最近、どこで読んだか、何で聞いたか、お彼岸に彼岸と此岸がもっとも近くなるそうな。あの世とこの世。お彼岸の頃、昼夜がほぼ半分になる、とか、太陽が真東から真西に沈む、とか、はるか昔に教科書で習った記憶ならずるずる引き出せる。だからって、彼岸と此岸が一番近くなる?

 両親と、私が親しかったおばとが立て続けに亡くなって以来10数年、彼らの命日のことしか考えてなくて、お彼岸の墓参りなんて思いもよらなかった。

 

 だって墓が遠いから。


 ただ、今回、ひがんこがんにとらわれたのは亡くなった親族への義理だけではない。

 彼岸の中日は亡くなったパートナーの誕生日。

 葬式も納骨も不要、と、彼は亡くなった。

 死んだら死にきり。私も自分をそういう派だと思ってた…のに口ほどもなく。少し長く生きると、時に自分にバッサリと裏切られる。

 生きている私は、さよならも半端で、亡くなった人を存分に思う場所にも惑っているじゃあないか。

 彼岸と此岸が近くなるなら会えないかな、奇跡が起きたりしないかな、脳が考え心が望む。あるわけないやん、という合理的な理性と、それは別の情動だ。禁じる必要なんてない、と、自分の情動を野放しにしたつもりで、ぽつんと野に放たれているのは自分自身だったりする。

 ええい!行ってまえ!墓参り。

 

 伊丹空港では牡丹餅を購入。

 


 関係ないけど、久々の地上からのタラップで、急に心がはやる。一人旅感たっぷりじゃあないか。


 さて、明けて20日は日本中風の強い寒い日となった。家の前の山の竹が風でカランカランと不規則に音鳴らす朝、歩いて5分ほどの墓地に。

気候が悪くて気持ちが中途半端になったけどお参りを終える。見回したけど墓地にひとり、奇跡はなし。

 

 その後は、思いついて、知り合いに産直売り場に連れて行ってもらう。野菜と欲しかった麦味噌をゲット。


そら豆



しまらっきょう


 麦味噌。


 その知り合いの彼女がお彼岸だからと、軽羹を買ってくださる。かつてのご縁で、我が家の仏壇に備えてくださるためだ。


 お昼ご飯はおひとり様で鹿児島の家に住む弟が作ってくれた。
 ひとり暮らしをしていて、ありがたいことの一つは、誰かがが自分のために作ってくれた手料理。


 弟は退職して鹿児島で暮らし始めた。そこから体調を悪くして今は家でゆっくり。

 もったいないな。彼の手料理は手慣れてて美味しい。彼自身も地元の子ども食堂にアプローチしたが、男性はちょっと、と、断られたそうだ。 え?そうなの?

 でも一日彼と家で過ごして思う。

 一緒にテレビを観ていて、どんなトピックにも一過言ある君は、女性たちが運営する子ども食堂では確かに少し難しいかもねぇ。

 

 とはいえ、風の吹く中、空港まで車で送ってくれた。空港からの霧島連山は冠雪。

一体今は何月?


雲の上は揺れもせず、美しい光の色。


関西に着いた時、機内のアナウンスが大阪の気温を教えてくれた。


ただ今、外の気温は4度


4度って何度?…


持ってる服を全部着て、立てる襟は全部立てた。

 寒すぎっしょ。


というわけで、家に着いたら煮しめたお揚げ2枚いれて簡単鍋焼きうどん。


デザートは軽羹。あんこなしで。この白さが好きだ。


 今回、BGMは矢野顕子さんが歌う奥田民生さんの「すはらしい日々」

 

なつかしいうたも笑い顔も全てを捨てて僕は生きてる。……

君は僕を忘れるから、そうすればもうすぐに君に会いにいける


全てを捨てて僕は生きてる


否定のような肯定


君が僕を忘れるのは僕が君を忘れることで

忘れるから会いにいける


若い頃、惹かれながらもわからなかった言葉が

私の中でしっくりし始める


寒いけれども温かい鍋焼きうどん

ずっとお彼岸だった君の

バースデー