三ノ丸殿の生涯と肖像画―織田信長の娘から豊臣秀吉の側室へ | 50代からの新しい暮らしとヨーロッパ貴族

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今回は、織田信長の9番目の娘、三の丸殿のお話です。

三の丸殿は、織田信長の娘でありながら豊臣秀吉の妾になった女性です。









信長の娘は三の丸殿以外は全員、正室になりましたが、三の丸殿だけが妾。

それも親の臣下の元にです。

三の丸殿は「なぜ私だけ猿の妾に」と言っていたとか。

三ノ丸殿は、織田信長の娘で、豊臣秀吉と結婚した後、二条昭実と再婚しましたが、慶長8年(1603年)に亡くなりました。









三の丸殿の生年は不明ですが、母親は長兄・織田信忠の乳母・慈徳院だと言われています。


本能寺の変で父が暗殺されると、異母姉の相応院の夫・蒲生氏郷に保護されました。

養女になったという説もあります。


秀吉との結婚時期や経緯は不明ですが、伏見城の三ノ丸に住まいを与えられたことから、三ノ丸殿と呼ばれるようになりました。










秀吉が伏見城を築き始めた文禄元年(1592年)ごろと推測されます。


秀吉の側室としては第三位に遇せられていましたが、彼女が幸せだったかどうかは分かりません。


秀吉は慶長3年(1598年)に亡くなり、三の丸殿は秀吉の菩提を弔うために妙心寺に韶陽院を建立しました。



喪が明けた後、二条昭実と再婚しました。

昭実は彼女の異母姉(信長六女・さこの方)の夫でしたが、先に死んでいました。

三ノ丸殿は、二度目の結婚生活を送っていましたが、慶長8年(1603年)に亡くなり、三の丸殿の法号は韶陽院殿華厳浄春大禅定尼とつけられました。


戦国時代の女性は、色々と駒にされていますが、当時の女性はこういうことがあたりまえで、その中で小さな幸せを見つけていたのだと思います。

豊臣秀吉の菩提を弔うためにお寺を建立したところを考えると必ずしも秀吉との仲は、悪くなかったのではないでしょうか。