太宰治は、富士山がお好きじゃないようだ。
あまりご執心じゃないようだ。
「どうも俗だね、お富士さん、という感じじゃないか。」
「見ているほうで、かえって、てれるね。」
そこを発端として、書かれた『富嶽百景』
その立ち位置に、
この一寸した隔たりに、
この、かすかな違和感というか、
情念、心象風景と言おうか、
夢とか、動機、
物の見方、考え方と言おうか、
太宰治って、
一体、その正体は、何者?
時空を越え、作者を離れ、名作と言われている、
その作品には、一寸惹き付けてくるものがある。
写生大会で、港に連れて行かれた小学生。
皆が、皆、水平線の上に船を描いた。
一人だけ、船の上に水平線を引いた子がいる。
その子の、言い分。
「だって、このように見えるもの!」
有名な、エピソードである。
その小学生の名は、後の、漫画の神様、手塚治虫、その人だった。
先入観というか、小学生にして、すでに出来上がってしまった固定観念。
その人の固定観念が、その人の人生を支配する。
その人の人生を決定するのは、
運、不運、でもない。
生い立ちや、育った環境でもなければ、
貧富、家柄、学歴の差でもない。
その人の持つ、人間としての、物の見方、考える力にあるのだと思う。
自分は、今、レンタカーを借りて、河口湖、山中湖周辺、
忍野八海、二十曲峠、長池親水公園など、
富士見スポットに、車を走らせている。
絶景、富士は、出て来ても、
まだ、太宰のいう、『富嶽百景』が、出て来ない。
「おや、あの僧形のものは、なんだね?」
黒染めの破れたころもを身にまとい、長い杖を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼって来る五十歳くらいの小男がある。
「富士見西行、といったところだね。かたちが、できている。 ー いずれ、名のある聖僧かも知れないね」
「馬鹿いうなよ。乞食だよ」 友人は冷淡だった。
「いや、いや、脱俗しているところがあるよ。歩き方なんか、なかなか、出来ているじゃないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作ったそうだが、 ー 」
私が言っているうちに友人は、笑い出した。
「おい、見給え、できてないよ」
能因法師は、店のハチという飼犬に吠えられて、周章狼狽であった。その有様は、いやになるほど、みっともなかった。
「だめだねぇ、やっぱり」 私は、がっかりした。
絶妙のタイミングで、
能因法師をもってきて、
背後に控えている富士が、可笑しかった。
太宰は、すごい。
太宰治には、やっぱり、敵わないと思った。(笑)