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あらきまさきのブログ

東京の会社に勤める普通の会社員です。
日々の生活で感じる「違和感」をブログにしたためます。

 1952年の小津監督の作品ってことは「東京物語」の前の年に公開されたってことなのだが、それ以降の小津作品は「親子(父娘)」を題材にしているが、この映画は「夫婦」を題材にしている。

 でも、いずれにせよ「人類不変の愛のカタチ」がテーマであることには大きな違いはない。若し頃の大島渚監督がそんなテーマを「古臭いメロドラマ」と切って捨てるのは理解できるが、今の時代も、またこれからの時代も「一周回って」心にしみる名画であることは間違いない。

 この作品の主題にそって僕自身が「Primitive」に感動したポイントを<客観的><主観的>に分けて羅列してみる。

 

<客観的評価>

①     画がいい!ってことは小津作品だから当然だけど、いつもの固定カメラだけではなく、移動カメラも使っている。ちょっと不自然だけどそれはそれで新鮮な味わい。でも、固定カメラのロー・アングルの方が小津映画って感じかな?

②     配役たちの後ろの壁にいろんな絵や写真が象徴的に飾られているのが面白い。特に主役の佐分利信が初めて自らの心を吐露するシーンではこんな時代の映画なのに、ヌード写真が飾られている。(小津監督、攻めてるな・・・)

③     若頃の淡島千景がメチャクチャ美人!(これは主観的評価か・・・?)

 

<主観的評価>

①     終戦後7年しか経っていない頃の時代設定なのに、当時の日本のサラリーマンってこんなに優雅で時間的余裕があってうらやましい!日々の仕事に追われてる身としては「働き方改革」のお手本にしてほしい。

②     パチンコや競輪、ラーメンやとんかつ等、当時はやり始めた娯楽が出てくるが、意外に批判的な描写なのが面白い。特に笠智衆が演じるパチンコ屋のオヤジが「こんなものにはまってはいかんです」っていうセリフにはとても共感する

③     その笠智衆が短いシーンにも関わらず、とても存在感があって素晴らしい。この後の小津作品の中でなくてはならない存在として主役を張り続けるのはとてもよく理解できる。

 

 といった具合に今回は箇条書きでコメントしてみました。

 

 それにしても小津監督の作品はどの作品も素晴らしくて、日本人として原語のまま鑑賞できることに最高の幸せを感じる。本当にヴィム・ヴェンダースは小津作品の素晴らしさをわかってるのかな?・・世界的名監督に失礼な一言でした・・

 

 「映画はカメラを軸に撮るのではなく、その前の人々の世界を追うのだ」

 この映画の中でアキ・カウリスマキ監督が小津作品から学んだとこととして語る言葉だ。

 この映画が上映されたのは1993年で僕はその当時リアルタイムに映画館で観ているはずだが、このカウリスマキ監督の言葉とヴィム・ヴェンダース監督が心の底から熱く小津監督「愛」を語っていたことしか印象に残っていない。

 つまり、当時はそれほど印象に残らない意外性のない映画だった。

 

 小津安二郎監督は間違いなく僕が大好きな映画監督の一人であるが、世界の名だたる映画監督が小津作品を絶賛するたびに、少しだけ違和感を感じる。

 「普遍的な家族愛」や「言葉では語れない心の揺れ動き」をアメリカやヨーロッパの映画監督が小津作品の評価として語る視点は日本人の僕にとってはそりゃそうでしょ・・・的な視点でしかない。

 もちろん小津作品にはカメラワークの独創性やセリフとセリフの「間」の斬新さなど「さすが世界の小津!」というべき完成度の高さを感じるが、欧米の映画監督たちが語る視点はその映画技術の完璧さを表現するための素材としか思えない(ヴィム・ヴェンダース監督は全く正反対の観方だったな・・・)

 

 この映画「小津と語る」は松竹が小津安二郎生誕90周年を記念して創った映画だが、世界的な映画監督のコメントをとるためにその監督たちの住む場所(香港、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、パリなどなど・・)の街の風景が織り込まれている。

 小津作品を意識して「できるだけ客観的に街の中のありふれた生活を映している?」ようだが、笑えるほど間が悪いし画も悪い。

 それだけに余計に小津安二郎の映画技術の偉大さが浮き彫りになる。

 

 「松竹は小津安二郎作品を大切にするべき義務を負うはずなのに、20年以上前の作品とは言え、よくこんな映画を作ったな・・・でも、まてよ?もしかするとわざと小津安二郎の偉大さを賞賛するためにわざとダメな映画をこの世に送り出したのかな?」ってことを考えさせるほどのダメな映画だ。

 

 先日(2018年7月19日)、脚本家の橋本忍さんが亡くなったため、あらためて彼が日本映画史に残した功績を知りたくなり「複眼の映像」という彼の著書を買って読んでみることにした。

 橋本さんが黒澤明監督と出会って「羅生門」や「七人の侍」の脚本を共作するに至った経緯が彼自身の言葉で生々しく書かれていて、読めば読むほど「世界の黒澤」のすごさを感じることができた。

 「黒澤明という男―それは閃きを掴む男である」という橋本さんの言葉に今まで僕自身が感じてきた「黒澤明作品の中にある『閃き』を感じる喜び」が決して間違った楽しみ方でなかったことを再認識させてくれた。

 

 久しぶりにその喜びを感じてみたくなって「蜘蛛巣城」を観た。あらためて感じたのは「これって、今の世の中によくいる『人として未成熟なために、よからぬ声に振り回されて、結局世間に迷惑かけるサイテーのやつ!』の映画なんだな・・・」ってこと。

 長く会社勤めをしていると、会社の方針や上司には従順に従うのだが、結果として会社に迷惑をかける輩を何度も見てきた。会社の中には、若い時に会社にすべて捧げて「殊勲」を果たしてきたために、自分のやり方が唯一無二の方法論でその他のやり方は間違っていると誤解?している「未成熟な武将タイプ」の上司が多い。こんな上司についたら最後、どんな優秀な若手も芽を摘まれるか、さっさと見限って会社を辞めてしまう。それは長い目で見ると会社に損害を与えていることになる。

 「蜘蛛巣城」に出てくる「もののけ」は、三船敏郎が演じる武将、鷲津武時をそそのかして、武時に主君を殺させる。その主君の代わりに蜘蛛巣城の主となった武時は自分が犯した罪を心のどこかに感じながらも、権力の虜になった妻から「もっと上を目指せ!」と発破をかけられて組織を間違った方向に導く。結局、武時は主の間違った指示に気が付いた自らの部下たちに矢を向けられて、全身串刺しになりながら哀れな最期を遂げる。

 

 部下たちが気づいてよかった、間違った主は哀れな最期を遂げてよかった。これが、僕がこの映画を観た直後の感想である。

うちの会社は「もののけ」や「権力の虜になった妻」たちにそそのかされた主を正すことはできるのだろうか?

 古き良き日本映画にはとてもたくさんの事を学ばされる・・・