バスに乗れたことに満足して、しばらくは外の景色や車内を見ていた。

でも、車内放送もバス停の掲示も全くない。
バス停に名前があるのかどうかさえわからない。

どこで降りればいいのか。
郊外の辺鄙なターミナルで降りる羽目になったらどうしよう。
ホテルで聞いてくれば良かった。

周りの人たちは都会人らしく音楽を聞いたりサングラスをかけて寝たふりをしたりしている。

途中で乗ってきた男性と目が合った。
ヒゲを生やした太めの男性。
彼は私の真後ろの席に座った。

振り返り、セニョール、と言ってみた。
エスタサオン、メトロ、と単語を並べて聞く。
彼は何か答えてくれたが、テルミナウという単語だけが聞こえた。

どうやら終点で降りれば地下鉄の駅に行けるらしい。
オーブリガードと礼を言うと、彼はなおも何か話し続ける。
まったくわからない。

テレビを観ている時は字幕もあるので、スペイン語に似ているなぁ、と思うのだが、会話となれば別。
チーノ、という単語が耳に入ったので、ハポネス、と答えた。
ジャポネースと返ってくる。

スペイン語とポルトガル語は、たとえ同じつづりでも発音は全然違うのだった。

彼は座席の背もたれに両手を乗せて、彼は話し続ける。

爪は短いが手のひらは黒く汚れている。
左手首には波の模様の刺青。
ポルトガル語旅行会話帳を食い入るように見つめている。

いまもしかして、私は日本人旅行者だ、と宣言してしまった?
しかも「とても」貧しい人に?

貧しくても誇り高く暮らしている人はたくさんいる。
だけど、財布も心も貧しすぎて、他人が獲物にしか見えない人もいる。

それは日本にだっているのだが、簡単には見分けられない。
信心深くて親切で人当たりの良い人だって、盗んだり殺したりするのだ。

彼はバスが停まろうとしているとき、ここで降りるよ、と促してくれた。
バスに乗っていた人の半分くらいは降りたようだ。

まっすぐ行きな。
危険だから気をつけて。
ちゃんと名札を下げた人に道を聞くんだぜ。

どうやらそう言っているようだった。
彼は左に行き、私はまっすぐ駅に向かった。

Cristóbal を思い出した。

最初に目が合った時の印象。
危険だから気をつけろ、という言葉。
見開いてこちらを見つめる目。
汚れた手。

親切な人だった。

だがもしかすると…