全国で生誕・没後400年祭などが行なわれる中、鹿児島県伊佐市でも新納忠元の400年祭が開かれてるそうです。
今後は集められた寄付金で新納忠元の像も予定しているらしいのでかなり楽しみです!!
新納忠元(1526~1610年)は島津家の重臣。島津忠良・貴久・義久・義弘・家久に仕えた白髭のカッコイイ「鬼武蔵」として有名な人物。
新納忠元と言えば、大口(現伊佐市)の地頭を歴任し、天正12年(1584年)の沖田畷の合戦においては、龍造寺隆信の本陣に部隊を突入させて、大いに奮戦。大友攻めでは島津義弘もとで転戦しています。
鹿児島の方に知り合いがいないので実際のところは分かりませんが、私のイメージではこの方こそ薩摩人という感じです^^
天正15年(1587年)、羽柴秀吉の九州討伐の際には、秀吉も一目置いたとされ、忠元けん制のために大口曽木に秀吉が築いた一夜城「関白陣」も有名。忠元も補給路が伸びきっている秀吉軍に勝機を見出し、徹底抗戦の構えを見せておりますが、島津義久が降伏を決めたので、やむなく降伏し秀吉に謁見したという。
降伏の際には剃髪・入道して拙斎と号し、秀吉と謁見。
まだ敵対するかの秀吉の問いに対して、「主君(家久)が立ち上がるなら何度でも敵対する。しかし主君降伏した以上、安心されてよい」と秀吉に語ったとされております。
知行は大口の木之氏村一村のみでよいとし,秀吉の取立てにも応じなかった清廉の士です。
ちなみに戸次川の戦いの際に長宗我部信親を討ち取ったのもこの忠元の部隊。鈴木内膳です^^
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際には、老齢であった事もあり留守を預かり、関ヶ原際の際にも留守役ではあったが一族の者としては新納旅庵が関ヶ原に参戦している。
朝鮮出兵の際にも義弘や家久の心の支えともなっていたのか、文禄4年(1595年)には朝鮮の地より家久が忠元宛てに書を送り、義久の補佐を依頼している。また義弘も度々朝鮮から忠元に返歌を与えたことが知られております。
慶長15年(1510年)忠元は危篤状態となり、危篤の報を聞いた義久・義弘・家久らはそれぞれ神棚に灯明を点じて忠元の平癒を祈ったとされています。島津家を支え続け、85歳でなくなっております。
新納氏の家紋は



