海援隊の武田鉄矢が生い立ちを語っている記事を読みました。



実家は福岡市博多区の西鉄 雑餉隈駅近くで、母親イクさんをネタにして作った「母に捧げるバラード」が大ヒットして昭和49年には紅白初出場しますが、その後売れない日々が続き翌年の大みそかは奥さんとスナックでアルバイト。

「去年紅白で、今年は皿洗いしてんのか」ってお客さんからイヤミも言われたようです。


その少し前、博多に仕事で帰ったときに珍しく母親に「おら、つまらん(ダメ)かもしれん」って初めて言ったら、酒の燗をつけた母親が徳利を持ってきて勧めてきた。


「鉄矢、乾杯しよう」と言って。

「なぁんもめでたことはなかばい。母ちゃん、東京から帰ってきたら怒らんでくれ。おら、精いっぱいやったばってん、1曲売れたけん、よかろうが」と答えた。


すると母親が「そげな情けない顔しとうけん、お前、貧乏神が取り付いとったい。今から母子うちそろって芝居ばやろう」と言いだします。


どんな芝居かと聞くと「この先いいことばっかりが起こった練習しとこう」。それで母親が「おめでとうございます」と乾杯する。

「ありがとうございます」と半分やけくそ。

すると寝ていたおやじも起きてきて「俺も乗ろう」と。乱暴なおやじでしたが、あの頃はすっかり丸くなって「よかたい、よかたい。お前も正気に戻ったったい」と言いながら。


母親は「今ので厄払いしたから貧乏神も取り付き甲斐がない奴だって離れていったはずだ」とゲタゲタ笑ってる。

父ちゃんが眠ったあと、「帰ってくんな。もう少し頑張れ」と。


どん底の時に声をかけてくれたのが谷村新司。小さな事務所はアリスがエース級で、やしきたかじん、高山厳、岸田敏志、バンバンといった連中がいて、その中に海援隊も紛れ込み必死になってやっていたそうです。


そうこうしているうちに、山田洋次監督の「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」の話が舞い込んだ。


昭和52年5月、「花田欽也」役としてロケが始まり、スタートは北海道の釧路。

主役の高倉健の最初のカットは網走駅前のラーメン屋。刑務所から出てきた人はラーメンとかつ丼がものすごく食べたいらしくて、その役の健さんは朝食と前夜の夕食を抜いて臨んだそうです。


映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」で成功すると、テレビドラマの出演依頼が相次いだそうで、母親イクさんの貧乏神の厄祓いで憑き物が落ちたように運気も上向いていったようです!(笑)