昨日新しい眼鏡を注文してきました。「中近両用」というヤツです。
元々の近眼に老眼がミックスされて来て遠くも近場も見辛くなっています。そんな時に新聞で見かけた「中近両用」、遠近両用は前からありましたがこれは室内専用の例えばテレビを見ながら新聞を読むというような時に使う眼鏡です。
会社で仕事は主にパソコン画面見てますが手許の書類から壁の時計までこれひとつで見えるんじゃないかと期待しています。
本日のお題
前回、関鉄の元キハ30の塗色がタラコにしては変だと書きましたが、考えてみれば関鉄はタラコとは言っていません。自分で勝手にタラコ擬きだと思っていました。
どちらかと言えば交直機EF80・81や400番台の近郊型電車の登場時の色、ローズピンクに近かった気がします。
上の写真は1988(昭和63)年6月に帰省の途中、池田で撮ったキハ45+20です。正統タラコではないでしょうか。
何度も言ってきましたが好きな色ではありません。タラコと呼ばれるようになったのはもっと後のことでこの当時趣味誌では首都圏色(稀に合理化色)と記されていたと思います。
このころは写真と言えば子供ばっかり、カメラもコンパクトカメラを使っていてこの帰省でも車両を撮ったのは数枚です。
鉄から離れていたので「首都圏色」がまさか四国にも居るとは思って無かったので撮ったのだろうと思います。
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1988年=昭和63年は色々の端境にあたる年でした。前年には国鉄民営化でJR発足、この年の4月には瀬戸大橋開通、そして翌年は昭和最後の年。
で、この6月になぜ帰省したかは不明。ただ下りは瀬戸大橋を通らず児島から下津井電鉄に乗って下津井からフェリーで丸亀に渡り、そこから土讃線・徳島線経由で徳島に帰ったのでした。
下津井電鉄線も丸亀-下津井間のフェリーも今はありません。廃止の噂でも聞きつけたんでしょうか。
丸亀-池田間もこの時が初乗でした。実は予讃線の多度津以西と土讃線の高知以西の四国の西半分は未だ行ったことがありません。灯台元暗しです・・・
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下電下津井駅です。左の緑はフジカラー号、右の赤いのはメリーベル号という名前が付いていてメリーベル号のステッカーを買ってまだどこかに保存してるはずなんですが見つかりません。
メリーベル号は赤字に喘いでいた下電が瀬戸大橋開業と瀬戸大橋博や岡山に当時開業が予定されていたデンマークの公園にちなんだテーマパーク人気を当て込んで起死回生・乾坤一擲の思いで新造した特別車両です。
一時、瀬戸大橋人気で賑わったようですがブームが去ると同時に’90年一杯で廃止になったようです。
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たこ焼きの屋台があって田舎の学校の学園祭のようにも見えますが、実は下津井駅からフェリー乗り場に続く連絡通路です。下津井-丸亀航路は四国連絡の主要ルートのひとつとして歴史があることを感じさせます。
フェリーの乗り場も木造二階建ての建物でしたが残念ながら撮っていません。乗船券にあるように「関西急行フェリー」という壮大な名前の会社が運行していました。宇高航路同様、瀬戸大橋通行料が高いのでその後も運行を続けて居たようですが’99年8月に廃止されたそうです。
フェリーの写真もフェリーから見えたはずの瀬戸大橋の写真も撮っていません。ほぼ瀬戸大橋に平行した航路で橋が見えはしたんですがコンパクトカメラで撮れるような距離ではなかったと思います。
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最後はキハ65+58(車端屋根に水タンクがあるので28ではない)です。冒頭の写真と同じく池田で撮ったものです。
左端にチラッと写っているかずら橋のミニチュアはこんな昔からあったんだと今回気がつきました。
’88年のが無いので’87年4月の時刻表を見ると徳島線には朝夕2往復の急行よしの川の他に昼間2往復の快速があり時間差は10分だったようです。
この時の帰省では日和佐の薬王寺にもお参りした記憶がありますが、なぜこんな時期に行ったかは思い出せません。