幸田延(こうだのぶ)は、日本で最初に欧米に留学した音楽家です。

延の父親は、旧幕臣である表坊主を務めていました。

表坊主とは、江戸城に登城した各藩の城主、家老を老中らに引き合わせる役です。

禄は少ないですが、城主らからの付け届けで暮らしを立てていました。

それが明治維新になって無職になってしまったのです。

 

 

母親は子どもたちが自立できるように、教育に力を入れました。

延は幼い頃から長唄、三味線を習っていました。

母親は延に音楽的センスがあるとみて、東京芸術大学音楽学部の前身である文部省音楽取調掛の伝習生試験を受験させました。

延、12歳の時でした。

音楽取調掛とは、これからの欧米化のために西洋音楽を学ぶところです。

延は合格して、ヴァイオリン、ピアノなどの才能をメキメキつけ、将来を嘱望されるほどの実力をつけて卒業したのです。

そして日本政府の肝いりで選ばれた最初の官費留学生として、ボストンの音楽院に1年、ウィーン音楽院に5年の間留学しました。

負けん気の強い延は、英語、ドイツ語を苦労して習得し、もちろん音楽理論、作曲法、歌唱、ヴァイオリン、ピアノなどをマスターして首席で卒業したのです。

極東アジアの小国・日本から来た少女が、並み居る欧米人の学生より優ったのです。

25歳で帰国した延は、母校・東京音楽学校の教授として迎えられました。

 

 

このことは新聞でも大々的に報じられ、日本全国で褒めたたえられました。

しかし好事魔多しといいますか、出る杭は打たれるといいますか、次第に延のような才能ある女性が鬱陶しくなったのです。

新聞は音楽学校の欠点を次々と書き立てるようになりました。

しかもその原因が延にあるかのように。

ついに延は音楽学校を退職せざるを得なくなります。

しかし延の音楽への愛情は尽きることがありませんでした。

紀尾井町に私塾を作り、たくさんの有能な音楽家を世に送り出したのです。

 

 

延の一つ上のお兄さんは、幸田露伴です。

露伴が世に出る前、音楽教師で余裕のある延は兄に小使いを上げていたそうです。

仲の良い兄妹でした。

妹の幸田幸も才能溢れるヴァイオリニストでした。

 

 

この本は10歳の子どもでも読めるように平易に書かれています。

とこどころにQRコードがあり、音楽も聴けるようになっています。

今どきの本はすごいことになっていますね。