神結びすとのひとり言 速水流お家元『経済人茶会』② | 生きがいの編集室_1107ブログ

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速水流お家元邸で開催された『経済人茶会』。

速水流は宮中茶道として、天と民を結ぶ「神茶」と呼ばれました。

その「神茶」を誰よりも愛したのが光格天皇です。



光格天皇は、それまで中断していた大嘗祭や新嘗祭などの

宮中祭祀をことごとく復活させました。

また学問を重んじ、貴族教育のための学問所

後の「学習院」の設立を構想したのは光格天皇です。

中でも、光格天皇の御人徳を表しているのが次のお話。



光格天皇が即位されて早々に、天明の大飢饉が起こります。

各地の火山が噴火し、その噴煙の影響で5年もの間、

米を中心とした作物が実らない状態が続きました。

京の都でも餓死者があふれ、民衆は幕府の京都所司代に

窮状を訴えますが、具体的な対策をとってはくれません。



そのうち絶望した民衆の中に、天皇の住まわれる御所に向かって

お祈りをし、賽銭を投げる人々が出始めました。

わずか数人で始まった御所参りは、

わずか10日で7万人に達したといいます。



御所を取り囲む人々の声は光格天皇の耳にも届き、天皇は

民衆のために米を拠出してくれるよう、幕府に申し入れをしました。

その頃の朝廷は、絶対権力を握っていた江戸幕府よって定められた

「禁中並公家諸法度」によって、行動を厳しく制限されていて

朝廷が幕府に指示をすることは固く禁じられていました。



それを破れば、天皇をはじめその周辺の貴族まで

どのようなお咎めを受けるか分かりません。

その絶対的な禁を初めて破り、直接幕府に対し

民衆の救済を訴えたのが光格天皇。

御年わずか10歳の決死の大英断です。



光格天皇の大御心(おおみこころ)は、皇族や公家を動かし

後桜町上皇は手元にあったリンゴ3万個を、

他の公家も、お茶や握り飯を人々に配り始めました。

その後、幕府は米1,500俵を拠出することを決定し、

光格天皇はじめ、皇族・公家の罪は不問とされたそうです。



宗匠のお話をお届けするつもりが、光格天皇のお話になってしまいました。

しかしこのお話、ぜひ知っておいて頂きたいと思います。

私たちの国は、トップにあるものが民衆を支配するのではなく

神様からお預かりした大御宝(おおみたから)として大切にされてきました。

それが二千年以上続いて来た、天皇陛下と私たち国民の関係性です。

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❖七十二候 第二十二候 小満初候❖

蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)
(5/20~5/25)
古来より日本中で飼育されていた蚕。
蚕が作る繭から採れる絹糸は、生活を支える収入源であったため
人々は「オカイコ様」と呼び、蚕を大切にしてきました。
新鮮な桑の葉を、一日中食べ続ける食欲旺盛な蚕たち。
採っても採っても桑の葉が足りなくなってしまうということから
卯月(現在の5月頃)には「木の葉採月(このはとりづき)」と
いう別名もあります。

季節の虫 もちろん蚕(カイコ)
養蚕は五千年という長い歴史があり、古事記の中にも
重要な産業になっていたとの記述があります。
また、大正から昭和初期にかけて日本の輸出の主力製品といえば絹。
品質のよい「ジャパンシルク」は高値で取り引きされ、
世界市場の6割を占めていた時代もあります。
蚕は古代から私たちの国の産業を支え続けてくれた
本当に有難い生き物です。