おはようございます!
前回、母親がもしかしたら俗に言う【毒親】寄りの人で、私は自分の意見を持つことから逃げ、人任せになった結果、旦那依存に繋がったのかなぁという考察をしました。
今日は父親に対しての記憶を書こうと思います。
父親のことも過去に記事にしている通り、私の20歳の誕生日に出て行きましたが、それまで何不自由ない生活をさせてもらいました。
私は割とパパっ子だったと聞いており、仲良しでしたが、母親は父親のことを割と悪く言っておりました。
・結婚して子供産まれてからも土日は趣味の野球で家にいなかった
・今で言うワンオペやった
・義母との仲裁にも入ってくれたことはない
・お金はあったけど、次は絶対結婚したくない
父親は社長なので接待も多めで、出張や外泊も多かったです。
母親は不満が溜まっていたのでしょうね。
母親と姉がいたので寂しいという感情はあまりなかったと思いますが、やはり嫌だったのは、
父親と母親の喧嘩です。
誰でも同じだと思いますが、親の喧嘩は見るのは嫌ですよね。
記憶では小学生くらいの時から頻繁にありました。今でも光景を想い出せます。
最後の方は関係も冷め切っていました。
(明確な時期はわかりませんが、父親は浮気相手と婚外子をつくり、母親には離婚を迫り、押し切るように出て行って、しばらく経って離婚になり、今は新しい家族と生活しています。)
父親から母親への離婚宣告の仕方は、旦那とどこか似ている気もします。
・これから自分だけのためにお金を使いたい。
・残りの人生自分のためだけに時間を使いたい。
・家も渡す。
・子供たちには不自由させないだけのお金をわたす。
・お前の節約思考が嫌だった
・こんなに稼いでるのに晩御飯に冷奴がでるのが惨めで腹立った
などなど
父親は旦那とは違いお金をきちんと残して去ろうとしてくれていましたが、浮気のことは一切触れず、結果離婚に至りました。
(母親は浮気の事実に今も気づいていません。)
父親も最後の方は豹変したかのように母親に暴言を吐いていたのを覚えています。
私はその頃部活で忙しく、父親が出て行った日も部活でした。
母親からは
「娘が止めたら変わったかもしれないのに、止めてもくれなかった。」
「あんたは部活を理由に、仲裁から逃げて間に入ってくれなかった。」
と今でも責められることがあります。
私にとって優しい時の父親を忘れられず、旦那に対して父親のように甘えていたのかなぁと思う自覚はあります。。
そして、父親の時と同じことはしたくないと思っていたはずなのに、当たり前に気づけず、結果また家族を一人失おうとしている状態です。。