旅中毒 -2ページ目

旅中毒

バックパックと少しのお金とパスポートがあればいい。行けば行くほど行きたい場所が増え、人生狂って後悔なし!

2019/8/14

 

 

 

 

 

 

崖の迫力と言う点ではこの辺りが最高だったと思う。圧巻でしたよ。太陽が真上から差し込む時間帯にここを歩いたら素晴らしかろうな。

 

一瞬、何がどうなってるのか混乱した写真。

 

 

 

 

 

上の場所、どうしても上から下までを一枚に収めたくて、パノラマで撮ってみる。

 

結局、写真を撮る時間やぼうっと眺めている時間も入れて、2時間半くらいいたのかな。もう、ここに丸一日こもっていたかったよ。本当に美しい場所だった。また行きたいなあ。

 

 

あとはクチャに帰るだけとなりましたが、運転手さんはもう一ヶ所、写真ストップをしてくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

もろい性質の岩なのかな。溶けてるよね。穴が開いた個所もあった。

 

 

本当に本当に私好みの風景。渓谷があるというからには好きなタイプの光景を見ることができると期待はしていたけど、期待以上でしたよ。朝から夕方まで眼福でございました。

 

ちなみに位置関係はこんな感じ。

 

他にも古い砦跡など幾つか見どころがあるから、オーダーメイドのツアーを組むなら、旅行会社の人に自分の好みを伝えて相談すると良いと思います。時間の制約などを考慮してアドバイスをくれると思う。私、最初は既成ツアーに入れなかったのを残念に思ったけど、自分の好きに時間を使える一人だけのツアーで本当に良かったと思いましたよ。私は値切らなかったんですが、金額の交渉も可能なのではないかしら。自分だけのツアーを組んだ人たちが、300元だったとか400元だったとか書いています。行き先や拘束時間にもよるから、一概には言えませんけど。

 

209/8/14

 

狭くなってくると縦長の写真が増えますね。

 
上の写真と下の写真は同じ場所を撮っているのですが、注目ポイントが違うの。上の写真は切り立つ崖と谷底の狭さに感動しているし、下の写真は道(というか、ここができた時は川だった場所か)がここで急角度で曲がっているのが面白くて。
 


これ↓、私が行った中では一番奥のところ。

 

この渓谷の一番狭いところは幅40センチだと聞きますが、もしかしてこの場所だったのかもね。ちなみに一番広いところは53メートルあるそうです。

 

 

歩いて動画を撮ってみる。動画である意味って別にないかもしれないけど。

 

 

最後の方に写り込んでる青シャツのおじさん、この人がいなくなってくれないかと、自分が行ったり来たりしながらかなり長いこと待ってみたんですけど、どいてくれませんでした。通りすがりにチラッと見たら、この人、そこでスマホをいじってたんですよね。写真のチェックとかしてたみたい。この渓谷は賑わっていたので、人の写っていない写真は基本的には諦めていたんですけど、これくらい奥まで来ると人も少なくなっていたから、なんとか人の写り込んでいない写真を…と欲が出ましてね。

 

これは、奥を曲がったところすぐに人がいるんだけど、角度や自分の立ち位置を工夫してギリギリ人が写りこまない写真を撮ったもの。

 

この細い場所の奥は岩でふさがっていて行き止まりになっちゃってました。無理やり岩をよじのぼる若い男の子もいたけど、そんなに先には進めなさそうな感じ。

 

ここまで、入り口から写真を撮りまくりながらのんびり歩いて1時間15分くらいでした。見学に使える時間によりますが、ここまでは来てほしいなあ。渓谷全体が素晴らしいけど、その中でもここが一番素晴らしかった。

 

では引き返していきましょう。ああ、岩肌の美しいことよ…。

 


 

 

往きにチェックしていた分岐の一つに、帰りに寄ってみました。分岐の入り口になんかお寺があるっぽい門みたいなのが作ってあったので、往きはもっと先へ、もっと奥へと気が向いていたので横目で通り過ぎたけど、帰る時は心の余裕もありまして。

 

なんか岩の上に仏像が。

 

お寺とかあったんだろうねえ。

 

 

彫刻も残っている。

 

てゆか、今これ書いてて重大なことに気づいたんですよ。この分岐にはこれくらいしか残ってなかったけど、この渓谷には、8世紀、唐の全盛期に作られた300を超える石窟が発見されているのだ。阿艾石窟というと知り検索してみたところ…

 

でてきた写真が、ひとつ前の記事で「ここだけ変わってる」とかのんびり書いてたここ!

 

「なんか階段があるねえ」とか書いてたけど、帰る途中で撮った写真のここから繋がってたんじゃ!?

 

展望台があるんだろうくらいに思ってて、もう夕方が迫っているからと諦めたのよ!

 

壁画が残ってるんだよーーー!!! えええええ なんで調べておかないんだ私!!!

 

 

ここ、詳しいよ。ネットの自動翻訳で大体わかります。

 

仏教的、美術的なことはもうチンプンカンプンなのですが、歴史的・文化的な背景について書かれているところを抜粋します。阿艾石窟の壁画は敦煌の莫高窟の流れをくむものであり、仏教美術の西への伝播を物語る重要な遺跡なのだそうです。キジル石窟とは逆ね。また、唐の時代の中央平原とチベットとの政治的・経済的・軍事的な結び付きを示す証拠でもあるそうな。

 

西暦658年に安西都護府なる唐の行政区画が亀茲(とトルファン)に置かれた後、この地域には大勢の僧侶や職人たちが訪れるようになったそうで、この地に唐の文化が広がることになっていったらしい。なので阿艾は典型的な漢民族の石窟で、壁画は漢民族の大乗仏教の教えを説いているんだって。

 

こんな素晴らしいものが残っているなら見たかったよ!! 2年も経ってから知るなんて間抜けすぎだろ! ああ、今更ながら心残りすぎるよー!!

 

 

ああ、それでかな。渓谷で一ヶ所だけカフェがあったの、この階段の近くだったと思う。お手洗いもあった。多くの人は、ここまで来て壁画を見て休憩して引き返すのでは!? もおおおお 何で知らなかったんだ私は!?

 

てゆかね、私、ウイグル旅行の準備ってほとんどしていなかったんですよ。何があるのかよく知らないまま来てしまった。古い街並みを見てウイグルの人の暮らしぶりがわかればそれでいいくらいに思っていた。こんな渓谷があることすら知らなかったもの。元が行き当たりばったりタイプの旅行者だからってのもあるけど。それはそれで楽しいけど、知らないとこういう目に遭うよ! バカ! 私のバカー!

2019/8/14

 

さて、再び絶景を拝みながら、今度は天山神秘大渓谷に向かいます。名前がすごいな。

 

窓越しに撮っているから青っぽい写真に。

 

 

写真ストップしてくれたところ。クチャ川だよね。期せずして電車が写り込んでいたわ。

 

この辺りもいっぱい写真を撮っているんだけど、切りがないのでね。本当に私好みのゴツゴツした岩山が続きます。道路を通すの大変だったろうな。

 

渓谷の駐車場は、キジル石窟よりもずっと車が多くて混んでいた。人の数も全然違ったよ。

 

ここでも、いつまでに戻って来いとか何も言われず送り出されました。これまでの旅先では、1日チャーターしたって「1日とは3時までのことだ、もう帰らないといけない」と言い張るドライバーに「文句があるならここで放り出す」と脅されたり(インドです。その帰り道に土産物屋に連れていかれブチキレて車から降りるの断固拒否した)、他の国でも、どこそこまで行って○ドルと約束したら「もう見るべきところは全部見たから帰るぞ」と急かされたり(私が決めることだろ!)、「もっと時間をかけるなら別料金」と言われたり(金で解決できるならそれでも良いわ)、色々ありましたが、この日のドライバーはホンットに何も言わず好きにさせてくれましたねえ。

 

ウイグルの言葉ではキジリヤ。赤い崖と言う意味だって。

 

この渓谷は全長で5000メートルあるそうです。崩落なんかもあるので、整備されている途中までしか行けないらしい。メインの谷の他、そこから分岐する小さな谷が7つあるそうな。

 

 

急流や風雨、そして洪水による浸食により大体1億年くらいかけて出来上がったものだって。地層好きにはたまらんものがあるのではないでしょうか。

 

 
渓谷好きの私といたしましては、ウイグル旅行でどこが一番良かったかと聞かれたら、迷わずここを選びます。
 
 
ここも入り口から奥までずっと監視カメラだらけでした。
 
場所によっては水が流れていて、足を浸して休む人もいたよ。小さな橋をかけてあるところもあった。
 
 
 
 
水が出た時に非難する場所も何ヶ所か。安全島って言うのか。雨は春と夏に多く降るそうです。北側にそびえる天山山脈の山頂には万年雪と氷河があり、水源はそこなんだって。気温が上がって溶け出した水が流れてくるんだろう。治水工事も進められていて、水害を防ぐと共に、周りに農業用水を提供したり、森林育成を促進したりしているそうな。
 
 
 
ここら辺は地面がぬかるんでいたし、植物も生えている。崖ばかり見ているとカラカラに干上がってるように思っちゃうけど、大雨が降ったらここは激流になるんだろう。
 
 
正面のとこ、なんか周りとちょっと違う感じだね。それに、撮ってる時は気づかなかったけど、少し下の方に展望台か何かがあるみたいだね。階段で上って行けたんだろう。
 
 
同じような写真ばかりが続きますが、これでも厳選してるんですよ! 本当に素晴らしい。一足ごとに景色が変わるので、撮り続けてしまうよ。
 

ちょっと気になったので書いときますと、「キジル石窟は内部は撮影禁止」という言及もよく見かけるんですが、スマートフォンならOKと言われました。他の見学者も撮りまくっていました、係の人にとがめられることもありませんでした。何が違ったのかしら…? 時期?

 

2019/8/14

 

ひとつ前の記事で「第何窟かわからん」と言ってたの、壁画があるのが第17窟で、展示があるのは第10窟でしたわ。ネットで見つけたよ。

 

さて、これははっきりとわかっている、第27窟。多龕窟です。壁にたくさんの仏龕がある。元は89体の仏像があったそうです。地震による破損やイスラム教徒による破壊、そしてドイツ探検隊の収奪な!

 

 

これは何でしょう? たくさんの巡礼者が触って抉られた跡かな。

 

上の方のアップ。

 

 

 

動画で撮れば一発なんですが、写真だと色んなアングルから撮らないと全体がどうなっているか情報を入れ込むことができませんね。つまりこの壁画の上の天井がどうなっていて壁がどうなっていて、ってのがわからない。せめて広角レンズがあれば。

 

天井です。かつては美しく装飾されていた。

 

回廊。

 

何とか人が写り込まない写真をとかなり粘ったんですが、見学者が多くて無理でした。

 

 

これは第32窟。

 

壁画の色使いが他と違うなと思ったら、寄進者の財政難によるものだとか。

 

更にアップ。

 

現代的な感覚で言うと、この色使い、これはこれでかっこいい気もする。シンプルでシャープ。

 

 

こちらは第34窟。

 

「思惟日神窟」と名づけられた理由である思惟日神の壁画は見当たりませんでしたが(もしかして現在地ドイツか!?)、天井画が残っています。

 

 

背負っているお花が第32窟と同じパターン。てゆか、このモコモコした山みたいなやつ、花だったのか。教養がないのでわからんかったわ。仏教美術では当たり前のことだったのかも。

 

 

この黒いのは煤なんだって。よそのブログでこの窟は料理部屋に使われたとの記述も読みましたが、いつ誰がここを台所に!?

 

元は天井画があったんじゃないかな…?

 

 

見学は以上です。

 

私はガイドなしの見学でしたので、たまにそこにいる係の人がちょこっと教えてくれることくらいしか聞けませんでした(それもほとんど忘れたし)。後から書くに当たって参考にしたのが次のブログ。

 

自分の撮った写真がどこの窟のものかはこちらで判明した。旅行会社のサイトらしい。

 

 

こちらはツアーで訪れた日本人の方。ガイドさんのお話を短いコメントにしてくださってる。

キジル千仏洞、クムトラ千仏洞、スバシ仏寺遺祉(2010 タクラマカン)

 

 

遺跡を出たところで、通路脇で売られていた水を買って飲んだ気がする。もう記憶があやふやだわ。確かペットボトルの持ち込みは禁止だった。水をかけられたりしたら遺跡が傷むからだと思う。ペットボトルと言うか、荷物はロッカーに預けるようになっていたはず。「カメラの持ち込みが禁止だった」と書いている人たちがいるんで、大きなカメラはダメなのかもね。スマホはOKでしたよ。

 

あ、ところで先日スマホを iPhone 12 mini に買い換えました。ので、広角レンズ付きになりましたの。けどあれ、なんか画像が歪むんですね。そりゃそうか。mini でなければ望遠レンズも付くんですが、そこまで贅沢はできない。

 

初めて広角レンズで撮影している人を生で見たのはロシア旅行でした。寺院を撮る際、全体が入りきらなかったり電線が入ってしまったりで残念がっていたら、ツアーメイトが広角レンズでその問題をあっさり解決していたのでした。ツアーに写真マニアが2人いたんです。あれももう30年近く前だわ。

 

ネットで読んで面白かった話。スマホでよく撮影するという若い子が「もうこれ電話である必要なくない!? カメラだけ独立させてほしい!」と言い、年配者が「そういうのあるよ。デジカメって言うんだけど」と答えたそうです。冗談抜きで、一周回ってデジカメを便利だとして買い求める人もいるそうで。私もちょっと考えちゃうわ。

 

検索でまずこの記事に来た人もいるかもしれないので先に書いときますと、「キジル石窟は写真撮影禁止」という言及もよく見かけますが、スマートフォンならOKとのことでした。他の見学者も撮りまくっていたし、係の人も誰も止めませんでした。

 

2019/8/14

 

何もメモがないもんだから、もう何が何だかです。ネットで調べて引っかかった情報によりますと、この部屋は第10窟らしい。壁画などはなく、発掘関係者の写真とかが飾られていた。あと、壁に何か直接書いてあった。今確認したらル・コックの名前もあるわ。

 

 

最後の方、大事な遺跡を保護しましょう的なことが書いてある気がするけど、こんな風に壁に直接書くのがそもそも破壊行為なのではないだろうか。

 

こんなもんより建物自体に興味がある。

 

「キジル千仏洞の石窟には、仏菩薩を礼拝供養する「中心柱窟」、大型の仏像を安置する「大像窟」、僧侶が生活する「僧房窟」、書庫や倉庫として使用された「方形窟」がある。 」(鳥取環境大学紀要第11号(2013. 3) pp.85-98、「クチャの千仏洞を訪ねて -中国最古の石窟寺院-」)  これ面白いから読んでみて。

 

ここは僧房窟だったらしい。この穴の用途は何だったのかなあ。奥に隣の房が見えていたよ。この写真ではハレーション起こしてて見えないけど。


 

 

さて、これは第何窟であろう…。メモってないからわかんない。見学を終えてから、「ここと、ここと、ここを見たよ」的に窟の入り口に設置してあるプレートを何枚か(全部ではない)撮っているけど、どの壁画がどのプレートに対応しているのかわからん。たぶんその時点では把握していたんだろう…。

 

とか思ってたら、ネットで判明。第17窟でした。

 

 

ネット上でアレコレ検索してもなかなか情報が見つからない。同じ壁画の写真をアップしている人はいても、それが第何窟のものかを書いている人がいなくてさ。でも、他の窟について調べていたらヒョコッと出てきた。その記事を書いた人は私とほぼ同じ窟を見学していたよ。訪問時期によって開いている窟が違うとかもあるかもね。ほら、補修の順番とかさ。

 

 

この菱形のペインティングもキジル石窟の壁画の特徴だそうです。ストーリーの流れを表していて、つまりは漫画のコマ割りみたいな役割を果たしているらしい。キリスト教の教会にもキリストや聖人の一生を時系列で描いている壁画がよくあるけど、コマ線は描かれているのは見たことがないな。

 

 

アップで。

 

 

装飾の模様もきれいなんだよ。

 

ここは通路にも壁画が残っていてステキだった。

 

 

ここは仏龕だよね? かつて仏像があったはず。盗掘も多かったし、壊れちゃったものも多いし、外国の博物館へと拉致されたままのものも多いし…。

 

もう本当にボロボロなの。外気に触れ放題だったし崩落もあったから劣化の進んだ壁画も多いし、この地にイスラム教が入ってきてからはイスラム教徒による破壊も激しかったそうですしね。

 

 

200を超える窟があると言っても、一般に公開されているのはほんの一部です。私が見たことが確実なのは第8窟、第17窟、第27窟、第32窟、第34窟。壁画は5世紀ごろのものだって。もっと前の時代の壁画は、美術として、インドやペルシャの影響をもっと強く感じさせるものだそうで。

 

非公開の窟の壁画やそこにない壁画の写真を貼ってくれている部屋があった。

 

これは第83窟の壁画(4世紀前半)。やっぱ5世紀以降とは雰囲気が違う気がする。

 

 

 

第17窟の壁画は4世紀の後半。

 
 

これは第8窟の十六剣士の一部ですな。5世紀半ば~6世紀半ば。

 

 

第13窟の壁画は7世紀か。

 

キジル石窟は2回で終わろうと思っていたけど、いざとなると壁画の写真を見てウットリしてしまう。あと1回だけ書きます。

 

これも概略がわかりやすいです。どうぞ。

 

モデルナワクチン2回目接種の副反応、3日目には熱もほぼ引き、軽い倦怠感と頭の重さ、あとは気のせいかと思うレベルの筋肉痛があった程度。4日目である日曜日は完全回復と思えるレベルにまで戻りました。やれやれ。今日のニュースはミントの葉に虫の卵だか繭だかがくっついていたことくらい。(撤去したとも)

 

2019/8/14

 

キジル石窟寺院に到着しました。駐車場から石窟までの間にはこのような道がありまして、地元の人が果物とか売っていたよ。

 

タクシーは一日チャーターだからなのか、「何時までに帰ってきて」とも言われませんでした。

 

キジル石窟寺院が作られた時期には諸説あり、3世紀末とする説から5世紀末とする説まである。放棄されたのが8世紀初頭というのは確かだそうです。現代で言うところの中国の領土内における大型石窟寺院としては最古のものの一つだそうですよ。

 

2つ前の記事で書きましたように、当時ここを治めていたのは亀茲王国です。亀茲は西域における最大の仏教王国で、都には仏教建築が林立し、大勢の僧侶が務めに励んでいた。亀茲にいつ頃仏教が伝わったのかは記録にないそうですけど、かなり早かったと思われるそうです。3世紀末から4世紀にかけては、亀茲出身の僧侶たちが晋で経典を翻訳していたんだって。この石窟寺院は、亀茲王国が消えたのと同じ時期に打ち捨てられたんだね。

 

 

現時点で236基の石窟が発見されております。20世紀の初頭にこの地域の探検が流行って、ひどく荒らされたそうです。特にドイツのル・コックという野郎が、発掘中に写本を破壊しまくり、壁画をゴッソリ切り取って持ち帰ったもんで、遺跡がボロボロにされたのだ。非難されると、現地の紛争を言い訳にしたって。地獄に落ちればいい。ベルリンの博物館に展示されていた壁画は空襲で一部がまた破損したそうです。疎開させていた部分は今もベルリンに展示されている。返せや!

 

 

手すりや階段が無粋な感じはしますが、危ないから仕方ないね。

 

 

階段は結構急で怖い。滑りにくい歩きやすい靴で来るとよろしいかと。

 

 

私、洞窟や石窟が好きなので、つい中だけでなく外側も撮りまくっちゃうんだよね…。

 


 

 

んで、中身の方ですが。

 

行った後すぐにメモを書けばいいのに、2年も経ったらほとんど憶えてない!

 

なので、ネットで調べながら書いていきます。ちなみに、写真撮影は禁止と書いている人も多いんだけど、スマホならOKでしたよ。みんな撮りまくってましたし、係の人にも咎められなかった。

 

これは第8窟。これもネットで調べて知りました(つか、見た時はわかってたんだろうけど)。

 

ここみたいに、ヴォールト天井のある長方形の部屋で、奥に仏龕があり、後に隧道の回廊がある構造が、キジル石窟に一番多いんだって。これはバーミヤーンの坐仏龕といわれる石窟の構造から変化したものである… とウィキペディアに書いてあるわ。

 

回廊に人が写り込んでしまい「くそぉ」と撮り直したけど、今となってはこれの方がいいような気も。

 

真上を撮る。

 

壁。

 
左下に四角く線が入っているでしょ。これ、探検隊が切り取ろうとした跡です(切れ込みを入れるだけ入れたけど、切り出すのをやめたらしい)。なんでこんな酷いことができるんだ。
 
上の写真、写っていないこの下の部分は、ただの茶色い壁になっている。そこから壁画を切り取っていったんだな。この第8窟は「十六剣士窟」とも呼ばれているんだよ。帯剣した武士が並んでいたんだ。後から画像を手掛かりにこれが第何窟なのかネットで調べてて、やっとこさ第8窟の「十六剣士窟」らしいと突き止めたんですけど、「ええ? 剣士の壁画なんか見てないけどな?」って思ったのよ。見なかったのも当たり前だよ、今はドイツにあるんだもの!
 
ちょっとアップ。イスラム教徒による破壊もあったそうなので、この壁画の体の部分が削られているのは、そのせいかな。普通はそういうのって顔を集中的に破壊するものだと思っていた。

 

 

高価なラピスラズリが青色顔料として惜しみなく使われていることに探検隊の人々は驚愕したんですって。あと、探検が行われたのは20世紀初頭。「中国」にある遺跡だから「中国っぽい」仏教建築と仏教美術を想像していた彼らは、むしろインドやササン朝ペルシャの影響を受けている遺跡に驚いたのだと。つまり彼らが思っていたよりずっと古い遺跡だったってことですね。インドで生まれた仏教がこの西域を通って東へと広がっていった歴史を物語る大変貴重な遺跡なのだ。

 

ちなみに初期の壁画では青よりも赤を使っているんだって。

昨日、モデルナワクチン2回目を打ちました。翌朝(今朝)の明け方に目が覚めたら熱っぽくて、測ったら37.8℃。ああ、来ちゃったかあ。でも発熱だけで倦怠感も頭痛もないのは幸い。休みをもらっていたので、自宅でダラダラしておりました。明日には熱が引くといいなあ…。

 

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2019/8/14

 

さて、クチャから遠足に行く日の朝です。朝食では、相席で円卓に座りました。向かいの3人家族がものすごい量の食べ物を持ってきているので「スゲエ健啖家だな」と思ってたら、一口だけかじってお終いにしたり、まったく手を付けなかったりで、半分以上残して去っていった! 絶句したよ。私の顔つきに気づいたのか、片付けの女性が怒りと呆れの混じった様子で私に何か言い、言葉が通じないとわかると、改めて表情と仕草で「ひどいもんだよ」みたいに伝えてきました。

 

中国の文化では供された食事を食べ切ってしまうのは失礼に当たるとは聞き及びますが、ビュッフェでも食べ切るつもりもなく取ってくるのが当たり前なの? 高給とは言えないであろう片付けの女性が腹を立てるのも無理ないと思う。

 

随分前に、サラダバーの野菜を使ってタワーを作るのが流行って問題視されていた記事も読んだ。

最近では中国でも食べ残し文化をやめようと政府が発信したりしているってさ。コロナの余波で世界的に食糧の供給に不安が生じているし、中国も自然災害や害虫被害による農業への被害もあり、無駄にしていい食糧はないということで。うまくいくかしら。

 

 

 

さて、チェックアウトも済ませてタクシーのお迎えを待ちます。が、10時の約束なのに、なかなか来ない…。その間に、ロビーの片隅に待機している靴磨きのおばちゃんから、私の汚れきったスニーカーをきれいにしてはどうかと再三勧誘を受けました。魅力的な提案だとは思いましたが、今にもドライバーが現れるのではと思うとその気になれない。

 

「はっ! ホテルに迎えに来てくれるはずだけど、このホテルではなく、旅行社の入っているクチャ飯店の方で待つってことでは!?」と思い付き、めっちゃ焦る。そしてまたホテルの人に頼んで旅行社に電話してもらいました。このホテルの人たちは本当に親切にしてくれたよ。散々甘えてしまった。

 

結局、自分が泊まっているホテルで待っていればいいと言われましたの。そこまでキチキチに時間厳守ってわけじゃないのね。心配しすぎと思われそうだけど、20年ほど前にアイスランドのレイキャビクからのツアーが迎えに来てくれず置いて行かれたことが未だにトラウマなのよ…。

 

これね。

 

ドライバーさんが来たのは10時半でした。そんなものなんでしょう。この人はとても目配り気配りしてくれる、気の利くドライバーさんでしたわ。エアコンの風が腕に当たるのが嫌でそっとそこをカバーしたら、すかさず風を止めてくれたり。よく見てるなあ。

 

まず向かったのはキジル石窟寺院。そこに向かう途中の景色も素晴らしかったよ。

 

写真スポット。

 

高速道路を使って移動したのよ。

 

 

車窓風景が素晴らしかったので、動画も撮りました。編集ソフトを使うようになったので、切り貼りできるようになったよ…。

 

前々からやってみたいと思ってはいたけど、実際には自分が編集ソフトを使うことなんて一生ないだろうと思っていたんですよね。面倒くさいし。でも今年の春に仕事でやらなきゃいけなくなり、思い切って自分でソフトを買ってしまった。次に仕事で使うまでに自分の動画を色々いじって勉強しよう。

 

そうそう、高速道路では、何やら検問所みたいなところも通ったよ。車を止め、ドライバーさんが私からパスポートを預かって建物の中に入っていき、しばらく戻ってこなかった。外国人だから特別に書類の提出や手続きがあるんだろうな。外国人と中国人を一緒のツアーにしないのはこういうのも理由なんだろうか。ルーマニアからモルドバに入った時、そしてモルドバと沿ドニエストル共和国の国境の出入りで、私のせいでバス全体をしばらく待たせてしまったことを思い出したよ。

 

 

2019/8/13


メインストリートの、王府と反対側の端には、このモスクがあります。まだ新しいように見えますが、リノベーションしたのかもしれんし、よくわかんない。情報がない。

 



このモスクのお隣の辺りはずらっと商店が並んでいるっぽい。王府のある方は住宅が多そうだったけど、反対側には商店が多いような気がしましたわ。閉まっている扉も多かったのですけどね。一番手前は、工具とか売ってたんじゃなかったっけ。



同じ並びにあったお店。お茶とかお豆とかを売っている。



お豆に突っ込んである麺棒っぽいものも売り物なんだろうか。



このお店は日用雑貨を売っていたんじゃなかったかな。



上のお店だったか、別のお店だったか憶えていないけど、入ってみました。ハンディ扇風機にウルトラマンのが2種類あったよ。口から風を送るのと腹から風を送るの、どっちがいいかしら。



この日用雑貨のお店、手前には乾物系の食べ物があり、奥には調理器具や食器、文房具、電化製品、化粧品、服、靴、小さめの家具など色々ありました。万屋ですね。こういうお店、他の国でも幾つも見ている。各種専門店やスーパーマーケットのような大規模店が近くにはない地区には、こういうお店があるんだ。もちろん車でちょっと走れば大きなお店もあるんだろうけど、日常の間に合わせにはこういうお店が便利よね。日本では、ここまで何でもありな店はもうあまり見ない気がするけど、どうかな。

さて、メインストリートを王府まで戻ってきました。そこから道を折れ、庫車大寺に向かう。モスクです。王府に次ぐクチャの名所なのだ。しかし、うんと手前で門が閉まってて入れず…。未練がましく門の隙間から写真を撮っていたら(モスクは見えんけど)、別の観光客が来て、「えっ、入れないの!?」的なことを私に問いかけてきました。首を横に振り合って失望を分かち合いましたよ。

この先にモスクがあるらしい。ネットで検索したら、立派なモスクが出てくる。残念だわ。


仕方なく中心部に引き返し始めたら、ケバブを焼いてるお店の前を通りかかりまして。

 



この黒いのはお鍋ですね。お湯を沸かしていたんじゃなかったっけ。



さっきメインストリートで見た食堂にも未練はあったけど、ここで遅いお昼をいただくことにしちゃいました。しかし店に入ってみると、10人くらいの団体が…。小さなお店でワンオペなので、店主さんが大汗かきながら奮闘する姿を見学することになりました。材料も切れたらしく、途中で麺を買い足しに行っていましたわ。すみません、一人増やして…という気分になる。私のが出るまでに30分くらいかかっちゃった。

 



念願のラグマン。ケバブ&ナンにも惹かれたけど、喉が渇きそうだったので、こちらに。団体さんもみんなラグマンを頼んでいたよ。

ところで、この団体さん、できた分から順番に出されているのに、全員分が揃うまで誰一人手をつけないの。皆フツーにお喋りしながら待っていましたわ。冷めるし麺が伸びちゃう…と他人事ながら気になっちゃった。私らがよくやる「冷めないうちに、先に食べてね」ってのは、あっちではやらないのかな。この人たちがたまたまそうなのか、この地域ではそういうものなのか、知りたいなあ。

その後は王府の前の小さな公園にある運動器具で少し遊びました。公園の周りに様々な器具が並んでいるのだ。




運動の指南もあります。つまりここはスポーツジムなんだな。


公園の中では、スマホに夢中の人たちもいれば、お母さんと一緒に運動している子もいたし、奥では卓球に興じる少年たちを警官が見守っておりました。



王府も楽しかったけど、私はこのメインストリートの街並みが好きでした。もっとじっくり扉を見物して写真を撮れば良かった。他人様のお宅だと思うとあまりしつこく撮り続けるのも、って気がしちゃったけど、メインストリートだし…。

さて、ホテルに帰るぞ。暗くなるまでにはまだ時間の余裕があったので、頑張ってバスに乗ってみる。他のバスの様子を見て乗り降りの仕方を勉強してから乗ろうと思ったのに、私が乗りたい8番が最初に来てしまった。次にいつ来るかわからんので、もう、乗ってしまおう。運賃は、乗車の際に料金箱に1元入れる仕組み。一律料金なんだね。車掌さんがいて、乗る時に「クチャ飯店?」と質問口調で問いかけたら、頷いてくれました。



新市街に向かって旧市街を抜けた辺り、橋の近くに、マーケットっぽい広場がありました。日曜日にはここで大きな市が立つそうです。あと、もう少し小さな生鮮食品だけの市が金曜日に。私が行ったのは火曜日でしたので何もなく、ただ、ロバと荷車だけ少し置いてあったくらい。

バスは最初は空いておりましたが、段々に混んできたので、席を赤ちゃん連れの女性に譲りました。やはり新市街の方が人がたくさん住んでいるよな。ホテルがまだ先なのは知っていたのですけど、敢えて車掌さんに「クチャ飯店はまだ先?」と身振りで尋ねて、「着いたら教えてあげるから」的対応を引き出すことに成功。ご面倒をかけますが、これやっとくの大事なのよ…。



これは私が乗ってきたバスではありません。


ホテルに戻る途中の酒屋でビールを購入。お昼が遅かったし、買ってきたレーズンパイも、ホテルが置いてくれていたリンゴ2個もあるので、晩ごはんはこれで終了してしまった。

 



バスに乗ることにもう少し自信があったら、旧市街で夜まで過ごし、夕食を済ませてから帰りたかったんだけどねえ。もともと旅先で夜に出歩くのはあまり好きじゃないの。宿がある街なら、宿の近くくらいは食事に出たり散策したりするけどね。

部屋ではWi-Fiが使えないはずが、使えました。と言っても、SNSとか何も見れないので、ネットで時間を潰せるわけではない。カシュガルもそうでしたが、新市街、それも周りに何もない場所のホテルに宿を取ると、夜にやることがないんだよなあ。特にクチャのホテルなんて、周りに建物すら少ないんだもの。旧市街に宿を取れていたら、夜もそぞろ歩きを楽めただろうに。

2019/8/13

 

王府の外に出た後、門のすぐ横にあった駄菓子屋で水とお菓子を購入しました。これはもう、買いたかったと言うより店に入ってみたかったのかも。店番は小さな男の子でしたね。

 
王府の前には広めの道が真っすぐ伸びています。王府が現役だった頃にはさぞ栄えた街なんでしょう。古い美しい建物が並んでいる。現存する市街がいつ頃のものなのか知りたいんだけど、どこにも書いてない。見た感じ19世紀くらい? 古くても18世紀の終わりくらいかなあ。
 
 
そしてカラフルに装飾されている。柱や扉がとてもきれい。

 

 
クチャの旧市街、中国人観光客の口コミではすごく褒められているけど、日本人の中には「見どころがない」と書いている人たちがいますね。確かに、街の規模が小さいとか、歴史的事件の舞台となった建物がないとか、ピカピカにリノベーションされていなくて可愛い提灯がぶら下げられていなくてオシャレなカフェが林立していないとか、そういう理由で「つまらない」と感じる人には、クチャの旧市街は向いていないんでしょう。
 

 

歩道が広いの。自動車が一般的になった頃にはもう城下町じゃなくなっていたはずだから、近年になってから敢えて歩道を広く取って並木を作ったんだろう。ああ、城下町だった頃の絵や写真、残ってないのかしら…。

 

 

ここもそのうち中央政府の主導で観光化が進んで、テーマパークみたいにされてしまうのだろうか。今はまだ、王府は観光名所だとしても、旧市街そのものは完全に地元民のものって感じですが。

 

 

こちらのお宅は色は渋く、彫刻で魅せる。会社が入ってるみたいだね。

 

家の前にこんな風に屋台を出して食べ物を打っているお店もいくつか。

 

カシュガルの旧市街は大体のところ歩き放題だったけど、クチャの旧市街は、メインストリートのみ開放されているらしかった。メインストリートから横道に入ると住宅街なんですけど、そこは鉄の門で閉じられていたり、検問があったりで、自由には行き来できない。住民の方々が小さなブースみたいな建物の中を通って行き来しているところがあり、私も通れるのかなと行ってみたけど、兵隊だか警官だかに「ダメですよ」と制止されました。

 

SWATと書いてあるベストを着た人がホコリ抑えの水まきをしていたのが妙に印象に残っておる。

 

 

 

実は一箇所だけ、門が開きっぱなしになっているところがあった。開いてるってことは入っていいのかな…と、入ってみました。白いタイルの小さな平屋の家が並んでいましたよ。写真を撮るのはやめておきましたが。監視カメラが見当たらないのが不思議だった。これから設置するのかな。検問で人の出入りを管理しているのは、監視カメラがないからなのかしら。

 

住宅街の写真をアップしている人たちのブログもあるので、この旧市街メインストリートから外れた場所なら行けるんじゃないかな。外国人が集まる場所ほど厳しく監視されるのかも。

 

淡々とこんなこと書いてるけど、気持ちの悪い、嫌な話だよな。私と同じ2019年の6月にクチャを訪れた人が「クチャは新疆で最も警官の監視が厳しい街になってしまった。クチャを訪れる人は、クチャを出る鉄道のチケットなどをすぐ提示できるようにしておく方がいい」と書いていました。

 

冷たい麺を売ってる店を発見。手前の車の上にあるのは巨大な氷です。

 

注文方法がよくわからんかったから、私の前にいた人が注文したものを指さし、あれと同じものを、とジェスチャーでお願いしました。

 

上から見たらこうだけど、

 

何種類もの麵が入っているのだ。これが普通なのか、その人の好みなのか、よくわかんない。タレはかなり酸っぱい醤油味。ところてん的なおやつなのだろう。

 

お店の中はこんな感じ。

 

飲食店もいくつかありまして、良さげな食堂を見つけました。お昼をそこで食べたかったんだけど、おやつを食べたばかりでお腹がいっぱいだったので、後でまた帰ってくることにしました。

 

また半年以上放置してしまった。前の投稿は2月の末くらいね。3月から繁忙期なので、予感はしておりましたが。更にその頃ダーツにハマりまして、平日の夜に余裕があるとダーツばっかりやってました。そして同時期に始めたのが庭の手入れで、週末に余裕があると常に庭をいじってました。繁忙期が5月で終わるからブログ再開だ!と思っていたけど、いつもより繁忙期が長引くし(コロナのせい)、庭仕事が落ち着くころには長時間ウォーキングが趣味になっていて週末がやはり使えず。

 

とかやってるうちに8月に入り再び在宅勤務も始まりました。ダーツもしに行けないし、夏になったら暑くて庭仕事もウォーキングもやめていたんで、いよいよブログ再開…と思いながら大量の録画消費を始めてしまい、そうすると新しく録画もしてしまって、また1ヶ月経ってしまったw もうちょっと書き溜めてから再開したかったけど、そんなこと言ってたらまた半年かかりそうなので、とりあえず1回、アップします。次がいつになるかわからんけど。

 

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2019/8/13

 

バスに乗るというよりバス停まで行く時点で気力が萎えたので、結局タクシー。「クチャ・ワンフー」、ちゃんと通じたよ!

 

王宮跡は、今は博物館になっております。

 

今クチャ市がある場所には、昔は亀茲という国がありました。紀元前5世紀にはもう国として存在していたらしいよ。匈奴の属国を経て前漢(武帝の時代)に従属し、後漢の時代に莎車国に併合され、匈奴に頼んでまた一つの国となって匈奴に服従し… と、当たり前ながらこの後も書き切れないほど色々ありましたが、漢から唐の時代にかけては西域の中心的な国だったらしい。でもその後衰退して、12世紀には消えてしまった。

 

敷地内には亀茲国博物館があります。古代の発掘品などもたくさんあるし、仏教の伝播など歴史の解説も多くて見応え充分です。英語の解説もあります。

 

この王府って、上記の漢だの唐だのの千年くらい後の清の時代、1759年に建てられたものなの。ウイグル族の和卓(指導者)の親子が反乱を起こしましてね。大小和卓の乱と呼ばれています(大は親、小は子の意味ね)。同じ一族の親清派がホージャ親子を殺害して、反乱は収束。乾隆帝がこの親清派の顕彰のため王府を建てたの。ちなみに最後の王(だった人)が亡くなったのって2014年のことだそうです。

 

これ、王の住まいだったっけ。もう忘れてしまった~。早く書かないから…。

 

中国と西域の様式を融合させた建築とのこと。なるほど、外の回廊は中国っぽいけど中はイスラム風だね。素人の目から見ての話ですが。

 

 

これ、ストーブだよ。

 

余談ですが、一族はその後北京に連れていかれ、大和卓の娘である姫君は乾隆帝の側室となり、容妃と呼ばれました。伝説の「香妃」のモデルは彼女らしい。現実の容妃の方は穏やかに暮らして54歳で病没しましたが、香妃の方は様々なドラマティックなバージョンがあるそうです。「帝の溺愛ぶりに傾国を案じた皇太后から死を命じられて自害した」とか、「最初は頑なだったが帝の誠実な愛に触れて心を開き睦まじく暮らした」とか、「帝を殺して父や夫の仇を取った」とか。土地によって好まれるバージョンが違うんだって。なるほどね。

 

 

 

 

「文物陳列館」。王族が使っていた品物などが飾られている。

 

 

 

1937年には国民党が王府を破壊し(やめてよねホントに… 涙)、いくつかの建物と城壁くらいしか残らなかった。2004年にその廃墟を整備し再建したんだそうです。この陳列館や王の住居、あれが破壊を免れた数少ない建物なのでしょう。門の辺りとかめっちゃ新しいもんな。

 

 

陳列物も良いんだけど、やっぱり建物がいいのだ。

 

 

 

 

 

今は敷地のほとんどが庭園みたいになっているけど、昔はもっとたくさんの建物が並んでいたんだろうねえ。もったいない。

 

 

敷地内には果物のなる木がたくさん植わっていて、「果物を取らないでください」という注意書きがそこかしこに見られました。でも、ブドウ棚に水筒を繰り返し投げつけては収穫を試みるおっさんたちがおりましたわ。町のあちこちで「文明国であるよう心がけましょう」「礼儀正しく振舞いましょう」みたいな注意書きが目につき、「学校かよ」と思っていたけど、必要なんだろうなあ…。

 

ここが昔のままの城壁の部分ね。300メートル分くらい残っているらしい。幅は3メートル、高さは最大4メートルだって。

 

王府のモスク。元は1828年に建てられたもので、これは復元です。

 

 

 

 

どれくらい、元の姿に忠実なのかなあ…。まあ、1937年なら写真も残っていたよね、きっと。あと、高齢者からの聞き取りも行われたらしい。

 

なんか、現在の中国政府のプロパガンダに使われているような展示もあったけど、クチャの旧市街まで来たなら、入ってみて損はないと思いますよ。歴史好きとか古い建物好きでない人はすぐ「見どころがない」「大して建物が残っていない」と切り捨てちゃうけど。

 

一通り見学し終わった後、このモスクの近くに小さな売店が2つあるのが目に入りました。一つは土産物屋、もう一つは飲み物などを売っている。喉がカラカラだったのでスイカとメロンを買って食べました。水よりいいよ、これ。

 

めっちゃ安かった。

 

ここでスイカを食べたの。

 

この子のお皿に水がなかったので、私の水を分けてあげたのよ。暑かったし。そんなことしてるから水が足りなくなるんだわ。