パソコン30数年前からの自分の物語を写し書いています。今現在の事ではありませんまじかるクラウン

 

 首藤さんから手紙が来ました。

「教会に戻ってこられませんか?みんなあなたが戻られる日をお待ちしています。今度は貴方が人々を助ける番です。」

というお優しいお誘いのお手紙でした。  

 「こんな私を気に掛けて下さり」と、丁寧にお礼のお手紙を差し上げました。

 でも、心の底では私はこの人を好きではないのだと思う。その理由は、今の私を肯定しないから。いつまでも過去の悲しみにこだわっていると思われているから。他の若い人達のように、教会の為に奉仕しないと思われているから。

 クリスチャンである以上、教会に行かなければならないと思っています。でも、今の牧師に変わってからどうしても御言葉が聞こえてこない。牧師の実際の言動と教壇の上からの説教を聞いていると心の中で白けて行くのです。

 この私の考えが間違っているのはよく知っています。私達信者は人間牧師にではなく、その御言葉に耳を傾けるべきなのです。

 みんなそうできている。でも私には出来ない。信仰の事はあの人にだけは相談できないと思ってしまうのです。

 けれど…、それも本当は建前で、本心を赤裸々に書けばそんなことじゃない。

 私はあの日以来、私以外のほとんどの人間を軽蔑しているのです。教会で言えばもちろん裏表のある牧師も、生ぬるい信徒達も、世間の多くの人達を軽蔑している。

 ある優しい思慮深い兄弟(信徒)が言っていました。

「自分は愚かな人間だけど、つい傲慢になってしまって人を見下してしまう。でもよく考えればその他人と自分にどれだけの差あるのか。たかが人間。みんな同じじゃないか。自分の方がずっとつまらないかも知れない。」

私はその人に言いました。

「私は全く逆です。少なくとも今、私の身近にいる満たされた人達より、私は上だと思っています。それがすごく傲慢な事だとは知っているけれどやっぱり、そうとしか思えない。」

 すると謙虚な友人は、そんな私の高慢さも否定しないのです。私の思いを大切にしてくれる。

 私はその人のそんな謙虚さが心から羨ましくて、心から憎んでしまう。

 私には絶対に持てない感情。どうすればあの様に達観できるのだろう…。

 けれど先日ある同人誌で彼の作品を読んで納得しました。

 彼には地位も名誉もお金もないけれど、愛する家族があるのです。これでいいんだと思える「ささやかな人生」を生きられている。私には許されなかったものをあの人は持っている。もちろんこれから先何が待っているかはわからない。でも、少なくとも今は納得できる人生を与えられている。

 私はどうだ。私の場合だって衣食住は満たされ、五体満足なのだから幸せなのです。

 でもそれは・・・、「哀しいけれど幸せ」と言うことで、「ささやかな幸せ」とは違う。

 その差が、今の私を作り出してしまう。