何度読んだかわからない、漫画の神様手塚治虫先生の「火の鳥」シリーズ。奈良を舞台にした鳳凰編。

毎回、こんな文章あったっけ?このシーンやっと理解できた!が見つかる。私にとって人生で大切な作品です。2冊持ってるほどです。


今回読み返して、気づいたことを簡単に書いておこうと思います。


この鳳凰編には、奈良時代の帝、貴族、豪族、平民、お坊さんたち、盗賊などの悪人、虫が人に化けた者、様々な身分のキャラクターやモブキャラが登場するのですが…完璧なまでに平等に、なんと言うか、ハッピーエンドにならない。救われない、悟れない(一部のキャラクターは悟りますが)、輪廻に囚われ全て決められている、…肯定されないというか、色んなキャラクターが様々な発言、行動を取るのですが、そのほとんどが否定されます。そして、くどいほど人間として生きる輪廻が尊重されます。先生は人間嫌いなのか、人間(生命)賛美なのかわからない。この「嫌い」と「素晴らしい」のバランスが絶妙で、物語の壮大さと絵の素晴らしさ、魅力的なキャラクターを、創作物として一番わかりやすい「漫画」で表現してくるわけです。様々な才能を持った天才が、漫画家になったのが手塚先生ですから、余計わからなくなっているんだと感じます。だから宮崎駿監督に対してもなんでアニメのクリエイターになっちゃったんだよ、余計わからないよ!となります。 真理とはとても単純で、とるに足らないものなのに、気難しくロマンチストな先生たちの手によって、複雑でドラマチックな神話となり、私たち庶民を「悟り」や「真理」から遠ざけている気がします。火の鳥というキャラクターが、メタ的なキャラクター、つまり「永遠」「生命そのもの」「存在感意識」を鳳凰の形に閉じ込め、具現化したものであると理解できたとしても、漫画を読んで悟ることはできないんです。


火の鳥鳳凰編は、本当によく出来ています。ものすごく分かりやすく「人の世(人間の頭の中)はこんな感じ」だよと紹介されています。観念まみれで観念で出来ている、偏った世界だということが漫画でわかります。ただ1ヶ所だけ、言語化できないシーンがあって、ブチという少女が仏像のモデルになる時、緊張で硬直してしまう所があるんです。ここは、とても密教的なんです。すごく不気味で気持ち悪い1コマなんです。(オカルト的な意味で、隠されている情報がいきなりシッポを出したような怖さというか)

無学で無知で無教養、人間的なポジティブな経験をほとんどしたことがない野良猫のような少女ブチの頭の中には、観念や偏った思想や哲学、理屈による判断や対処の知識がほとんどありません。だからこそ、密教の極みである常人離れした技(体現)が可能になった。遣唐使という単語は出てきましたが、鳳凰編で語られるのはクールな宗教批判だけです。


私の中で「慈悲」とは「存在の肯定」なので、火の鳥の中で「慈悲」のあるキャラクターはいませんでした。政治批判、宗教批判、それらに翻弄される群像。ひたすら人間たちを、へし折っていくことで物語を紡いだ感じです。漫画を読んで、心が揺さぶられたり、感情が沸いたり、キャラクターに思い入れをしたり、物語を物語として楽しめた場合、貴方は悟れないと思います。 救いや悟りは強制でも義務でも権利でもありません。人間必修科目ではないのです。


先生の漫画を両手で広げて読む視界に注目してください。何が見えますか? インクが染みた紙の束を持つ、たんぱく質やカルシウムでできた生き物の手腕です。もっとざっくり言えば形状が異なる炭素です。でも私たちは、紙の束の中に壮大なストーリーを息づかせ、自分の腕や手に「自我」や「意味」「主張」を宿して解釈して存在しています。私たちはどこに存在しているのでしょうか。漫画はそれを教えてくれるでしょうか。漫画が読める、内容が理解できる時点で、本来の動物の状態ではないことに気づいてください。「自分という存在」が出現する以前に、意識を戻せたら、世界から出られますよ。外から鳳凰編を読んだら、この作品のわかりやすさ、凄さ、ちょっと不気味なミステリーに気づけるはずです。読書感想が最後は洗脳みたいになっちまいましたね。 夏はポケモンではなく手塚治虫です。