マリー・ローランサンー時代をうつす眼 | パラレル

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アーティゾン美術館で開催中の「マリー・ローランサンー時代をうつす眼」展へ行って来ました。


マリー・ローランサンは20世紀前半に活躍した女性画家です。

ローランサンは、パリのアカデミー・アンベールで学び、キュビスムの画家として活動をはじめました。

1914年にドイツ人男爵と結婚、ドイツ国籍となったため、第一次世界大戦がはじまるとフランス国外への亡命を余儀なくされます。

1920年に離婚を決意して、パリに戻ると、翌年には個展を開き成功を収めます。

第二次世界大戦勃発後もほとんどパリに暮らし、1956年に72歳で亡くなるまで制作を続けました。

 

ローランサンは、キュビスムの画家として紹介されることも多くありますが、「前衛的な芸術運動」や「流派」を中心に語る美術史の中にうまく収まらない存在です。

ローランサン自身は、自分に影響を与えた存在として、同時代の画家マティス、ドラン、ピカソ、ブラックの名前を挙げていますが、彼らの様式を模倣することなく、パステルカラーの独自の画風を生み出しました。

彼女は同時代の状況を見つつ、時代の要請を理解して、自らの方向性を模索しました。

 

本展は、ローランサンの画業を複数のテーマから紹介し、関連する他の画家たちの作品と比較しつつ、彼女の魅力を紹介するものです。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

序章:マリー・ローランサンと出会う

第1章:マリー・ローランサンとキュビスム

第2章:マリー・ローランサンと文学

第3章:マリー・ローランサンと人物画

第4章:マリー・ローランサンと舞台芸術

第5章:マリー・ローランサンと静物画

終章:マリー・ローランサンと芸術

 

マリー・ローランサンは、1883年10月31日に、母ポーリーヌ=メラニー・ローランサンの婚外子としてパリに生まれました。

別に正式な家庭を持つ裕福な父の援助により、良家の子女が通うリセ・ラマルティーヌで学んだのち、画家を志すようになります。

アカデミー・アンベールに通いますが、その後、モンマルトルの「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」に出入りして若い新進芸術家たちと交流を深めます。

やがてジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソらのキュビスムの重要な一員と目されるようになります。

1912年には初めての個展を成功させ、新進作家としての名声を得ました。

 

アカデミー・アンベールでは、木炭とチョークで過去の画家たちの作品の模写を行います。

《自画像》は画学生だった時期のもので、鏡に映る自分自身の姿を、憂いを帯びた表情で表しています。


マリー・ローランサン《自画像》(1904年)マリー・ローランサン美術館

 

ローランサンは、新しい芸術であるキュビスムの動向のすぐそばにいて、少なからず影響を受けました。

1910年代になると、ローランサンは、白色を多く用いた淡い灰色、青色、ピンク色といった色彩を好むようになり、キュビスムの手法を援用しつつ、叙情的な気配に満ちた人物像という自らの様式を確立します。

 

ローランサンがピカソと知り合った1907年、20代半ばのピカソは《アヴィニヨンの娘たち》を発表して話題となります。

「洗濯船」に出入りするようになったローランサンは、20世紀初頭の新しい芸術の誕生を近くで体験していたのです。


マリー・ローランサン《パブロ・ピカソ》(1908年頃)マリー・ローランサン美術館

 

ローベール・ドローネは1909年頃からキュビスムの運動に関わりますが、1912年にはキュビスムを脱し、「窓」を主題とした純粋に抽象に近い作品を制作し始めます。

《街の窓》は、1912年に描かれたこのシリーズの最初の作品とされています。

補色関係にある色彩が並べて置かれると、お互いが強調され色の強度と鮮やかさが増す、という光学理論を念頭に描かれています。

ピカソやブラックらのキュビスムの画家たちの画面がモノクロに近かったのに対して、ドローネの画面では色彩が重要な役割を果たしていたのです。


ロベール・ドローネ《街の窓》(1912年)石橋財団アーティゾン美術館

 

ローランサンは、絵画制作の一方で自ら詩を書き、多くの詩人と交流しました。

1907年、ローランサンはピカソを介して詩人のギヨーム・アポリネールを知ります。

ふたりの親密な交際は1912年まで続きました。

1910年、ローランサンは、アポリネールが考案した架空の女性詩人「ルイーズ・ラランヌ」として、リセ時代の詩「昨日」「贈り物」を雑誌に発表します。

 

ローランサンの出版の仕事には、挿絵も含まれます。

ローランサンが最初の挿絵本を手がけたのは22歳の頃、ルネサンス期のフランス人詩人ピエール・ド・ロンサールの詩集で、1911年にフィギエール社から出版された『恋愛の小詩抄』でした。

そして、挿絵作家として本格的に活動するのは、1920年代以降で、80冊以上の本に挿絵を提供しています。

その技術は高く評価され、『椿姫』などの名著再版のときに挿絵を依頼されることも多くありました。


展示風景より

 

『椿姫』はアレクサンドル・デュマ・フィスが1848年に刊行した長編小説です。

高級娼婦で音楽家のフランツ・リストとも浮名を流したマリー・デュプレシをモデルにしています。

作者自身によって1849年に戯曲化され、その後、オペラやバレエ、ミュージカルや映画になっています。

ロンドンのリミテッド・エディション・クラブは、この小説の英語版を出版するにあたり、ローランサンに挿絵を依頼しました。

ローランサンは原画のために12点の水彩画を制作、挿絵にはコロタイプ印刷が用いられました。


マリー・ローランサン《椿姫 第1図》(1936年)マリー・ローランサン美術館


マリー・ローランサン《椿姫 第6図》(1936年)マリー・ローランサン美術館

 

ローランサンは人物画を得意にしていました。

そのため1910年代にキュビスムの影響を受けた時も、対象の形態が完全に幾何学的に解体されることはなく、人物は優雅な姿を残していました。

ローランサンは生涯にわたり人物画を多数制作していましたが、表現は時代によって変化しています。

 

第一次世界大戦中に亡命していたローランサンがパリに戻ったのは1921年。

当時のパリは、戦争が終わった安堵感や戦勝国としての高揚感で活気づいていました。

この帰国の年に開催した個展は大成功をおさめ、画家としての再スタートと幸先よく切ることができました。

1920年代のローランサンの優雅で洗練された女性たちは、美しく明るい色彩で輝き、夢見るような表情で描かれました。

亡命時代の絶望や孤独の影は見えなくなっています。

 

しかし、1929年秋のニューヨーク株価大暴落にはじまる世界恐慌により、人々は再び戦争の不安を感じるようになりました。

このような状況にあって、ローランサンの作品はより華やかさを増し、少女たちは真珠やリボンで飾られました。

さらに作品には「赤色」や「黄色」が登場するようになります。

 

《女優たち》はその頃の作品です。

背後には、舞台の幕を思わせる華やかなバラ色の布がかかっており、手前には、ギターを手にした女性と、抱き合う女性たちがポーズをとっています。

女性たちの顔は、黒い瞳にピンク色の口紅と頬紅だけで簡潔に表現されています。

抱き合う二人は、娘役と男役を演じる女優なのか、あるいは女同志の恋人たちであるのかは定かではありません。

謎めいた恋物語をさまざまに想起させます。


マリー・ローランサン《女優たち》(1927年)ポーラ美術館

 

オランダ出身のヴァン・ドンゲンの《シャンゼリゼ通り》も紹介されており、ローランサンとの作風の違いを比較できます。

ドンゲンはロッテルダムの美術学校で学び、20歳の頃パリへ移住しました。

次第にフォーヴィスムに傾倒し、明るい色彩表現を手に入れます。

第一次世界大戦後は肖像画家としてパリ社交界で人気を博し、本作にも見られる享楽的な都市生活や、流行のファッションに身を包んだ女性たちを優しい色彩で描きました。

引き延ばされた軽やかな身体や締め付けのない新しい婦人服、自由を感じさせる赤い口紅が、開放的な雰囲気を醸し出しています。

和やかな目抜き通りの情景に、両大戦間の平和な一瞬が捉えられています。


ケース・ヴァン・ドンゲン《シャンゼリゼ大通り》(1924-25)石橋財団アーティゾン美術館

 

ローランサンは舞台芸術も手掛けています。

バレエ・リュスによるバレエ『牝鹿』は。ジャン・コクトーが台本を書き、フランシス・プーランクが作曲をして、ローランサンが舞台衣装と舞台装置を担当したもので、1924年1月にモナコのモンテカルロ歌劇場で初演が行われ、同年5月にはパリのシャンゼリゼ劇場でガラ公開が開催されました。

『牝鹿』の成功により、ローランサンのもとには舞台美術の依頼が舞い込むようになりました。

 

ローランサンは、『牝鹿』からかなり想像力を刺激されたようで、このテーマに想を得た作品を描いています。

《牝鹿と二人の女》は、バレエの登場人物と思われる女性が、バラ色の布をまとって寄り添い、その背後に牝鹿が見えます。

人物の周囲にはバラ色の布が垂れ下がり、舞台の一場面のような印象を与えます。


マリー・ローランサン《牝鹿と二人の女》(1923年)ひろしま美術館

 

ローランサンは、人物画を多く手掛けたことで知られますが、生涯を通じて静物画も制作しました。

その中でも多くを占めるのが、花の絵です。

 

《花を生けた花瓶》は最晩年の作品で、ローランサンの色彩画家としての技量を見せてくれます。

ここに描かれているのは花を生けた花瓶です。

ピンク色と白色、黄色の花束が白色の花瓶に飾られています。

花の輪郭を線で描くのではなく、さまざまな色調の面で表現しています。

背景も大胆な色面で仕上げられることで、微妙なニュアンスが生み出されています。


マリー・ローランサン《花を生けた花瓶》(1950年頃)マリー・ローランサン美術館

 

本展はコンパクトな構成ではありますが、ローランサンの多面性を示したものになっており、ステレオタイプではないローランサンの作品を鑑賞することができます。

その幅広さを実感することができる展覧会となっています。

おすすめします。

 

 

 

 


 

 

主催:公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館

後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本

会期:2023年12月9日(土)-2024年3月3日(日)

会場:アーティゾン美術館 6階展示室

   〒104-0031 東京都中央区京橋1-7-2

開館時間:10:00-18:00(2月23日を除く金曜日は20:00まで)

  ※入館は閉館の30分前まで

休館日:月曜日(1月8日、2月12日は開館)、12月28日-1月3日、1月9日、2月13日

お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)