富嶽百景 (5) | 10go9

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そのタイトルは、

『富嶽百景』

つまり、富士の景観、その見所を愛でる、という意味であろうか。

しかるに、太宰治の書く富士は、

それは確かに絶妙なタイミングで、登場してくるのだけど、

それが、曲者で、一筋縄ではいかない。

 

 

ある晴れた午後、私たちは三ッ峠へ登った。三ッ峠、海抜千七百米。御坂峠より、少し高い。  ー   とかくして頂上に付いたのであるが、急に濃い霧が吹き流れてきて、何も見えない。  

 

 

と、出て来ない富士に、

ある種の失望か、あるいは諦観でも書くのかと思ったら、

太宰治という異能、

その人は、出て来ない富士を書いて、少し違った。

 

 

茶店の老婆は気の毒がり、店の奥から富士の大きな写真を持ち出し  ー  崖の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、  ー  ちょうどこの辺りに、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます、と懸命に注釈するのである。私たちは番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思わなかった。

 

 

出て来ない富士。

それは、分かる。

東海道本線を、あるいは新幹線を幾度か往復してみたけれど、

およそ、夢とか、人生は、そのようなもので、

叶わぬ恋、

思い通りにならない恋人にも似て、

いい富士、その景観に、この歳になっても、まだ一度も出会ったことがない。(笑)

 

 

だけど、

古来より、日本三景、近江八景、富嶽三十六景、

とあるように、景観は愛でるのが、本道である。

しかるに、

出て来ない富士を書いて、

これが太宰の言う、

『富嶽百景』の、一コマなのか?

 

 

すべからく、太宰のいう富士には、意表を衝かされる。

太宰の書く『富嶽百景』は、

とかく人物、人間模様を前面に押し出してきて、

あくまでも、人間模様、人間百態を主体として、書くふりをする。

富士は、あくまでも人物の背後にあって、それを支え、補完するという位置付けなのだ。

人物を配して、背景に富士。

その構図、

その位置づけ、

その間合い、

そこから見えてくる背景、借景、叙景としての、富士。

これこそが、この作品の真骨頂で、

そして、そこに控えている『富嶽百景』

これこそが、この名作の素晴らしさであり、その生命力は、これに尽きる。

 

 

およそ八十年ほど前に書かれた、この作品。

会ったこともなければ、その実像すら知らない作者。

時を経て、時空を越えて、

なお読ませる名作とは、このようなものなのかも。

この作品が書かれてから、九年後、

不遇、と言っていい、不慮、と言っていい。

作者は若くして、もうこの世にいなかった。

 

 

抗しがたい時勢に棹さし、時空を越え、

身を挺して、作品の生命力を守り抜いた、太宰治。

 

 

河口局からバスにゆれれて30分、

と、太宰は書く。

自分は、今、その河口湖畔にいる。

もう、ほぼ射程圏内。

でも、

相方もいる。

時間的制約もある。

自分はいきなり、その目的地御坂峠の天下茶屋に、突入したりはしない。

これからレンタカーを借りて、先ずは河口湖周辺。

 

 

もうしばらく、越えてきた時空の正体を楽しみ、

もうしばらく、

周辺から、

太宰の書く、その富士、その正体、

『富嶽百景』

を、眺めてみたい