パラレル

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台東区立書道博物館で開催中の「中村不折コレクション 漢字のはじまり」展へ行って来ました。

 

動物の骨や亀の甲羅に刻された、現存最古の漢字といわれる甲骨文字は、今から3500年ほど前に使われていました。

漢字は、読みやすさ、そして美しさなどが模索されながら、その時代に最もふさわしい形で表現され、発展していきました。

本展では、甲骨文字や青銅器の文字、石碑などの文字など、中村不折コレクションから本物の考古品で漢字のはじまりについて解き明かします。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

古代中国の伝説と祭祀

漢字のはじまりー象形ー

漢字のはじまりー指事ー

漢字のはじまりー形声ー

漢字のはじまりー会意ー

漢字のはじまりー仮借ー

漢数字

漢字の練習

漢字の発明伝説

さがしてみよう

方角

甲骨文字

殷〜西周時代初期の金文

西周時代中期の金文

西周時代後期の金文

春秋戦国時代の金文

秦時代ー文字の統一ー

漢〜三国時代

中村不折と正岡子規の作品ー糸瓜忌によせてー

 

古代中国において青銅器は新石器時代から漢時代にかけて作られました。

その制作技術が最高潮に達したのが殷時代。

外側の装飾は豪華で非常に細かいのが特徴です。

 

青銅器に見られる文字のことを「金文」といいます。

殷〜西周時代初期では、わずかな字数ながら生き生きとした字姿の銘文や氏族、あるいは職能集団をあらわすとみられる記号が鋳込まれました。

 

《厚趠方鼎銘》(西周時代 前11世紀 台東区立書道博物館)は、厚趠が祖先を祀る儀式を行い、父のために作った器の拓本です。

鼎は、底に3本足の姿が基本ですが、直方体に4本足のものを方鼎といいます。

線の一部をふっくらとさせる「肥筆」があるため、なんとも可愛らしい姿に見えます。

 

《大盂鼎銘》(西周時代 前10世紀 台東区立書道博物館)は、盂が作った鼎の銘文の拓本です。

祖先のあとを継ぎ、軍をまとめて王を補佐するよう命じられた、とあります。

飲酒に耽って殷王朝が軍民、さらには天命をも失ったという文言が周王朝の正統性を強調させています。

ところどころに肥筆を織り交ぜた厳正な字姿です。

 

《父己方鼎》(西周時代 前10世紀 台東区立書道博物館)は、祖先神となった父親を祀るために作られた器です。

鼎は、器が直方体の場合は4本足となります。

小型ですが、饕餮文が側面にあしらわれた荘厳な作りです。

北宋時代では悪霊をも食べるという伝説の食いしん坊怪獣が饕餮の文様であるとされましたが、現在は天帝の姿ではないかとも言われています。

 

西周時代では、神への占いは行われなくなりますが、祭祀は継続して行われました。

青銅器は祭器としての役割のほかに、王と諸侯との結束を示す意味合いが加わり、器を作った経緯を述べる文が鋳込まれます。

西周時代初期はふっくらとした点画ですが、この頃から少しずつ太さが均一化していきます。

 

《盂文房豆》(西周時代 前9〜前8世紀 台東区立書道博物館)は、盂文房が作った豆です。

「豆」の字はこの形から作られました。

豆は高杯型の器で、裾を広げたような足の上に受け皿状の器がつきます。

穀物、あるいはひき肉を供える役割がありました。

盂文房が父を旅先で祀るための器を作ったとあります。

器の曲面に鋳込まれていながらも、線も形も崩れていません。

 

では、特別展示室に入ってみましょう。

《がい𣪘》(西周時代 前10世紀 台東区立書道博物館)が紹介されています。

本作は、がいが作った器です。

がいは都において官職に任じられ、銅の地金や官服、馬車につける旗などが与えられたことを記念して作ったことが銘文に見られます。

小型の器ながら、底面いっぱいに字が配置されています。

線はほっそりとして実に艶やか。

ですが、「王」などに見られる肥筆が加わって重量感があります。

 

《応侯見工鐘》(西周時代 前10世紀〜前9世紀 台東区立書道博物館)は、応国の見工が作った鐘です。

ここに見られる銘文は金文のうちの後半。

藍田県所蔵の鐘に前半が鋳込まれており、二つを合わせて一つの文となります。

銘文の線質は鋳込みの深さもあってか、実に重厚です。

スペースの狭さがかえって銘文の躍動感を引き立たせています。

 

次は中村不折記念室前へ移動します。

《鄀公簠銘》(春秋時代 前8〜前5世紀 台東区立書道博物館)が展示されています。

春秋時代の初めは現在の山東省に位置し、後に湖北省に移るも、楚国に滅ぼされた鄀国で作られた器の銘文の拓本です。

鄀公なる方が祖先のために旅先でも使用できる器を作ったとあります。

西周時代の銘文と比べると、線質はさほど変わりませんが、やや丸味が強くなっています。

 

最後は《己侯𣪘銘》(春秋時代 前8〜前5世紀 台東区立書道博物館)です。

本作は、春秋時代、現在の山東省に存在した紀国で作られた器の銘文です。

己侯なる方が姜氏のための作った器で、婚礼の証となる器だったのでしょう。

一見して無駄を省いた簡素な字姿で、画数によって字の大きさを調節した配置となっています。

 

普段何気なく使っている漢字。

漢字のはじまりはいつごろで、どんな文字だったのでしょうか。

そして何に書かれていたのでしょう。

本展では、貴重な考古品から学ぶことができます。

また、青銅器も展示されており、中国史好きの方にはおすすめできる展覧会となっています。

たまには漢字について考えてみませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

会期:2024年7月23日(火)〜12月15日(日)

会場:台東区立書道博物館

   〒110-0003 東京都台東区根岸2-10-4

お問い合わせ:03-3872-2645(代表)

 

 

根津美術館で開催中の「企画展 夏と秋の美学 鈴木其一と伊年印の優品とともに」へ行って来ました。


『古今和歌集』において、四季のうち春と秋の歌は、夏と冬の歌より数で大きく上回ることにも示されるように、日本では古来、春と秋が好まれました。

春と秋に対する偏愛は、季節が離れた桜と紅葉を取り合わせる作品をはじめ、美術の世界でも見出されます。

 

そうした伝統を受け継ぎながら、江戸時代の美術には、春ではなく夏と秋の組み合わせも目立ってきます。

その背景に、夏の風情を好ましく思う感性があるのは間違いありません。

旺盛な夏と衰えゆく秋を連続して描くことは、季節の推移をくっきりと切り取るのにも寄与したはずです。

 

本展は、江戸琳派の異才・鈴木其一と、琳派の祖である俵屋宗達に始まる工房の優品を中心に据え、美術作品によって初夏から晩秋まで移ろう季節の情趣を楽しみながら、そこにうかがわれる美意識の諸相に迫るものです。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

 

夏のおとずれ

真夏の情趣

夏から秋へ

涼秋の候

秋の叢

 

展示室に入ると、夏真っ盛りです。

冷泉為恭《納涼図》(江戸時代 19世紀 植村和堂氏寄贈 根津美術館)は、寝殿造りの屋敷の一角、庭の池に望む釣殿でくつろぐ公家の親子が描かれています。

父親は狩衣をはだけ、子の1人は団扇を手に涼をとっている様子とわかります。

釣殿は納涼や娯楽のスペースで、『源氏物語』の「常夏」巻にも、光源氏が友人たちと釣殿で食事をするシーンが見えます。

本作では、それを家族団欒の情景に置き換えています。

 

尾形光琳《夏草図屏風》(江戸時代 18世紀 根津美術館)は、夏を中心に30種近い草花が、1双を通じて対角線を描いています。

大胆で華やかな画面は、画家兼デザイナーの尾形光琳に相応しいですが、草花の半数が近衛家熙の植物写生「花木真写」に登場するのも注目点です。

近世絵画に夏草が増えるのには、南方からの渡来植物を含め、旺盛な夏の草花が本草学でクローズアップされた事情も作用しました。

 

そして、季節は夏から秋へと移り変わっていきます。

鈴木其一《夏秋渓流図屏風》(江戸時代 19世紀 根津美術館)は、渓流が流れる檜の林を描いています。

右隻は白い山百合の咲く夏、左隻は桜の葉が赤く色づく秋です。

師・酒井抱一の《夏秋草図屏風》の面影をとどめつつ、左右で地面の緑にかすかに濃淡差をつける繊細な感覚の一方、ねっとりとした渓流の表現や檜の陰からこちらを覗き込むような山百合など奇異な描写が充満しています。

鈴木其一の代表作です。

 

住吉広定《舟遊・紅葉狩図》(明治時代 19世紀 根津美術館)は、夏と秋の王朝風俗に取材した対幅です。

右幅は公家の女性たちの舟遊び、左幅は男性貴族たちの紅葉狩りです。

白い洲浜など平安時代以来の風景表現を示す右幅と、日本らしからぬ険しい崖から滝を落とす左幅が取り合わされ、「和」と「漢」の対比も図られています。

住吉広定は、江戸時代の大和絵の流派、住吉派の7代目です。

 

夏は過ぎ、秋が深まっていきます。

窪俊満《砧打ち美人図》(江戸時代 18〜19世紀 根津美術館)は、古来和歌に詠まれた6ヵ所の玉川「六玉川」のひとつである摂津(現在の大阪府)に取材した作品です。

源俊頼の歌「松風の音だに秋はさびしきに 衣打つなり玉川の里」をもとにしながら当世風俗にやつし、砧を打つ娘と傍に立つ華やかな装いの娘、対比的な二美人図としています。

浮世絵師・窪俊満の人気作です。

 

尾形乾山《定家詠十二ヶ月和歌花鳥図 九月》(江戸時代 寛保3年 1743 根津美術館)は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が12ヶ月の花と鳥を詠んだ和歌に基づいています。

本来は12枚セットの色紙のうちの9月の図です。

薄にひそむ鶉を素朴な筆致で描いています。

周囲の余白を埋め尽くすように書かれた2首の和歌は鶉をさらに隠す役割も担っています。

尾形乾山は光琳の弟で陶芸家です。

書に優れた文人でもあった乾山晩年の画賛です。

 

《武蔵野図屏風》(江戸時代 17世紀 根津美術館)は、青い水辺をともなう緑の野に秋草をまばらに表し、左隻の銀色の月に加えて、右隻に赤い太陽も描いています。

中世大和絵屏風の日月山水図の伝統を受け継ぐものと思われ、画風もおおらかです。

そのことが、後世「法橋宗達」の落款が加えられた一因であると思われます。

 

本展では、初夏から晩秋までをとらえる美術作品に注目し、鈴木其一《夏秋渓流図屏風》をはじめ所蔵の優品から、季節の推移を感じ、その情趣を味わうことができます。

季節の移ろいを愛でる、日本の美意識を感じてみませんか。

 

 

 

 

 

 

会期:2024年9月14日(土)〜10月20日(日)

会場:根津美術館 展示室1・2

   〒107-0062 東京都港区南青山6-5-1

休館日:毎週月曜日 ただし9月16日(月)、23日(月)、10月14日(月)は開館、それぞれ翌火曜日休館

開館時間:午前10時〜午後5時(入館は閉館30分前まで)

 

 

 

三井記念美術館で開催中の「特別展 バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰ーガンダーラから日本へー」展へ行って来ました。


アフガニスタンのバーミヤン遺跡は、ヒンドゥークシュ山脈のただ中にあって、ユーラシア各地の文化が行き交った、文明の十字路とも呼ばれる地域です。

渓谷の崖面には多くの石窟と二体の大仏が彫られ、その周囲には、「太陽神」や「弥勒」の姿が壁画で表現されていました。

 

残念ながら、それらは2001年3月にイスラム原理主義組織・タリバンによって爆破されてしまいましたが、かつて日本の調査隊が撮影した写真や調査資料を詳細に検討することで、壁面の新たな描き起こし図が完成しました。

 

本展では、この新たな描き起こし図の完成を記念してその原図を展示し、壁画に表された太陽神と弥勒の世界に迫っています。

さらに、中央アジアで発展した弥勒信仰が、東アジアへと伝わって多様な展開を遂げる様子を概観することができます。

 

展覧会の構成は以下の通りです。

展示室1 東大仏と太陽神Ⅰ

展示室2 野中寺 弥勒菩薩半跏像

展示室3(如庵) 東大仏と太陽神Ⅱ

展示室3 バーミヤン遺跡の調査記録Ⅰ

展示室4 東西大仏壁画 描き起こし図

    西大仏と弥勒信仰Ⅰーインド①ー

              玄奘三蔵

              西大仏と弥勒信仰Ⅱーインド②ー

展示室5 西大仏と弥勒信仰Ⅲー中国・朝鮮ー

              経典と図像

展示室6 バーミヤン遺跡の調査記録Ⅱ

展示室7 日本の弥勒信仰

 

バーミヤン遺跡は、6世紀頃から交通の要衝となり、多様な人々と文化がこの地に流れ込むことによって、独自の文化が生まれました。

なかでも、渓谷の崖面に掘られた仏教石窟群は圧巻で、崖の東西には高さ38メートルの「東大仏」と55メートルの「西大仏」がそびえ立ち、800近い石窟が掘られていました。

 

《バーミヤン遺跡東大仏龕天井壁画 描き起こし図 宮治昭 監修・正垣雅子 筆》(2022 龍谷ミュージアム)は、かつて日本の調査隊が撮影した大量の壁画写真を、レンズの歪みなどを補正して実物の1/10サイズに合成し、宮治・正垣両名がその図像を検討して描き起こした線図です。

写真ではわかりにくい細部が明確になり、今後の研究にとって極めて重要な作品です。

 

《仏伝浮彫「出城」》(2〜3世紀 半蔵門ミュージアム)は、ストゥーパ(仏塔)の正面に取り付けられた浮彫パネルです。

中央下段が、太子(後の釈迦)が出家して宮殿を去る「出城」の場面で、太子は太陽神・スーリヤのように正面を向きます。

経典に「真夜中に太子が城を出る時、昼間のように光り輝いた」とあることから、太陽神になぞらえた表現がされているのでしょう。

 

《スーリヤ像》(4〜6世紀 龍谷ミュージアム)は、頭部と右腕を欠いていますが、7頭立ての馬車に乗った正面向きの太陽神・スーリヤを表しています。

上半身裸で、首飾り、碗釧を着け、左手で棒状のものを握っています。

前面の半円形区画には、馬を走らせる御者(?)と、葉状の蔓を吐き出すマカラが表されています。

スーリヤが乗る馬車は、グプタ朝期(4〜6世紀)以降、7頭立てが基本となっていきます。

 

弥勒に対する信仰は、すでに2〜3世紀頃のガンダーラ地域(現在のパキスタン北西部からアフガニスタン南東部にかけての地域)において盛んになっていました。

その後、バーミヤンを含む中央アジアで大きく発展し、上生信仰・下生信仰と呼ばれる独自の信仰形態を生み出していきます。

こうした特徴的な弥勒信仰は、東アジアにおいても流行し、バーミヤンを訪れた玄奘を含め、中国の多くの仏僧たちが篤い弥勒信仰を持っていました。

 

《仏伝浮彫「舎利争奪・分配・運搬」》(2〜3世紀 平山郁夫シルクロード美術館)は、釈迦の舎利(遺骨)をめぐる物語を3場面連続で表した浮彫です。

上部では、欄干から天人たちが上半身を現しますが、敷物が掛かった場所の中央に頭髪を束ねた弥勒菩薩がいる点が興味深い。

釈迦の死と未来仏である弥勒の存在を意識した構成と考えられます。

 

《兜率天上の弥勒菩薩像》(2〜3世紀 大阪・四天王寺)は、天蓋下の獅子座に、左手に水瓶を提げる弥勒菩薩が結跏趺坐しています。

柱上では裸形童子が払子を持って讃嘆し、周囲でも多くの人々が弥勒を礼拝しています。

浮彫の形からストゥーパ(仏塔)の正面に設置されたもので、弥勒に対する信仰がガンダーラで大いに流行していたことが推測されます。

 

《菩薩半跏思惟像》(東魏・武定2年 544 台東区立書道博物館)は、大きな頭光を伴い、華麗な冠飾と冠帯を着けた菩薩が台座上の榻座に半跏思惟の姿で坐しています。

細身の体躯で、静かに瞑想にふける様子が端正で、台座背面の銘文から制作年代が判明する点も貴重です。

中国では、こうした半跏思惟像は観音よりも弥勒との関係が深いことが指摘されています。

 

ガンダーラ・中央アジアで発展した弥勒菩薩は、日本にもいち早く伝わりました。

6世紀の仏教伝来の当初から弥勒の存在は重視され、いくつかの古代寺院において弥勒像が重要な尊像として祀られたことが知られています。

なかでも、奈良時代に発展した法相宗の寺院では、ことのほか弥勒信仰が盛んとなりました。

平安時代後期以降も、末法思想の流行に伴って、未来仏である弥勒に対する信仰は一層の高まりを見せ、貞慶や宗性などの弥勒信仰者も多く現れました。

 

《弥勒菩薩半跏像》(白鵬 天智5年 666 大阪・野中寺)は、羽曳野市の野中寺に伝来した金剛像です。

666年に天皇の病に際して誓願した弥勒像であるとの銘が台座に刻まれています。

半跏思惟像が弥勒であると明確に示す古代の作例は極めて少なく貴重です。

造形や青銅の成分からも、像本体はこの時期の日本で制作された可能性が高いと指摘されています。

 

次は曼荼羅です。

上方に春日大社、下半に興福寺を描いた絵画を春日社寺曼荼羅と呼び、《春日社寺曼荼羅》(鎌倉時代 14世紀 奈良・興福寺)では、興福寺の各堂宇をその安置仏で表現しています。

最上段左側が北円堂諸尊で、弥勒仏坐像と両脇侍坐像、無着・世親を配し、二段目の中金堂にも弥勒三尊坐像が描かれます。

三尊は裏箔を施して皆金色で表され、制作は鎌倉後期に遡ります。

 

《阿弥陀三尊弥勒仏来迎図》(南北朝時代 14世紀 京都・誓願寺)は、阿弥陀三尊に弥勒仏を加えた四尊からなる稀有な来迎図です。

後列の二仏はいずれも半跏し左足を踏み下げ、向かって右の弥勒は触地印と施無畏印を結びます。

『法華経』を介して、極楽浄土と兜率天上生を等しく捉える思想が背景にあるのかもしれません。

 

本展は、東西二体の大仏を原点とする太陽神と弥勒の世界に迫り、特に「未来仏」である弥勒信仰の流れを、ガンダーラの彫刻と日本の法隆寺など奈良の古寺をはじめ各所に伝わる仏像、仏画等の名品っでたどっています。

圧巻の弥勒菩薩像を鑑賞してみませんか。


 

 

 


 

 

 

会期:2024年9月14日(土)〜11月12日(火)

会場:三井記念美術館

   〒103-0022 東京都中央区日本橋室町2-1-1三井本館7階

休館日:9月24日(火)、9月30日(月)、10月7日(月)、10月15日(火)、10月21日(月)、10月28日(月)、11月5日(火)

主催:三井記念美術館、読売新聞社

お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)