロにとって馴染みのこのモチーフは、本作以降にも繰り返し描かれる。看板の向こうには、「白の時代」の到来を予告するかのような白塗りの建物と、 初期作品に典型的にみられる細かな筆触の集積によって表現される木々。手前に広がる緑の草地、密生する木々、そして空と、帯状に重なるモチーフの層によって画面を構築する感覚が確認できる。人の姿は描かれず、画家のまなざしは建物の外観を遠くから眺めるのみである。 郊外の居酒屋に垣間見る現代生活の気配と、同地の自然が放つ素朴さとが絶妙なバランスで同居する。







(上)『モンマニーの三本の道』
(左下)『モンマルトルのサン・ピエール広場』
(右下)『モンマルトルのサン・ピエール広場から眺めたパリ』






『ヴィルタヌーズの城』


14世紀に起源を持ち19世紀後半には取り壊された城に付属していた建物と、その前に広がる庭を描いたと考えしゅうれんられる。画面手前のベンチや柵、塀、花壇などが急速に後退し、また画面を横断する建物が右へ向かうにつれてわずかに収斂する描写は、この場所に立つ画家の視覚体験を観る者に追体験させるような、有機的な奥行き空間をこの画面にもたらしている。しばしば印象派の影響が指摘されるこの時期にあって、その痕跡は確かに建物と空に重なる枝の細かな筆触に認められるものの、 全体の色調は暗く沈み、鈍色の空にも陽光は感じられない。むしろ強調されるのは、庭全体に漂う静まりかえった気だるい雰囲気と、黒く塗りつぶされた空虚な窓が暗示するうら寂しさである。




『サン・メダール教会』



パリ5区ムフタール通りに位置するサン=メダール教会とびばりまと 15世紀に建立が開始され、18世紀には数々の奇蹟が起こった場所として知られる。ユトリロの関心は、そうした伝説や迷信的逸話の気配を一切纏わない教会建築そのものへと向かい、斜向かいから眺めたその姿を、空にそびえる鐘楼や飛梁といった構造上の特徴と共に極めて客観的に描き出している。この時期にしばしば見られる厚塗りや躍動的な筆触は限りなく抑制され、建造物の各部分の形態を丁寧に捉えることで、教会の説得力のある存在感を表すことに成功している。





『ランスの大聖堂』



歴代国王の戴冠式が行われたランス大聖堂は、そのゴシック様式によってフランス的精神を体現する存在として知られる。画家は生涯にわたり様々な教会建築を描いているが、本作のようなゴシック様式の大聖堂が圧倒的に多い。大聖堂の堂々たる姿は真正面から捉えられ、石造りの堅牢さに裏打ちされたモニュメンタルな存在感が際立つ。厚く塗り込められた暗い褐色の絵の具は、絶妙な色彩の差異によってファサードの複雑な立体感を見事に表現し、また執拗に重ねられた筆触からは、建造物壁面の質感に対する画家のある種の執着さえ感じられる。 1914年にドイツ軍の攻撃によりランス大聖堂が破壊された際、ユトリロは「身も心も奪われるほど激しい苦しみ」 を感じ、火炎に包まれた大聖堂の姿を描いている。





『サン・ドニ運河』



エコール・ド・パリの日本への紹介者として知られる福島繁太郎(1865-1960)によって1929年以前に日本へもたらされた作品。ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館)を設立した石橋正二郎の絵画コレクションに最初期に加わった作品のひとつであり、今日のユトリロについての評価とは異なる文脈、すなわち、印象派作品の収集の一環として購入された経緯が確認されている。 パリ北東のラ・ヴィレットからはじまり郊外のサン=ドニへと至る運河を主題としたこの風景画は、1910年前後にはじまる「白の時代」の直前に制作された。均質化された筆触の塗り重ねと、運河、建築物、空がつくる層構造によって構築された風景は、カミーユ・ピサロ (1830-1903)の影響のもとにあったことを伝えている。






『パリ郊外サン・ドニ』


旧福島繁太郎コレクション。エコール・ド・パリの作家を体系的に論じた福島の『エコール・ド・パリ』 (1948-51年、 新潮社)の中に収録された、ユトリロについて解説する章で、本作の図版が使用されている。福島は本作について、 「私が初めてパリに行った時分 (1921年頃)には所謂モンマニー時代のものや白の時代のものは、画商のウインドーに見かけなかった。見かけるものは当時の近作で、 線の堅い、色彩の鮮明なもの [「色彩の時代」の作品]であったが、これ等のものには私は興味が更になかった」、 「純粋の色彩を並べるばかりが美しいハルモニーではない。渋い色彩によっても美しいハルモニーが作れる。 ユトリロはそのよき一例である」と述べている。






『マルカデ通り』


たたずゆるやかに下る道の形状にあわせて、描かれる左側の建物の一階部分も少しずつ律動的に段差を描く構造を示している。道は途中で左に向かって湾曲し、ユトリロの他の多くの作品と同様、視線は絵画空間内にとどまることを強いられる。マルカデ通りはパリ18区に位置し、 中世の時代に定期市 (ラテン語でmarcadus) が開かれていたことに関連して名付けられた。道端に佇む二人組や、中央に描かれる馬車の御者などの人物は、概して、ユトリロにとっての人物像が街の景色を活性化させるための二次的な要素であることを示し、ここでは画面の奥に押し込まれているようでもある。画面内に描かれる文字は、「COMPTOIR」 (カウンター)、「VINS-LIQU [EUR]」 (ワイン・リキュール)など、酒や食事に関する店舗の看板で占められている。







(左上)『モンマルトルのノルヴァン通り』
(左下)『モンマルトルのポワソニエ通り』
(右)『サン・ジャック・デュ・オ・パ教会』





『パリのサン・セヴラン教会』



セーヌ川の左岸、カルチェラタンにあるこの教会は、聖セヴランのために建立された教会として6世紀にその起源を持つ。定規とコンパスを用いて描かれた本作は、規則正しく整然と引かれた直線によって構成され、建物の白い壁、教会の青い屋根、店の茶色いショーウィンドウ、黄土色の道など、大部分が絵具を丹念に塗り込めて仕上げられている。一方、黒く細い線で描かれるバルコニーの柵や波打つ線で表現される樹木は、ほとんど自動的に反復する画家の手の動きを感じさせるほどに簡略化され、その下の建物の表層を覆っているに過ぎない。こうした軽やかな筆致はこの画面にある種の単調な平面性を与え、さらには静まり返った街角の寂しさをも強調している。







(左上)『クリニャンクールのノートルダム教会』
(左下)『サントゥアンの小さな城館』
(右)『ベルト王妃のらせん階段の館』






『サノワの製粉場』



深緑の葉が生い茂る樹木と白い建物のあいだに、 ンジ色の三角屋根が印象的な製粉所の塔を据えている。サノワで比較的快適な入院生活を送ることができていた画家の穏やかな精神状態を反映してか、塔を見上げる人物像が小さく挿入されるものの、全体に静けさが漂っている。幾何学的な奥行き空間を生み出している右手の建物の整然とした印象と、印象派風の筆触で描かれた樹々の生命感が好対照をなしている。その間では、 塔の一際鮮やかな三角屋根が青空を背景に浮かびあがっているが、左右のモチーフによって生み出される奥行き空間の奥に、背の高いシンボリックなモチーフを配す構図は、ユトリロの得意とするところである。








(上)『キオスク』
(下)『セルネーの城の入口、サノワのマジャンディ通り』





『モンモランシーの通り』



一家で住んでいたモンマニーの隣町、モンモランシーの街並みが描かれた本作では、奥へと緩やかに続く通りが中央に据えられ、遠景には教会の尖塔がのぞいている。建物の輪郭は明瞭で、抑えた色調と厚塗りのマチエールが、どこか沈静した空気を漂わせている。 まばらで、物悲しい街路の様子が画面全体を包み込み、 ユトリロ特有の都市風景があらわれている。





『郊外の通り』



いわゆるオスマン様式の建物が立ち並ぶ華やかなバリの市中とは対照的な、赤い屋根の家と通り沿いに立ち並ぶ建物を描いた、どこか素朴なもの悲しさを漂わせる郊外の風景である。モンマニー周辺を描いた最初期の風景画には見られなかった、通りを用いた奥へと向かう空間の設定や画面右端にかすかに確認される人物像、 また三角の屋根や未舗装の道に見られる温かみのある色使いが新たな要素として加わっている。筆触を大胆に残しながら厚く塗り込めた画肌や、一際目を引く白い壁、 そして線遠近法的な空間構成の萌芽は、この後に展開する「白の時代」を予見させ、本作はその先駆けに位置付けられよう。








(上)『緑の屋根の農家』
(下)『ブール・ラ・レーヌのスペイン皇女の館』





『物見櫓のある塔』



白い塀の向こう側にそびえるのは、円錐形の屋根を持つ物見櫓を備えた塔である。前景に広がる緑地、白い塀、その上部に繁茂する生垣が生み出す色彩の帯は、 画面中央へ向かって収束するようにやや歪みを生じさせることにより、曖昧ではあるがしかし確かに存在する奥行き空間を生み出している。緑の生垣と薄曇りの青空に挟まれる塔と物見櫓は堂々たる存在感を放ち、本来実用的な機能を備える建物でありながら、画家がそれまで大聖堂や教会に与えてきたのと同様なモニュメンタル性を有している。こうした神々しいまでの存在感は、壁のマチエールを意識して塗られたニュアンスに富む白の表現ゆえにほかならず、「白の時代」らしい特徴を備えた1点といえよう。







(左上)『サノワのマジャンディ通り』
(左下)『サノワの通り』
(右)『サノワの通り』





『ピエイクロスの修道院、コルシカ』



コルシカ島ピエイクロス、オレッツァの聖フランシスコ修道院を描いた本作で、ユトリロは建築物を平面的に構成しようと試みている。1913年の春、ユトリロはヴァラドン、 ユッテル、そして友人とともに、コルシカ島に約半年間滞在した。フランス本土に暮らす人々にとって、コルシカは異国情緒あふれる地であり、ユトリロもその風景を楽しんだようだ。しかし、わずかな例外を除き、この地でも彼は絵葉書をもとにモンマルトルの風景を描くこともあったという。本作では壁に穿たれた窓が画面上に不規則なリズムを生み出している点が特徴的である。単純な形をわずかに変化させながら反復し、面を構成する様式で描かれ、建物の存在感やモニュメントが屹立している感覚をさほど感じさせない反モニュメンタルな造形が目指されている。





『廃墟の修道院』



ブルターニュ地方フィニステール県、断崖絶壁の土地に建つサン=マチュー修道院の廃墟を絵葉書をもとに描いている。画面には朽ちた石造りのアーチや壁面が描かれ、ユトリロ特有の厚塗りの白が建物の質感や、海に面した修道院の廃墟が被った時間の経過を表現している。 もとになった絵葉書を見る限り、実際に修道院を形作る風雨にさらされた石造りの壁はここに描かれているほどの白さはなく、ユトリロ自身による自然観照に対する態度の乏しさを感じさせる。写真に写りこんでいた人物は描かれず、画面は純粋に眺められるべき風景として整えられ、フランス最果ての土地ブルターニュを描く人影のない構図や澄んだ色調は、都市風景とは異なる静かな外観を湛えている。







(左上)『サン・ドニ通り』
(左下)『アルジャントゥイユの大きな通り』
(右)『サノワのジャルダン・ルナール通り』





『可愛い聖体拝受者』



くすんだ青空の下、白い壁の小さな教会が画面中央に静かに佇んでいる。人物の姿は描かれず、画面全体が静寂に浸っている。建物の輪郭にはやや硬質な描線が見られるが、白を基調とした柔らかな色調とマチエールが、画面に澄んだ印象を与えている。タイトルはヴァラドンの
聖体拝領の日に夢に出た少女に由来するが、画面に姿を現さない聖体拝受者――イエスの血と肉を初めて受け取る白装束を着た少女は不在であり、白く小さな教会の姿に重ね合わされている。その不在が観る者の想像力を喚起し、作品に象徴主義的な深みを与えている。






(上)『教会、ヴィルタヌーズ』
(下)『モンマニーの教会』






『サン・ディディエの教会、ネイロン』



東部アン県の小村ネイロンにあるサン=ディディエ教会を描いた作品。ユトリロが城に軟禁されていた小村サン =ベルナールからは約20キロほど離れている。ユトリロはモンマルトルの都市風景で知られているが、この作品では画家のもう一つの主戦場である地方のゴシック教会建築に焦点を当てている。教会の白い壁面には、ユトリロ特有の厚塗りの技法が用いられ、地面の黄土色は盛り上がるように描かれている一方、真正面からの構図と人影の少なさ、建物の中庭に閉じ込められた視線により、内省的な雰囲気が醸し出されている。斜めになった三角屋根は教会の厳粛なる存在感を脱日させているようでもある。「白の時代」が終わり 「色彩の時代」に入ったこの時期、空には薄いピンク色が使用され、建物にはやや緑がかった色彩が多用されている。






『郊外の教会』



LAL 1920年はユトリロにとって色彩の時代へと至る「第二過渡期」であり、「豊穣な緑の時代」として徴づけられる。 15年の徴兵検査失格に由来する健康状態の悪化から、 本作に先立つ16年のほとんどをヴィルジュイフの療養所で過ごしたユトリロは、制作をほぼやめ、色彩は暗さを増していった。さまざまな緑が潤沢に使用される一方、 鮮やかさや構図の厳密さという観点で、ある種の退行をみせているこの時期、ユトリロはビクピュスとサン=タンヌの精神病院の入退院を繰り返し、コルトー街のアトリエで母から監禁される生活を送っていた。また友人モディリアーニがこの世を去ったという事実も、この様式の変化と関係があるのかもしれない。この後、ユトリロはサン= ベルナールの城館へ移され軟禁生活を送る。





『モン・スニ通り』



モンマルトルの丘の北側からサン・ピエール教会の西側にかけて、南北に長く延びるモン=スニ通り。ユトリロが生涯にわたって何度も描いたこの通りには、ヴァラドン、 ユッテル、ユトリロがよく通った元警察官セザール・ゲイが経営する店「カス=クルート」や、20代の頃にその店の女将マリ・ヴィジエに夢中になった居酒屋「ラ・ベル・ ガブリエル」(美しきガブリエル)、ベルリオーズの家、ミミ・ パンソンの家など、画家にとって馴染みの場所がいくつも集まっていた。画面右手には、高低さまざまな建物が並び、黄、緑、ピンク、青といった配色が、曇天の空と通りを彩る色彩と共に、この画面に華やかな雰囲気を与えている。「白の時代」から「色彩の時代」への移行に位置付けられる本作は、1937年、フランス国家の買上げとなった。






(左上)『ベル・ガブリエルの酒場』
(左下)『マヌル川から望む大聖堂と市役所』
(右上)『モンマルトルの眺め』
(右下)『サン・ジャン・オ・ポワの教会』





『モンマルトルのミミ・パンソンの家とサクレ・クール寺院、サン・ドニ通り』



ミミニパンソンは、作家アルフレッド・ド・ミュッセの作品に登場する架空のお針子であるが、後にモンマルトル地区モン=スニ通り18番地の建物が彼女の住居とされ、名所となった。画面右下に記された献辞は、リュクサンブール美術館を経てフランス国立近代美術館の学芸部長を務めたロベール・レイに宛てられたものである。レイは本作と同年にユトリロのモノグラフを出版しており、本作はその記念として贈られたものと推定される。本作の前年にはベルネーム=ジュヌ画廊と契約をし、ユトリロの名声は日に日に高まっていた。「色彩の時代」に属し、分厚い輪郭線に縁取られた色面と、チューブから直接絞り出したかのような鮮やかな色彩によって、どこか非現実的な都市風景が構成されている。写真家のウジェーヌ・アジェが撮影した写真をもとに制作されたと考えられる本作では、遠景にモンマルトルの新しいシンボルとなったばかりのサクレ・クール寺院 (1919年献堂)が妙に写実的に描かれ、白の豊かな諧調が際立つ。1920年代以降の作品にしばしば登場する、画面右下に見られるような尻の大きな女性の描写については、ユトリロのミソジニー(女性嫌悪)を反映したものと解釈されることが多い。 しかし、名所写真という記号化されたイメージを反復し、 それを自身の表現として確立したユトリロにとって、女性の身体もまた同様に記号として描かれるのは自然な帰結であったと捉えることもできるだろう。






『シャラント県アングレム、サン・ピエール大聖堂』



1935年、ユッテルと離別し病に伏したヴァラドンは、病院から旧知のベルギーの銀行家の未亡人、リュシー・ ポーウェルを呼び、ユトリロと結婚させようと画策する。 二人は結ばれ、フランス西部アングレームにあるリュシーの家に落ち着き、平穏な生活を送る。ユトリロ51歳の時のことである。ユトリロはしばしば教会を描き、その多くは陰鬱な雰囲気のなかに佇んでいるが、結婚の同年にアングレームの街の象徴である教会を描いた本作では、明るい画面が展開されている。まるで書割のように平面的に展開される空と、画面から垂直に立ち上がる教会のファサードにみられるように、「色彩の時代」の彩度の高い色彩と、モニュメンタルであると同時にプリミティブでもある描写が詰め込まれた作品である。





『アトリエ座』



ロシュショアール通り付近、18区に位置するアトリエ座の支配人に倣って命名されたシャルル・デュラン広場。アトリエ座とその前庭、樹木と人物が描かれた本作では、他のユトリロ作品のように明確な消失点は設定されておらず、樹々の線描と劇場の窓枠の線描が同一の様式で表現されるなど、オールオーヴァーな平面的画面が展開されている。初期の擁護者であったアドルフ・タバランは、ユトリロが制作するグアッシュ作品について、「油彩のテクニックとほとんど変わらない。油彩と同様に、表現主義の鋭敏さがあるし、ある種のディティールの繰り返しには魅力が感じられる」と述べている。ユトリロが舞台芸術と接した機会は2回あり、そのうちの1回では本作と同年の 26年、ロシアのディアギレフ・バレエ団によって演じられた「バラバオ」の舞台装置とデザインを担当している。






『クリスマスの花』


本質的に風景画家であったユトリロが、人物や静物を描くことはほとんど無く、花の絵を描くようになったのも、 のちに妻となるリュシーと親しく交流するようになった 1920年頃のことである。ユトリロは親しい人に花の絵を描いて贈ることが多く、とりわけ花瓶に生けた花束をモチーフとした絵は、結婚する前からリュシーに度々贈られたという。青い花瓶に生けられた赤とピンクの花が画面を満たすように咲き誇る本作は、ユトリロがリュシーとル・ ヴェジネに移り住んだ時期に描かれた1点である。また、 ユトリロが出演する映画を撮影したサシャ・ギトリもユトリロの花の絵を愛好し、所有した一人であった。






(左上)『オーモン郊外の学校』
(左下)『郊外の教会』
(右上)『奥殿側から見た教会、サモワ・シュル・セーヌのフーケ通り』
(右下)『ボワシエール・エコールの教会と通り』





『聖トマス教会、モンマニー』



ユトリロが初期から晩年にかけて好んで描いたモンマニーの教会を題材にしており、同モチーフ・同構図で描かれた《モンマニーの教会) (1913年、個人蔵)と構図が酷似しているものの、制作年が約25年離れており、様式の変化が顕著に現れている。特筆すべきは、初期の作品に比べて人物が多く描かれ、街に賑わいがあふれている点である。空にはピンク色が混じった鮮やかな空が広がり、2点透視図法が用いられ視界は比較的開かれている。建物の白は初期作品に比べ質感に乏しいものの、青、赤、緑の鮮やかな色彩が対比的に使用され、 「色彩の時代」の特徴が前景化していることを示す好例である。






(上)『モンマルトル、トゥレルのカフェ』
(下)『ビュイサントのノートルダム礼拝堂、雪景色』





『雪のサン・リュスティック通り』



サン=リュスティック通りは、テルトル広場の北側、ノルヴァン通りと並行するように東西に走る狭い通りである。 緩やかにカーブを描くこの細い路地は、通りの向こう端が見渡せるような見通しの良い場所ではないが、画家はそうした特徴を構図にうまく生かし、建物の向こう側に突如現れるサクレ・クール寺院の真っ白なドームをシンボリックにこの画面に登場させている。モンマルトルの入り組んだ通りを逍遥しながらふと上を見上げた時にドームを目にした、そんなユトリロの視覚体験が反映されているのかもしれない。画面手前の建物が色とりどりの色彩で描かれ、ドームの白さを際立たせている。





『雪のヴェジネ、聖ポリーヌ教会』



1937年に妻リュシーと移り住んだル・ヴェジネの西の端にある聖ポリーヌ教会は、20世紀に入ってから建設された比較的新しいネオ・ゴシック様式の教会である。一面雪に覆われた教会を通りのこちらから捉えた本作は、 グァッシュで描かれることによって油彩とは異なる軽やかな仕上がりの印象で、雪の白さがより一層強調される。 画面全体が白い色調によって支配されているがゆえに、 教会や木々、塀や柵を表す線的要素の存在が際立ち、 他方で、灰色がかった水色で塗り込められた薄曇りの空の描写が、単調な風景にわずかなニュアンスを加えている。通りを歩く人物像は、画業後半にしばしば登場するほとんど記号化された添景モチーフである。






『ラヴィニャン通り、モンマルトル』



バリ・モンマルトルの南西斜面に位置するラヴィニャン通りを描いたもので、同構図の作品がニューヨーク・メトロポリタン美術館にも所蔵されている。この通りの13番地には、パブロ・ピカソ、ホアン・グリス、ヴァン・ドンゲンら前衛芸術家が集ったアトリエ 「洗濯船」があり、ユトリロにとっても芸術的なインスピレーションの源だった。しかしながら、彼はこの場所を、名もなき建物や古びた商店に焦点を当てて描いている。特に、パレットナイフを使って厚く塗られた白い壁面は、建物の老朽した様子を強調し、街角を歩く人の姿もなく、物悲しい雰囲気を醸し出している。ユトリロ独自の色彩感覚と、複層的な構成力により、モンマルトルの歴史と日常が簡素ながらも堅固な輪郭線で描かれている。







(下)『モンマルトルのムーラン・ド・ラ・ガレット』
(上)『村の通り』






『ラパン・アジル』



「跳ね兎」を意味するこのキャバレーの経営者フレデはヴァラドンの知人であり、その縁からユトリロ自身も足繁く通った。絵葉書をもとに繰り返し描いたこのモチーフには多数のヴァリエーションが存在するが、本作はその中でも最初期の作例にあたる。本作が制作された年、ユトリロはパリ近郊のサノワでアルコール依存症の治療を受け、制作意欲を取り戻し、画家としての評価は高まりつつあった。本作では、建築物の輪郭線が明確に引かれ、 線的な遠近法が試みられている。しかし、ニュアンスに富んだ黄土色の積み重ねによって生み出された、迫り上がるような建物横の小径や空、木々、さらには押し込まれるように描かれた人物の表現によって、画面にはわずかな歪みが生じ、独特な絵画空間が生み出されている。


以下は全部『ラパン・アジル』








これで行ったも同然ですよ~