もののふ 乃 空手道 -3ページ目

もののふ 乃 空手道

古来武将より培われた「もののふ」の精神を現代日本男児に知らしめなければ日本は沈む。武士道精神が現代に於いても伝承されたる武道の神髄、空手道を通じて現代武人の戦術と精神をかたる。

‐武‐ノ巻「火の篇」



もののふ 乃 空手道




武ノ巻【実戦と競技試合】◇対戦◇





《実戦の局》





『手合い』の行





実戦の場合は、戦況に応じて百戦あれば百通りの戦い方があり、戦術的な戦法の規範はあろうが、実戦に於いては想定外も想定して戦う心構えが必要になる。相手が複数であるか単数であるか、立っているか座っているか、屋外であるか室内であるか、凶器や武器を持っているかいないか、等、様々な状況によって戦い方は変わってくる。日頃より常に様々な状況を想定して稽古していれば自ずと瞬時に心眼が閃き感覚的に導かれるように心身が動き出すので、やはり普段からの心と肉体の実戦を想定した稽古が最も大切である。





実戦では空気を斬る、切り返すような瞬間の技が生きる。その意味で瞬時に感覚的に相手を読み取る事に熟練した者は強い。





また、どう見ても敵わないと判断したら素早く逃げ去る戦法も戦術として懐に入れて置くべきである。勿論、婦女子や子供など守らなければならない味方がいた場合は別であるが、そうでない場合で、その場で勝機がないと見た場合は素早くその場から去り、力を付け次回の戦いに繋げるのも命を懸けているのであるから恥ずかしい戦術ではない。







《実戦の局》





『間合いと交戦』の行





相手が単数で自分より一歩以内にいる場合は、その場から瞬時に攻撃を加えられる最良の間合いである。相手が攻撃をする前に瞬時に機先を制する事が何より重要であり、己の戦意を相手に気付かれぬ内に攻撃を加え、一撃の元に完璧に倒すのが理想である。





その時、機先の一撃に有効な技としては、頭付き、目付き、正拳突き、金的蹴り、肘打ち、膝蹴り、掌底打、などが望まれる有効な技である。





その時の状況や己の技量によって繰り出す技はそれぞれである。相手が多少強健であっても、己の一撃で仕留められる技量が己にあり、石のように固い拳とその拳に速さと重さがあれば正拳で相手を一撃で倒すことが出来るであろう。それが、一対一の戦いで間合いが短い場合の相手を倒す理想形であろうが。そうでない場合は、例えば己が石のように固い拳とその拳に速さと重さがない場合には、より狡くたちまわる事が有効である。





相手の体格が頑丈であり己より力がありそうであれば、金的か目付きが有効になり機先の一撃で相手の戦意が萎える場合もあるが、急所の点を外した場合には確実に相手が反撃してくる事も想定し攻撃を加える事である。





また最も瞬間的に短い距離と時間で攻撃を加えられるのは頭付きであるが、自分より身長がかなり高い相手や首が太く強そうな相手などは、頭付きだけで倒す事はかなり難しく、相手の反撃を必ず想定し、二の手、三の手の攻撃を反射的に素早く行う必要がある。





次に、機先を制する事が出来ない場合の戦い方であるが、この場合、己、相手、双方は戦うための臨戦態勢に入っているので、己に相当な一撃の実力があれば別だが、そうでない場合は中々、真面な攻撃では相手を即座に伏す事は難しい。ややも すると双方がもつれ合い、有効打のない乱打と掴み合いの戦いとなる場合が多々ある。





こうなると、普段の実戦を想定しての稽古が生きてくる。それはさばいて躱し攻撃する稽古である。俊敏な動きから体を躱し、己の有利な位置に入り、相手の重心を崩すさばきと(かわ)しは尤も効率的に己の攻撃力を上げる。相手の踏ん張りを崩しての瞬時の攻撃は相手が防御作用の力学の支点を外しているだけに、こちらの攻撃が生きてくる。瞬時に、正拳突き、肘打ち、膝蹴り、金的蹴り、踏みつけ、掌底打、目付き、など己と相手との体制によって、その時最も有効な技を叩き込むのが有効となる





要するに、相手が踏ん張っている時の攻撃は中々効かない、よって相手の体制を崩したところに、精神的にも躰のバランス的にも抜けている所に打撃を加えるということである。





また、相手が複数いる場合は、相手の人数にもよるが、まず攻撃を加える前に、己の逃げ道、あるいは移動経路を出来るだけ把握しておく事が大切である。相手が複数の場合でも、その場で倒せるのは一人だけであると考えた方がいい、全て一撃で倒せるのであれば相手が順番に一人ずつ掛かってくる事になるので別だが、相手に掴まれでもすれば瞬間に他の相手が背後左右から襲い掛かってくると思った方がよいであろう。この場合袋叩きにあってしまうので必ずそうならないように相手とは組まないように戦う事が鉄則である。よってその場で一人倒したら移動して一人、また移動して一人というように動きながら相手を一人ずつ倒すのが有効である。また、最初に倒す相手は敵の大将と思われる人物を狙うのが最も利口な戦法であろう、大将が倒れ指揮系統が乱れた輩は弱体化するものである。





また試合と違い実戦に於いては、下段蹴りや上段回し蹴りなどは、中々有効技にはならない。足への下段蹴りは相手の体制を崩すために払いで放つときは別だが、一発で倒す一撃技には中々成り得ない。上段回し蹴りも上手く顔面の急所に決まれば一撃で倒れるが、己と相手が動いていて気が張っている状況では一撃で相手の顔面の急所に決めるのは、かなり難しくなる。逆に倒せなかった場合は足を高く上げている分、己の重心のバランスを欠いているので、そのまま掴まれ倒される可能性や、突進によって倒される可能性がある。





実戦に於いては、綺麗事は通用しない、失敗それ即ち死である。だまし討ちだろうが、奇襲だろうが、勝った者だけが生き残る権利を有する。汚い手を使われて負けてしまったという言い訳は通用しないのが実戦である。戦い時は瞬間々々に必ず勝機がある、その勝機に気付き素早くそれを応用する実戦勘が何より重要である。あまりにも正攻法の競技試合に慣れていると、勝つ事よりも正攻法で戦う事に固守してしまい、機転の利いた隙を付く攻撃を無意識のうちに避けてしまう傾向がある。相手が油断した隙、目を離した隙、(おとり)に気を取られる隙、等、相手を撹乱するあらゆる方法を考え戦う癖を身に着けておくのも必要である。







《試合の局》





『手合い』の行





大会競技での試合の場合、お互いが同じ競技で切磋琢磨した者同士であるので、得てしてより真面目に稽古を行いより精進した者が勝者となる事が自然であろう。まさに技量と精神力の強い者が勝つのである。





決められた規則の中で正々堂々と戦うが、決められた時間内での決着となるので、やはりそれはそれなりに戦法や戦略もあり、それによって勝敗を分けることもある。





判定決着などの場合は特に己の攻撃が、相手に対し痛手を与えていると見せられる者の方が有利になる。大技や派手な技に審判は有利に動く傾向も考慮するのも一つである。また、戦う時間が決まっているので、最後の数十秒間で、全力で戦い印象を良くする戦い方も一般的に判定には効果がある。実戦とは違い同じ格闘技の競い合いであるので技と技とのぶつかり合いであるので、打たれ強く強靭で丈夫な肉体を有している事も勝つ為の重要な要素である。





競技試合というのは、基本的には技量、精神力、心技体の披露の場であり殺し合いではないので、相手をも尊重し、武士道精神に則り、正々堂々と戦うべきなのが競技試合の戦いである。







《試合の局》





『間合いと交戦』の行





競技試合で勝つ為には、勿論普段の稽古が最も重要である。日々の稽古こそが試合で勝つ上で何よりも重要な要素である。実戦と違い試合の場合は、より多くの稽古に精進を重ねた者が勝つのが一般的には自然な流れである。





体格や素質、得意技など様々な個人的な要素が、個性として組手の中に現われる。真面に打ち合いになる事も多いので打たれ強い屈強な肉体を築いておくのも大変に重要な事である。正拳や腕や胸、腹は勿論の事、脛や脚全体など、何度も何度も肉体の部位がぶつかり合う、従って、何度打撃を加えられても耐えられる屈強な肉体を作る稽古を常に行う事が必要である。





また、試合の戦いで重要になるのが持久力である。同じ環境でお互いが全力で、ぶつかり合うので実力が拮抗していると相当なスタミナを浪費する。持久力がなければ幾ら一発の技に威力があっても、時間を経過するごとに体力を消耗し、技の威力も半減し、持久力のある相手に太刀打ちできなくなる。よって普段の稽古の中に持久力の稽古は大変重要な稽古となる、これは長距離を走る事、坂道ダッシュを続けて繰り返す事、基本稽古を手を抜かず全力で最後まで行う事、相手を入れ替わりで組手を長く全力で行う事、等、色々な稽古方法があるが、基本は手を抜かずに魂の込めた稽古を集中してを行う事である。





現在の一般的なフルコンタクトの空手の試合の場合、顔面への手での攻撃が禁止されている場合が多いので、突きの攻撃は殆どが首から下の上半身に集中する。正拳の威力は押す力と同時に引く力、そして握力の握る力でその威力を成している。勿論下半身の強さも上半身に伝達される力の基本となる。肘や前腕で相手の攻撃をかわしながら突きの攻撃を加えるが、握りが強くスピードと重さのある突きを有する事は、接近戦に有利になり優勢に試合を運ぶ要素となる。





試合時に戦う構えは、それぞれに個性があり戦うスタイルによって異なりそれぞれに特徴がある。左構えや右構え、または戦いの中で左右の構えを使い分け戦う者などがあるが、一般的には右利きの構えの相手には左利きの構えが有利となる場合があるが、だだこれは、慣れの問題でもあるので一概には言えない、右利き構えの選手が左利き構えの選手と戦う時に多少の戦いづらさがあるのは慣れの問題が一番なのである。





同じ構えと言っても、正攻法なオーソドックスな構えや半身気味の構えや完全に半身になった構えなど人様々である。





オーソドックスに構える選手は、戦いが接近戦で戦う傾向があるが、半身で構える選手は相手との間合いに、ある程度の距離を保ち戦う傾向がある。また接近戦を好む選手は意外にも顔面への蹴りの攻撃に対し受けが甘い傾向がある。また意外にも半身で戦う選手の方が顔面攻撃への受けと防御が上手い選手が多い。これは半身で戦う選手が上段の蹴りを多用する事にも関係する、上段を知る選手は上段の攻撃への防御も知る事が出来るからである。上段蹴りよりも、突きや下段蹴りが攻撃の中心となる選手は上段への防御が甘くなるのは、得てして攻撃中心の組手になる場合が多いからである。受けやサバキに振り向ける余裕がなくなってしまうのと、上段蹴りの可動範囲が自分の技量にない為に、相手の蹴りの可動範囲の目測を誤ってしまうからである。





次に下段蹴りであるが、試合に於いては、下段蹴りは勝つ為に大変有効な技の一つでもある。強靭な足腰と強く硬い向う脛を有し、早く重い下段蹴りを放てる選手は大変なダメージを相手に与える事が出来る。下段蹴りは様々な蹴り方と防御方法がある。下段蹴りを鍛え上げた者同士の蹴り合いは壮絶な痛め合いの戦いともなり、下段の強さと同時に下段の防御の上手かった者に軍配が上がる事も多々ある。





とにかく競技試合の場合は、己の間合いを出来るだけ守り、己の得意技を的確に決め得る駆け引きをし、相手をよく見て出来るだけ相手の攻撃と基点を逸らし、己のダメージを極力少なくして戦うのも勝敗を分ける大きなポイントにもなる。





つづく、

‐気‐ノ巻



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【双流の気】心得





「気」を知る時、気という概念は物理的数値範囲が測定できないだけに、「気」の力と作用は心と躰の実体験で感覚的に知るしかない。また、気には心から司る内なる気と肉体から司る外なる気がある。しかし、その双方の気の核の核心部分は同一である。そして、何が内なる「気」であるか、何が外なる「気」であるかを感覚的に知り、無意識の中で武道の中で応用しているのも一流の武道家の常でもある。





武道に於いて、あえて使い分けるならば、内なる気を「気の力」とし、外なる気を「気力」とし、「気の力」と「気力」とは別の概念で捉えるべき要素である、源泉としては同じ「気」に辿り着く「気」が、概念としては二種類の「気」に分けて考える事が必要である。

簡単に言えば応用の意味で違ってくる。「気の力」は戦う前の力であり「気力」は戦闘中の力である。





気は魔法ではなく弛まぬ過酷な修行や深い人生経験などから醸成されるものであり、「気力」や「気の力」も成長し磨かれるものである。





《気の力》編





「気の力」は見えざる神秘的な力と捉えることが多く実際には心理的な圧力として敵や相手に精神的な作用を与える力でもある。





従って、考え方によっては、「気の力」とは己が己で呪縛に掛かる罠のようなもので、戦わずして相手の力量に嵌められている効果でもある。





よって、「気の力」は戦う以前に於いて有効程度の効力はあるが、物理的な戦闘になった場合、もしも相手が邪道や外道な曲者であった時は、役に立たない場合が多い。強いて言えば気の力は未然に戦いを防ぐために効力を発揮する力である。





同じ流派の武道家同士の戦いであったり、競技試合の場合は、先輩後輩、あるいは過去の実績がある選手との試合などの場合など、相手の「気」に吞まれ威圧され萎縮してしまい、思うように戦えない場合が多く、これが所謂 気合負けで、戦わずして負けてしまう場合である。





他流試合や邪道な喧嘩の場合、規則無用の主戦場となり、行き当たりばったりの見知らぬ相手が敵となる場合も多い為に、相手への尊敬も尊重も抱かない上に、相手への予備知識のない争いとなり、まさに仁義なき戦いとなる。その場合、事前に発する「気の力」は効力を発しないと言え、いざ実際の戦いの最中には「気の力」だけでは勝つ事が出来ないのが現実である。





寧ろ、実際に争い事になりそうな時に於いて「気の力」は、人を傷付けない為に必要な力であり、目力やオーラによって戦わずして戦いを収める術であると捉えるべきである。





歴戦の強者は強い気を発しているのは事実で、出来る者ほど出来る者の気を感ずる。相手も武士で争いによって無駄な血を流すべきではないと両者が察した場合は、両者争わずして自然と矛を収める方向に進むであろう。





《気力》編





それに引き替え「気力」は、交戦の中で躰のぶつかり合いの中で、心の眼や躰の感触で相手に見える形で、科学的に数値は測れないが、実際に手に取るように知る事の出来る力である。





戦いの中で現われる「気力」は、物理的な修行の上で培った力であって、決して魔術のようなものではない。言い換えれば気力とは実は強さの源泉でもあり、修行を重ね苦しんで得た精神的な力の度数なのである。





「気力」は理屈から成長するものではなく、血と汗が結晶になる程の厳しい修行の上で躰の奥底に生まれ醸成される。使命感や義務感だけでは本当の「気力」は育たない、それに加えて、泥臭い肉体への酷使から得る精神的な強さが重なり「気力」を作り出すのである。





試合に於いても、実戦に於いても、気力のある者は強い。特に試合に於いては条件が同じ壇上であるだけに「気力」に勝る者が勝者となる事が自然な結果と言える。





「気力」とは修行の結果それに比例して己に備わる 心身の奥底の核を成す部分から湧いて出る底力であり、「気力」が強ければ強い程に不屈の精神力を備えた真の強者と言える。





武道家に取って養われた気力は恐ろしい程の人間力を作り出す、気力を備えた人間は得てして普段は人に優しく、大きな人間味を備え、その中に信念や自信や不動心のような凄味を放っている。それは強い「気の力」でもあり、人を引き付け動かす人間力でもあり「気」を発する達人とも言えるのである。





つづく、


‐義‐ノ巻



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【正義と武道】心得





 武道に於いて正義は死を超越する 





武道に於いて己を成長させ強くさせる上で義は重要な意味を持つ、義は武士道に於いても尤も高い徳義として挙げられるが、武道に於いても義は尤も重要で戦う上で必要不可分な要素であり、義なくして正当な戦いも有意義な生き様も武道家にはあり得ないであろう。武士道もそうであるように、義は武道に於いても最も重要な徳目である。





義は人として生きる上で様々な形のその人生の中に内在する。道義を知り、忠義あり、仁義あり、大義を求め、義理を感じ、義務を背負い、義侠もあり、義挙に生き、その他も含め、義の徳を内包する人生観が幾つもある。そうした中で武道家にとって、義の本質の尤も中核を成すものは正義なのである。正義こそがあらゆる義の根本的本質として、どの義も元を辿れば正義に辿り着く。武道家にとっては義の為に戦い、義の為に生き、義の為に死ぬと言っても過言ではない程に義は重要である。





武士は正義に自らの命を懸けることが出来る、己にとっての正義の為に命を賭してその使命を貫くのである。従っていざ戦となれば正義のために全身全霊を懸けた壮絶な闘いを強いられる事は(いと)わず、己の運命の結果を顧みはしない。





正義なくして武道は成立しない、また正義が人を強くする、正義という定義付けがなければ厳しい修行に打ち勝ち苦難を克服する事は不可能だからである。





【忠義と武道】心得

 忠義は勝敗を凌駕する 





武道家は修行の過程で必ず死生観を捧げる敬愛する師を持つものである、そしてその心酔度合いが強い程、忠義を持って自らの修行に励むものである。武道に於いては己の師への忠義という義理が発生する。武道に於ける義理とは「正義」と「道理」であり、忠義心の強い意志の下で人間として崇高な徳義を得、その信によって、真の強さが醸成されるのである。





武道の世界では現代に於いても、武士道に於ける所の忠義は生き続けている、それは強くなる為の有効な武道家の仁徳なのである。





師を仰ぎ憧れ、心酔する過程で修行への道に導く効力が生まれる。真の武道に於いては、その死生観は修行の過程で成長し育まれ熟成されるものである。そして初めて死を見つめる覚悟が備わった時初めて武人の仲間入りをするのである。修行の過程で義の存在は本人が意識しない中で大きな存在価値を司り基本的成長の源泉であったと後々になって知るであろう。義を以て奉ずる事は武を極める上で重要な力の要素となり、武人として生きる上での初歩的な心の所作となる。





武道に於いては、己が極めた技も強さも、それは先人の修行と努力を受け継いで己に伝承されたものである。己一人で強くなった訳でも勝てた分けでもない。それは正しく先人から授けられた命が己に乗り移った形での伝承である。従って武人としての己の命は先人から継承された魂であり、その尊敬と感謝の表れが忠義となる。





義を強く意識できる武道家は心が強い、よって日々の修行に於いても己に厳しく取り組む姿勢を備えているので、厳しい稽古にも精進し強くなる事が出来る。



己を育ててくれた師匠や先輩は勿論、親や家族への感謝と敬意をより強く持つ事と己の強さとは比例するのである。





義を持たぬ格闘家はただの獣であり、獣である畜生には戦う姿に美しさはなく、恥を知らぬ戦い方を行う。結果それは弱さの裏返しであり、終始逃げや欺きの戦法に奔り弱さを露呈し、最終的には必ず敗者となる。





義とは、もののふ として生きる以上、生の中で己を律する為の不可欠な要素として、常に永遠に背負う己への付加であり戒めでもある。





武道に於いては、義は尤も高い位置にある徳目であるからこそ、武道家として生きる意味が端的に見出す事のできる武道の基本である。





【道義と武道】心得

 武道の条理である道義 





人として生かされている事への意味を知る事が武道家には必要である。そして人としての生命のあり様を常に模索し、己の煩悩と(ごう)を認め自戒の心を常に忘れず、己への厳しさをいつ何時も持ち続け、与えられた生命に感謝しながら己という魂の生き様を追求するのが、すなわち武道家の道である。





自然界の中で人はその一部分でしかなく、その存在は儚く哀れなものである。武人として生きる者は、そこにある大きな自然界への感謝と哀れみを常に感じ抱き生きる必要がある。





自然界には大きな正当な条理となる理屈があり、それに沿って武道の真理も形成されている、それが即ち、武道に於ける道義となっている事を忘れてはならない。





人間は、天と地の中で時と空をさすらい物を形成する生命体である事を誰よりも武道家は知る必要がある。自然界の偉大さは武道家が厳しい修行の中で必ず遭遇する概念でもあり、武を極めた人間こそが気が付く道の条理である。





我々は戦う戦士である以上、人を傷付け(あや)生きる運命にある、だからこそ武士は戦う敵に必ず感謝の気持ちを抱くものである。敵あっての己の価値なのである、言い換えれば敵を含めた全ての不可抗力によって己が生かされているのであって、武士は己以外の全てに感謝の気持ちを自然に抱くようになる。武道家も同じで それこそが武道家の道義であり情けなのである。





我々の武道の道義とは、本来の日本人の魂の道そのものであり、それをより厳格に体現して生きているのが武道家である。我々武道家が八百万の神に感謝を抱くのは自然な事であり、武道家の道の真理には徳を養う土台として道義を背負うという普遍の条理を宿命付けされている証でもある。 





つづく、



‐礼‐ノ巻



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【武ノ礼】





「礼節」「儀礼」の心得





武の道に於いては、礼に始まり礼に終わると言うように、礼は武道の初歩から最後に至るまで存在する不可欠な要素である。





武道に於いては最初に学ぶのは、まず礼である。礼は先人への尊敬と感謝の気持ち、教えを受けられる事への感謝、他力によって己が成長させて頂ける事への感謝、そうした多くの物事への感謝と尊敬の気持ちの表れとしての初歩的な当たり前の心構えとして教わる。最初は教わりの中での見様見真似の儀礼であっても、修行を積む中で礼の心が自然と身に付き、礼が如何に大切かを知り、礼を尽くす事で威風を備える、そして自ずと武人として礼は不可欠な要素として己を形作る土台となって行くのである。





武道の修行に於いては、礼なくしては何も始まらず、礼節なくしては伝統を守る事も、強くなる事も苦難を克服する事も出来はしない。礼儀を欠いた圧力は単なる暴力であり、それは卑怯で無謀な力であり結果的に必ず短期的な命となるのが常である、正義を欠いた暴力は邪道なだけに裏切りや不義に見舞われ最終的に敗北を期する結果を招く。





単純に明快に言うなれば不朽の強さを誇る者ほど礼節がしっかりと行き届いているものである。それは武道に於いて、礼は如何に重要で大切な事柄であり、武の根幹に存在する価値観に通ずる生き様に必須の徳であるかを示している。





過去の武人や賢者に於いても最後に勝つ者や尊敬を得る人物は礼節を重んじた人物である。それは広く長く歴史として継続するには正義が必要で、それを伝統の価値に継承し続けるには儀礼を重んずる事が切り離せない徳だからである。歴史は礼を重んずる事を正義とする、礼の重さが恭敬の念を司り格式となり、その物事が正義であるが故に伝統となるのである。





武士にとって礼を尽くす事は、対峙する物事への崇敬であり尊重でもある、それは己の名誉でもあり誇りの表れの一部でもある。





また、哀れを知り畏れを知り極限の状態に至る経験をし、それを克服した人間ほど礼義正しく礼節を重んずるものである。





厳しい修行に打ち勝った者ほど礼を重んずるのは何故であるのか、一つには負ける辛さや苦しさを知っているからでもある。そして厳しい修行と苦難に打ち勝って勝つ者となった強者への尊敬と尊重でもある。またより強い敬いや畏れの念を己以外に見出し、己以外の全てに有難味と敬意を抱いているからである。強ければ強い人間ほど、強くして頂いた事への感謝の念を抱きそれは、師匠や親など身近で身内な人物に限らず、他人や世間に対して、ましてや敵に対してまでも、感謝と尊敬の念を抱く、広くは自然界の全てに対して畏敬の念を抱くのである。それは己への誇りとしても相比例し、その結果、誇り高ければ高い人間ほど、謙虚で礼儀正しく礼節に富んだ人物となる。





強者は戦いや修行の中で、空前絶後の艱難辛苦を体験し、極限の状態を何度か潜り抜け生きながらえる。生死の紙一重を経験する事も何度かあるだろう、そして普段からの厳しい修行を積んできた人間のみが勝負に勝ち生き永らえてきたのである。その中で、その人物はある意味悟りの境地の一端を発見する事が出来る、その時 抱くのは己を取り巻く全ての空間と存在への感謝の念と、己というあまりにも小さな存在の事である、己は自ら生きているのではなく多くの他によって生かされていると言う事を切実に知るのである。





その結果、強い尊崇と感謝からくる尊重となり、それが相手への感謝となり礼節となるのである。結果、強い者は強がらず頭は低いものである、その上、心が広く礼儀正しく他人に振る舞い、その所作には威厳と風格があらわれ、他人からの信頼も厚く多くの尊敬も集める人物となるであろう。





もう一つ、肝に銘じておかねばならぬ 礼の形がある。それが親孝行である。親孝行は尤も崇高な親への礼である。武道に於いて、まず親への感謝を教えられる。己を生み育ててくれた親に感謝を抱かぬ者は強くはなれない。我々は己に生命を与えてくれた事だけでも親への絶大なる感謝を持たねばならないのである。人間にとって尤も大切な命を与えてくれた親への感謝は神への感謝と同じように重要な感謝である。親によって与えられた誕生という神秘的な出来事に尊厳と畏敬の念を抱き、その命を全うする事は武人のみに留まらず人間の礼でもある。





【作法ノ礼】





「礼式」「格式」の心得





作法や()()りも礼の一種である。礼式や()()りを重んずる事は武の道に於いても 斯くも重要で重きことである。長年積み重ねてきた決まり事には合理的な理由もあり精神的な筋道もしっかりと存在している。武道や伝統的な物事には、その長く重んじてきた歴史が格式の高さをものがたり、威風や尊厳を築き上げ、格調が備わり伝統の重々しさを感ずるものである。





仕来たりや型には往々にして意味があり、そこには無駄はない。初めは意味すら分からず理解できなくとも、修行を積み研鑽していく過程で、伝統に培われた道理を知る事が出来る。動きの決まり事や作法の決まり事、その動きや心構えや強いては呼吸法まで、物事の作法を重んじ尊重し謙虚に会得しなければ、一流の武人には成れない。全ての行いに於いての礼式には必ず道理があり、格式を重んじ、常に反省と自戒の気持ちを忘れずに修行する事は、己を成長させる為の不可欠な要素でもある。





武道に於いても当然に仕来たりや決まりがあるように、茶道や華道、歌や能など様々なものの伝統文化には仕来たりと作法など決まり事がある、知らない者が見れば無駄に思える動きや行いにも、実は全て意味があり理に敵った理由がある。また 社会に生きる上では社会生活から生きる過程に於ける全てに至る物事に道徳に沿った決まりがあり、正しく守れる人間ほど徳の高い信頼の厚い人間になれるものである。他人より尊敬を得るには仕来たりや決まりを謙虚に守れる人間であるのは当然の行いであり、ましては武人たるものは、その尤も正しい見本でなくてはならない。





作法を重んずる事の重要性は、作法に重要な意味が隠されているからである、研鑽修行を重ね、イザ己が極みを知る時に、その隠された作法の意味をも同時に知る事になる。そして、その極みを後世に継承させようとする強い使命感を抱く、人は己に継承され伝承された極みや匠を技として後に繋げる義務感が強く心に生じるものである、これが即ち崇高な礼なのである。





先人が積み重ねた長年の経験と実績から作法や格式が生まれ、それは究極の摂理としてその道に備わっているものである。武道家は、礼が理に敵った尊ぶべき伝統の力を備えた徳である事を深く知る、故に礼を付くし物事に対峙し自ずと作法を会得し自ら格式ある人物と成長する。





つづく、


‐勇-ノ巻






もののふ 乃 空手道




正義の勇(義勇)





行を極めた武人であれば、その行動から生きざまに於いて自ずと勇を備えているので、勇を意識するまでもなく、勇ある生き方を旨とする人物となっているものである。





然るに勇は修行の段階に於いては要所々々で強く意識するべき徳ではあるが、それなりの行を成し遂げ域に達した武人には言うに及ばぬ徳であり勇無き武人などあり得ない。要するに勇という徳は武人にとっては当たり前の事なのである。





当たり前であるだけに勇には掟のような結果論がある、それ即ち、己の正義の下に武人として戦う時、その勇ある行動とは決して顧みない事なのである。正義の為の行動に於いて、どう勝負を決しようが結果がどうあれ、一切後悔はせず、たとえ命を無くしたとしても、それを顧みない事。それが即ち、勇の結果の掟である。





また勇は正当な義を以てこその勇となり、「正義」と「智」無き行動は勇では無くただの暴となる。





勇と暴とは全く異質の要素であるが、どちらも「動」を伴うが故に愚か者は勇と暴の判断を誤る場合がある。武人や賢者は智を心得ているだけに勇と暴との明らかな違いを判別できるもので誤った行動を取る事はないが、未熟者には似て非なるものに映る場合もあり、浅はかな行動となる場合もある。





武人の戦い及び行動は正当な理由があり、筋の通った正義からなる行動要式であり、その上での行動は当たり前に勇が伴う。武人の戦いは「義」と「武」と「智」が点と線で繋がっている美学にも似た行いとなる。しかし義を欠いた戦いは殺戮と強欲を剥き出しにした醜さと後味の悪さを露呈し、その正義無き戦いは後ろめたさを後世一生末代まで引きずり恥として刻まれる事となり、欲の為に行う行動は勇などではなく、単なる暴力と強欲以外の何ものでもない。





また、義は常に智を伴っており、思い付きや思慮の欠けた行動による無謀な行いは、いくら己が良かれと思って行った行動だとしても勇とはならない、己の浅はかな行動によりたとえ命を落としたとしても、その行動は勇とは言えず、ただの暴挙となり犬死ともなる。





勇はあくまでも筋の通った理屈が伴って、勇として成り立つ徳なのである。





修行の勇(勇気)





修行時期には日々が勇気ある行動との戦いである。さぼりたい、諦めたい、楽をしたい、逃れたい、厳しい修行への恐怖、そうした弱い心との日々の闘い、前に進む気持ちを持つには相当な勇の心構えが必要になる。





修行時には強くなる為に勇は誠に大切な徳であり、勇を以て厳しさと戦い苦難を克服していく中で立派な武人に育つ。





修行時代は己より強い優れた相手と手合せするのは大変な恐怖であり出来れば避けたいと思うのが人間の業である、しかし、勇気を以て挑み心身ともに傷付かなければ決して成長はあり得ない。徹底的に打ちのめされると分かっていようが負けると分かっていようが懸命に努力し全力で精魂を使い果たし、格上の者に挑む勇気を持った者が引き換えに強さを得る事が出来るのである。





勇はイザ命がけの戦いの時だけに必要な徳ではなく、寧ろ修行時代に多くの勇と向き合い教えを得る徳なのである。





また正しい考えや理屈を己がいくら持ち合わせていたとしても、それを実行する勇気が無ければ何の意味もない。正しいと思うのであれば実行して知らしめ証明する事が武人の生き様でもあり己が真実を知る為にも必要な行でもある。行動なくして何も生まれず、何かを成し遂げる為には行動を起こす勇気も重要な行いである。言い換えれば勇とは正義ある動と言える。





不動の勇(勇武)





極めた武人は智にも優れ文武両道の徳を有し、一貫した理念を持ち合わせ事に臨む、従ってぶれる事もぐら付く事もなく、その不動の姿勢は、動かざること山の如し、と言える。





冷静沈着の不動心は信頼と尊敬を得る。特に部下や弟子や配下の者たちに安心感を与えると同時に忠義心をも得るのである、不動でいるには相当の勇が必要となる、動かぬ勇は優れた武人の備えた揺るぎ無い徳の一つでもある。





決断の勇(大勇)





時として武人は戦いの中で苦渋の決断を行う場面に遭遇する。それは、あらゆる智を付くし、あらゆる義を奉じ、あらゆる武を講じても、それでも尚も決断に苦慮する場面が時としてある。





究極の場面での決断は、ある意味多くの犠牲も招く事も必須であり、最終的には勘にも似た武人の本能が決断を下すと言える。当然その結果がどうあれ武人は顧みる事はしない。武人は結果の全てに於いて、使命と共にその運命を受け入れる。たとえその運命が死であったとしても、その使命は残された受け次ぐ者たちと共存している限り生き続ける、大勇は必ず大義を後世に伝承されるものである。





つづく、 


‐智‐ノ巻


もののふ 乃 空手道




[
智力]





智力とは武の道に於いて必須の徳である。

智なき武は獣である。我々武人の武力行使は智を備えた戦(いくさ)であるからこそ正当性があり強く己に誇れる闘いとなる。





智という頭脳が力に備わって武となり勝利への道義が成り立つのであって、無闇矢鱈の力は武ではなく暴力であり乱である。智力を備えた力のみが正当な武と言えるのは、その力が道義的な正当性があるからであり、また 智性ある強さは美しく芸術性を帯びた迫力すら発しているものである。





より深い智力によって編み出された戦略は研ぎ澄まされた叡智であり、その行使の過程で武力に正義の本質が潜在していれば、武は美しく強靭な特性を帯びるのである。





武道家の強さは単に肉体の強さのみで諮られるものではない、世間の常識や物事の学問的な見識を心得、より優れた智力を有したものが、武道家の中の真の一流の武道家であり後世にその偉業が伝承される。





崇高な武とは智力を備えた時に始めて誇り高い高位なる武となり、非の打ちどころの無い完成された勝利を得る。そして、その勝者の足跡は、後世に受け継がれ継承され流儀となり流派となる。





技は武の強さと智によって磨かれ研ぎ澄まされる、その技の切れ味は、智により探究された重みという心魂が入っていれば、遥かに時代を超えても衰えを知る事はない、長く輝き続ける不滅の術となるのである。





武を知るのも、義を説くのも、礼を尽くすのも、叡智を備え智力を極めた者の成せる業なのである。





武人は探究する知力がなければ戦いの正義を見出す事も、戦いの正当性を意義付ける事も、戦いの必然性を立証する事も思い知る事はできない。何の為の闘いであるのか道義付け出来なければ全く意味はなく、無知なる戦いは戦わずして敗北しているに等しい。





また、智力がある武人は無闇に武力を多用しない、血を流さずに闘いが済むのであれば それに越した事はない、叡智ある武道家は やたらに剣(拳)は抜かないのである。本来、武とは矛を収める事にあり、必要以上の戦いは決して行わないことが武道家の習わしである。強いて言えば武人は剣を交えずに戦わずして勝つのが理想的であり血を流す事は最終的な最後の方法論である。





物理的な戦いは大いなる智の砦で築かれた正義の道義付けがあるからこそ戦う価値と意義があるものである。





[智略]





相手を見抜く眼力は智力であり、相手の力を見出し分析し己の最適の戦い方法を編み出すのも智のある者の戦術である。





高踏な智略の下に戦術が練られ戦いが行われる。勝つ為には武力のみではなく智力が何よりも必要なのである。





相手の弱点を見抜く力、状況を判断し機転の利いた攻撃を探る力、己の弱点を敵に知られずに戦う欺く力、全ては世間を知り相手を知り己を知る智力がなければ、適切な判断を下す事は出来ない。





戦う上で智略が如何に重要であるか武道家は肝に銘じて知る所である。





たとえ戦況が不利な状況であっても、智略は己の弱点を補い、敵の強みを挫き、勝利への戦略を与えてくれる。





常に冷静な状況判断を下せる能力は、常日頃の訓練と修行から得られる。積み重ねた経験が直観的な判断能力を醸成させる、頭の中に蓄えられた戦略的頭脳は秀でた武道家の不可欠な要素である。





[智育]





修行の段に於いても智は重要な徳である。日々修練する中で如何に苦難を克服し、如何に屈強なる心身を得られるものなのかは、やはり苦悩し悩み続けながら頭でも格闘しなければ、より良い道は拓けるものではなく強くもなれない。





肉体的な酷使と共に頭の中でも考えに考え抜き悩み続け光を見つけなければ本物の技も匠も見出せないものである。





修行の段階では、肉体を酷使する鍛練の中で、悩み苦しみ人間の生を追求する所まで追い込まれる事もある、武とは何であるのか悩む事もある、苦しみの中で生命の哲学を探ろうとする、その中で武道・武士道を知り極みの道へ歩み出すのである。





また、技や術のような技術的な部分でも頭を使い悩み探究した者が、他者を凌駕した境地を得られ強くなる。試行錯誤の過程で新たな道の技術を創造する事も可能になり、未知の境地に辿り着く偉業を成し遂げる事もある。





単純な技であっても人それぞれに個性があり様々な特徴や得手不得手があるが、試行錯誤し工夫する事は不利な特徴をも有利に変える力を持つのである。





例えば身長が低いだの体が小さいだのと言った身体的な不利な要素も、鍛練し訓練し血の滲むような努力を積み重ねれば不利な要素が有利な要素に生まれ変わる程に熟達した技に変貌する可能性を知る。





頭を使い試行錯誤し繰り返し鍛練する事により、脳の指令に躰が適応しようとする。最上を追求しようとする意識が細胞に伝わり新たな肉体を作り上げるものである。





相手より小柄であれば俊敏性を身に付けやすいので、相手より倍の速さを身に付ければ、直ぐさま相手の懐に飛び込み急所を攻撃する能力に長けるので、その特徴は長所になる。小柄であれば相手から捕らわれ難いという有利な点もあるし、俊敏な左右の動きを習得すれば相手の攻撃を交わし易くなり、より相手を撹乱できるのである。





こうした長けた戦法や戦い術や技などは、やはり修行の段階で考えに考え抜き何度も壁にぶち当たりながら、それを乗り越え克服した者が得られる領域である。神業は一日にして与えられた極意ではない、千日万日の修行の結果によって成し遂げられたものである。





[叡智]





武士道は人類が日本という国に与えた遥かなる尊い偉大なる叡智でもある。





その精神は日本人のみに限らず世界人類に於いても共通に価値を共有出来得る徳である。そこには究極の人間の姿を追求した芸術的な美しさすらある。





武は人間の真理を深く掘り下げた部分で死生観を追求する。禅や経を探究し武に生かす行いや人間本来の姿を哲学や心理学の分野から知る事など、武道家は武力の強さだけに拘らず人間自身の強さと叡智を求道する。





また、歴史上の優秀な武人は武の強さのみならず、学問をはじめ芸術にも秀でた才覚を発揮している才人であるのが歴史の事実である。





芸術に武人が傾倒するのは、武士道の生き様が芸術的な域にあり共通の美しさがあるからでもある。





教養がなければ武にあらず、世を知らずして武の行使は許されるべきではない。誤った知識や軽はずみに流布される噂によって流されて行使される力は決して正当性はなく武ではない。





武人は常に学び世間を熟知し良識的な判断能力を備えた人間であらねばならない。その意味で武道家は、道義的に正当性が成り立つ判断能力を常に要求される。





武道家は賢人であるのは当たり前で、己の道を生と死の局面に常に遭遇させる事を厭わず、命がけで事に臨んで生きる使命を背負っていると心に命じて生き続ける。





物の哀れを知り戦いの中で己か敵のいずれかが屍になる事に理由など知ろうとはしない、そこには顧みない美学を追求する潔さを知るからである。





「武士道とは死ぬことと見つけたり、」の意味する所は、武士は正義の為に生死を顧みない宿命を背負っているという事である。名誉ある死が物理的な生を完全に凌いでいると同時に生の尊さをも諭した武人の悟りの境地の言である、武人は武を以て正義を行使するという許しを神から得られた生き者なのである。





武道家は己の未熟さにより間違った判断によって武を行使しては断じてならない、間違った判断をしない為に常に広く学ぶ必要があり智力をも鍛え続ける宿命にある。





正義と正義感は大きく違うし、誤った知識のみで正義を勘違いする正義漢はやっかいな愚か者以外の何者でもない。より正しい判断を下せる聖賢になるように、武道家は終生学び続ける必要がある。





その意味で、文武両道は武人の基本であり学問を学び深く追及する事は一生涯武道家に与えられた宿命であり必要不可欠な本分であり使命なのである。





跋文に、つづく


「跋文、」





この、もののふ乃空手道は、武、気、義、礼、勇、智、からなる徳目を六界の教えとし、武道空手を通じ武士道精神を伝承する事を綴った六巻からなる秘伝の書である。





その目的は人間の進歩の本質は戦う精神から生まれるという基本的な概念を基に、青少年に武の道から生きる本質を説き教育する事にある。





平和な日本の現代に於いては戦う事など不要な事と考えるのは愚考である。平和に見えるのは日本にいる井の中の蛙だけであり、世界各所では今も尚壮絶な戦闘と飢えが繰り返されているのである。そしてたとえ今が平和であったとしても今後その日本国内だけの平和が未来永劫続く保証など何もないのである、そしてまた、闘う精神を忘れた文明や民族は衰え消滅する運命を辿るのがおちである事は歴史が証明しているのである。



もののふ乃空手道 六界、に秘めた精神は決して(いくさ)時の為だけに必要な教えだけではない。

六界の精神の教えは現代日本の将来への教示としての広い意味での教えも大きく含まれている。





大東亜戦争後の日本人は日本人であるにも関わらず日本を知る事を遠ざけ生きてきた。崇高な日本の伝統文化を日本人自身が受け継がずして真の日本の繁栄などありはしない。





犯罪の増加や秩序の低下は現代日本社会の病であり悪疫である、それは日本人自身が日本を忘れようとした結果生じてしまった悪弊なのである。長い歴史の中で育まれた日本的な美徳を否定する事は日本の国家自体の否定にもつながる。日本は誠に素晴らしい価値観の文化を備えているにも拘らず今の教育はそれを生かしきれてはいない。武士道教育こそは日本人が日本人の手で長い歴史と文化の果て育んだ偉大な経典にも似た人の道である。





病んだ日本の全ての問題の解決に至る処方箋は教育以外には辿り着かない、この病んだ日本を健全な状態の日本の姿に戻すには教育しかないのである。





世界に類をみない成熟した社会が嘗ての日本には存在した事を今の日本人は忘れてしまっている。

日本の武士道を基本とする文化は人間の正しい生き方の教示そのものである。その素晴らしい武士道精神を創造した日本に日本人として生まれていながら、その精神を継承せずに生きるのは愚か者以外の何者でもない。





いま日本は大きな文化的な岐路に立たされているのかもしれない。ハイテクノロジーやⅠT革命は人類の本来のアナログ的な人間の領域に理不尽な新たなルールを課そうとしている。しかし我々は機械ではなく動物として生命を授かっている人間である以上、犯せない領域がありそれを否定してしまうと人間の価値や人類の価値さえも否定してしまう事になるのである。





武士道は日本人の創造した叡智である。それは神が人類に与えた至宝でもある。武士道は日本にだけ施され育まれたが、その理念は万国共通に正鵠を得るに足る概念で構成されている。その精神的な叡智は日本人のみならず世界人類の宝でもあるはずである。武士道の精神は日本のみに限らず世界で賞賛を受ける誇れる概念であり人類に共通に良い影響を与える美徳を齎す概念なのである。





この、もののふ乃空手道 六界 の教えでは、武道空手を通じて現代の日本の青少年に日本人の魂を説くと共に、武士道空手を通じて将来の日本を担う毅然たる強い心と肉体を持った日本人を育てる事に本来の目的を置いている。





人類も生物も戦いの歴史である、言い換えれば戦いの中で淘汰され進化と進歩が繰り返され成長してきたのである。戦いの中にこそ優しさがあり共存の知恵が生まれるものである。今一度日本人の築いた叡智の原点に返る事に全ての解決がある。病んで荒んだ日本の現世を再生させる答えは武士道以外からは見出せないであろう。





我々は日本人の原点と性質を我々自身が誇りと共に認識し生きてこそ初めて国際化の舞台に立つ意味がある。我々は世界最古の建国の伝統文化歴史を持つ国家に生まれたという選ばれた偶然性に感謝と自尊を抱き強く正しく生きる事が出来るのである。





我々は先の大戦で建国以来初めての敗北を喫した事は日本の歴史の上で重大な出来事であった事を強く知らなければならない、その結果多くの日本的な事への否定が社会全体に施され異常な状態の中で日本人として生きた事を認識しなくてはならない。



我々がアメリカ人やシナ人に成りたいと思うのなら日本人を否定し日本を捨てるがいいだろうが、しかし それ程愚かしい日本人など私の周りに見たことはない。





建国以来喫した初めての敗戦にも関わらず、武士道を継承し武人らしく生きる日本人が少なからず多くいる、世界からも尊敬の念で武士道が捉えられているのが事実である、我々の武士道には万人に共通する不文律の理念があり不滅性が存在する証左でもある。





そして我々は何をどうしようと本物の日本人である限り武士道の概念を背負いその精神から逃れる事は出来ない、武士道は多かれ少なかれ日本人の魂に染み込んでいるのである。





他のあらゆる文明や文化が武士道のその領域に踏み込むことを許さない程に崇高な聖典を武士道は有しているのである。それ程に上位に位置づけられる完成された徳である心理が武士道である事を我々は反芻し後世に継承する義務があるはずである。





日本人として国体が恒久の掟であり武士道がそれを永久に守り続ける事を私は信じて疑わない。


                         

十乃辺 靖典




もののふ 乃 空手道










































































      もののふ 乃 空手道




明治大帝が示された「教育勅語」は簡潔で美しい315文字の名文から成っています。かつては全ての子供たちが学校でその徳育を教えられ当たり前のように教育勅語を暗記していました。


現代の子供たちには、中々分かりずらい言葉になっているため、明治神宮の崇敬会から平成十五年に小冊子「たいせつなこと」が発行され、その中で、教育勅語に示されている大切なことを子供たちにも分かる十二の項目にし、十二の「たいせつなこと」としてあります。



十二の「たいせつなこと」


 一、  親に感謝する

 二、  兄弟仲良くする

 三、  夫婦で協力する

 四、  友達を信じあう

 五、  みずから反省する

 六、  博愛の輪を広げる

 七、  知恵を磨く

  八、  公(おおやけ)のために働く

  九、  規則に従い約束を守る

  十、  祖国に尽くす

十一、  伝統を守る

十二、  手本を示す



Important Qualities


1, Father and Mother, thank you

2. Let's get along together respectably

3. Let's help and support one another

4. We understand one another

5. Sorry I'll think it through carefully

6. I'll be kind to everyone

7. I'll keep studying and making efort

8. I'll be happy to help you

9. I always keep my promise

10. I'll be hold and more my best effort

11. I'll continue to value good quality

12. I'll try first on my own



英語に訳しても、美しい表現だと思います。まさに、

『之(これ)古今(ここん)(つう)()(あやま)()(これ)中外(ちゅうがい)(ほどこ)シテ(もと)()。』

と言えます




教育勅語 < 後段部分の解説 >



()(みち)(じつ)()()皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)遺訓(いくん)ニシテ子孫(しそん)臣民(しんみん)(とも)遵守(じゅんしゅ)()(ところ)(これ)古今(ここん)(つう)()(あやま)()(これ)中外(ちゅうがい)(ほどこ)シテ(もと)()(ちん)(なんじ)(しん)(みん)(とも)拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ(みな)(その)(とく)(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)


明治二十三年十月三十日
  御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)




このように日本人の歩むべき道は、わが皇室の祖先たちが守り伝えてきた教訓とも同じなのです。かような皇室にとっても国民にとっても良きものは日本の伝統ですから、いつまでも大事にしていくよう心がけて守り通しましょう。この伝統的な人の道は、昔も今も変わることがなく、また海外でも十分通用する普遍的な心理にほかなりません。そこで私自身も、国民の皆さんと一緒にこれらの教えを一生大事に守って高い徳性を保ち続けることをここで皆さんに明言することで、その実践に努めお手本を示したいと願っています。



明治二十三年(西暦1890年)十月三十日

御名(御実名「睦仁」)・御璽(御印鑑「天皇御璽」)







もののふ 乃 空手道

教育勅語 < 中断部分の解説 >


(なんじ)臣民(しんみん)父母(ふぼ)(こう)兄弟(けいてい)(ゆう)夫婦(ふうふ)相和(あいわ)朋友(ほうゆう)相信(あいしん)()恭儉(きょうけん)(おの)レヲ()博愛(はくあい)(しゅう)(およ)()(がく)(おさ)(ぎょう)(なら)(もつ)智能(ちのう)啓發(けいはつ)德器(とつき)成就(じょうじゅ)(すすん)(こう)(えき)(ひろ)(せい)()(ひら)(つね)(こつ)(けん)(おもん)()國法(こくほう)(したが)一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレ()義勇(ぎゆう)(こう)(ほう)(もつ)天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)(こう)(うん)扶翼(ふよく)()(かく)(ごと)キハ(ひと)(ちん)()(ちゅう)(りょう)臣民(しんみん)タルノミナラ()又以(またもつ)(なんじ)祖先(そせん)()(ふう)(けん)(しょう)スルニ()ラン



国民の皆さん、あなたを生み育てくださった両親に感謝しましょう。兄弟のいる人は一緒にしっかりと仲良く励ましあいましょう。縁あって結ばれた夫婦は二人で助け合いいつまでも協力し合いましょう。学校などで交わりをもつ友達とは信じあえるようになりましょう。もし間違ったことを言ったり行った時は自ら反省し謙虚にやり直しましょう。どんなことでも自分一人ではできないのですから、いつも思いやりの心をもってみんなにやさしくし博愛の輪を広げましょう。誰でも自分の能力と人格を高めるために学業や鍛錬をするのですから、進んで勉強し努力しますという意気込みで知徳を磨きましょう。さらに、一人前の実力を養ったらそれを活かせる職業につき喜んでお手伝いしますという気持ちで公、世のため人のために働きましょう。ふだんは国家の秩序を保つために必要な憲法や法律を尊重し、約束を必ず守ることを心に誓って規則に従いましょう。もし国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同朋を守るためにそれぞれの立場で勇気を出してがんばりますと覚悟を決め力を尽くしましょう。いま述べたようなことは、善良な日本国民として不可欠の心得であると共に、その実践に努めるならば皆さんの祖先たちが昔から守り伝ええきた日本的な美徳を継承することにもなります。



・・・・・・事項へ