この本の作者・生島淳氏(ノンフィクションライター)の姉は、東日本大震災の津波に襲われて命を落としました。
二日後、東京で母の四十九日の法要を行うので姉は遺骨を預かり、その日に東京へ向かう予定でした。
しかし地震直後に東京にいる子どもや兄弟に、今日ではなく明日向かうと伝えていました。
その時はそれほどの切迫感も感じられず、母の遺骨と一緒に自宅にいたらしいのです。
そのあと津波がすべてを流し去ってしまいました。
生島氏は姉がその時何を考え、どうしていたのか?、なぜ避難をしなかったのか?
それを知りたくて気仙沼で聞き取り調査を始めたのです。
気仙沼は漁業でつながる狭い町です。
知らない人でも友人や知人通じて繋がっているのです。
気仙沼中学の友人の後輩で、気仙沼沖に浮かぶ大島で英語の教師をしている七宮克徳を訪ねました。
七宮は大島の中学で被災しました。
幸いにも大島は津波の被害も小さく、住民のほとんどが無事でした。
しかし気仙沼とのフェリーは使えなくなったのですが、観光業で成り立っている島なので民宿はたくさんあり、中学では炊き出しや布団の搬入など翌日から始まりました。
島の住民の一体感は強く、役割を分担するのも誰が割り振るとかではなく、自分がやれることを、みんなが理解しているように動いていました。
七宮は「あ、本当に地域って一つになれるんだ」と実感したそうです。
3月18日に突然アメリカ海兵隊がヘリでやってきました。
「我々はカンボジアで演習を終え、明日から一週間300人規模で支援したい。何をやっていいか教えてくれ」と、言ってきました。
英語教師の七宮は、急遽通訳をすることになったのです。
しかしアメリカ兵はみな礼儀正しくフレンドリーで、そして陽気です。
瓦礫の撤去作業をするのでも、冗談を飛ばしながら笑ってするのです。
そしてお互いに理解するために、とことん話しかけてくるのです。
七宮は日米の違いを改めて感じたのです。
これが「トモダチ作戦」だったのです。
生島氏はあと数人被災した人たちを取材しています。
その人たちが地震、津波をどう感じていたのかを知ることで、姉の気持ちを知りたいと思っていました。
ここにはテレビでは報道されない、一人一人の体験が綴られています。