寸鉄90選Ⅳ 風土と原風景(日本) 戦前(日本) 日本の思想
Ⅳ―1 風土と原風景(日本)
11 55 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
☆「閑吟集」真鍋昌弘校注。岩波文庫、p94 3/4
12 「橋は道もなき水の上にも道をなす」
北村季吟、源氏物語湖月抄「夢の浮橋」よりp111
☆「美しいもの」白州正子。角川ソフィア文庫、p111 3/20
13 ○万能一徳の一句あり。此句三ヶ条口伝在 是非初心不可忘。
初心不可忘 時々初心不可忘 老後初心不可忘 此三句 能々口伝可為
☆「世阿弥」白州正子、講談社文芸文庫、p52-3 3/25
◇中学校でクラス担任をしていたずいぶん前のこと、中1のクラスで、生徒 たちに「初心を忘れるな」と学活や学級通信で、一年間くりかえし説いたことがあった。担任した生徒の一人にA君がいた。学力の点で「このまま普通学級では続けられないのでは」と周囲の先生から言われていた。進級してクラスを離れだいぶ経ったある日のことである。「初心を忘れるな、だよね、先生」と声をかけられて、驚きかつ嬉しかった。
格言について知ってはいたが、オリジナルは世阿弥の言葉であるとは、まだ知らないでいた。
14 ○次郎の墓 五輪塔の形をした板碑 次郎 不動明王の種子(梵字)
ついでに私の墓 正子 十一面観音の種子(梵字)p235
◇「葬式無用戒名不要」の次郎にその妻正子は、墓をどう造ったか?
日本の仏教の伝統の圏内にあって好みを出している。「石見の人」鴎外と比較して面白い。
☆「かそけきもの」白州正子、角川ソフィア文庫 4・26
15 原風景
○武蔵野台地が、沖積平野とぶつかった崖の東端にあるのが上野山で、そこから北
へ、日暮里、道灌山、飛鳥山と丘が連なっている。(略)
駒込染井の長池から発した谷戸川が、西ヶ原を経由して、中里、田端、谷中と谷をえぐりながら南下し、根津谷中付近で、その名も藍染川と変わって不忍池にそそいでいた。
この谷にょって、武蔵野台地の先端が、本郷台地と区切られ(略)p22
○本郷台地の稜線上には、中山道、岩槻街道が通じており、はるか先まで市街地が形成された
☞岩槻街道(御成街道) 駒込をへて、霜降橋で谷戸川を渡り、上野、飛鳥山台地へ移って、連丘に沿い、王子へと向かう p3
☆「東京の原風景 都市と田園との交流」川添登、NHKブックス 11・10
Ⅳ―2 戦前(日本)
21 小林秀雄
◎若い頃から、経験を鼻にかけた大人の生態というものに鼻持ちがならず、老人の頑固や偏屈に、経験病の末期症状を見、これに比べれば、青年の向こう見ずの方が、寧ろ狂気から遠い。 「年齢」昭和25/6月 p63
☆「栗の樹」小林秀雄、講談社文芸文庫 5・16
22 柳田国男
◎日本の人間は他の国に較ぶれば、復讐心が強いp29
「柳田国男 山人論集成」大塚英志編、角川ソフィア文庫 12・6
◎日本の文化史を書いた物以外からやろうとすると、最初は苗字と地名とに手をつ
けることになる。P327
「故郷七十年」柳田国男、角川ソフィア文庫 12・7
○「産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけている」間引きの絵馬
→少年期の体験「故郷七十年」 p103
「漂泊と定住と 柳田国男の社会変動論」鶴見和子、ちくま学芸文庫 10・19
23「死の懺悔 或る死刑囚の遺書」古田大次郎 春秋社 4・29
○なぜ人間はもっと愛し合わぬのだろう?なぜ人間は正しく生きようと努めないのだろう?P43 三
○この眠り永わにさめずあれかしと 今日も祈りて床に入るかな。5/18 p196 十三
○樹も空も雲も空気を一様に 黙せる如き夕の静けさ。8/7 p327 二十八
24 「◎戦争が廊下の奥に立っていた」 渡邊白泉 p210
「反戦川柳人鶴昭の獄死」佐高信、集英社新書 8・17
Ⅳ―3 日本の思想
31 ◎日本の政治思想にユートピアを表わしたものがない
←→ 1700年ごろ、ことにフランスでユートピア思想を描いた文獻が
多く出た
▽[書簡]大窪源治あて 1959/15/7 p464-5
☆「日本の兵士と農民」H.ノーマン、全集4,岩波 5・26
32 ◎「人民の自由権利を侵害し、建国の旨趣を奸する時は日本人民は之を撲滅し、新政府を建設することを得」抵抗権:枝盛憲法案 p62
家永三郎『植木枝盛研究』を読む」 鈴木宏之
「さようなら!福沢諭吉」15号 8・15
33 もちろん戦後民主主義を「虚妄」と見るかどうかということは、結局
のところは、経験的に検討される問題ではなく、諸君の価値観にかか
わってくる。・・私自身の選択についていうならば、大日本帝国の「実在」
よりも、戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。 丸山眞男
(64年5月「増補版 現代政治の思想と行動」後記、未來社)
◇きわめて有名な言葉だが、丸山が〈賭け〉という語を用いていること
に注目したい。晩年まで丸山を師と仰いでいた藤田省三が、〈賭け>という
語にみせるこだわりを思い出す。
☆「丸山眞男 八・一五革命序説」松本健一、河出書房新社、p75 2/8
★◎◇日記より 5・16
○藤田省三論断章のキーとなる文章は下記反抗
19世紀の世紀末が世紀末であって、それ以後ずーっと世紀末だという説(略)それへの反抗および表現として出てきた芸術運動その他は全部(略)「賭け事的要素をもったもの」ブレヒトに加え、ベンヤミンもそう。
(「三つの全体主義の時代」1984年2月、『戦後精神の経験Ⅱ』)
34 ○明治の初めに福沢諭吉が日本に「民間公共」の観念及び制度がない点を注意したことがあった。(「帝室論」)(略)「民間公共」の考え方がないこと、従って国家実定法主義にならざるをえない。p267
○戦後的な自然状態の中から社会契約の結成へと向かう一歩が踏み出されていた。(略)その後の民主化運動において自発的集団が群生する過程を通じてようやくかなり一般化してきた社会契約的思考p270
☆ 転向の思想史的研究―その一側面」岩波、藤田省三 4・1
◇第三章 (昭和二十年)を中心とする転向の状況
35 藤田省三
○◎アーレントの「全体主義の起源」は記念碑的書物だ。19世紀の「資本論」、20世紀の「全体主義の起源」といってよいFp28
○藤田(電話で) ◎「自分はやり残したことが二、三ある。その一つは自然哲学について書くことだ。いろいろ準備はしてきたがぼくにはもう書けない。」p29
☆「回想録 わが師たち 藤田省三・古在由重・高杉一郎」同時代社
11・26 太田哲夫著