パソコン30数年前からの自分の物語を写し書いています。今現在の事ではありませんふんわりリボン

 

  昨日、暖かな陽ざしに誘われて、母と姉と○○神社に行ってみました。

  ここは幼い頃から初詣、お花見、小学校の遠足と何度も訪れては遊んでいた親しい神社でした。本殿の前に立つと教えられたとおりに小さな手を合わせてお祈りをしたものです。

 そして何よりここは、父が生前、毎朝この境内に続く長い階段を駆け上がっては、家族の幸せを祈る事を日課にしていた神社でした。

 その「神」に見捨てられたのだと思っていた私達は、今日までその場所を忌み嫌っていました。でも8年の歳月の流れは、やはり人の心も流していくようで、今日、ようやくその場所に行く事ができたのです。

 日本中どこもかしこもですが、私にも故郷と呼べる風景が残っていません。幼い頃遊んでいた畑も、空き地も、川も、海も何もかもが埋め立てられ、灰色の配色で統一されて行きました。

 けれどこの神社の周辺は、ここだけ破壊する事を忘れてしまったかのように幼い頃の景色がそっくりそのまま取り残されていまた。

 空から見ればほんの小さな世界でも、その中に足を踏み入れ、苔むした地面を一歩一歩、踏みしめるように歩いていると、土くれの呼吸が多くの命を育んでいる事を教えてくれるようです。その足をすっぽりと包み込んでくれるような靴底の柔らかさに、何とも言えない懐かしさを感じながら、森の中に目を向けました

 今、急いで植えられたお粗末な樹木等は何処にもなく、あの頃、共に遊んだ木々たちがその場所で、そのまま動くことなく大きく成長して私達を見下ろしていました。

 あの時には気が付かなかった、木々に降り注ぐ太陽の光線の当たり具合も、長い階段を上る時に耳にする葉音も、鳥の囀りも、私達を浮かび上がらせる黒い影も、きっとあの時と一ミリもずれていない。

 どの方向に視線を投げてもあの頃の私と姉や父母の姿が目に浮かびます。それはとても自然に夕日の中に溶け込んでいく。

 長い階段を上り詰めて、大きな息をしながら振向いた私は、頬にかすめた風の臭いと、金色に煌めく緑の葉が絡み合うその中に、父が駆けあがってくる姿を探して、しばらく立ち止まっていました。

 姉がそんな私の手をそっと握ってくれました。

 小さなため息をつきながら、鳥居をくぐり本殿に向かって歩いて行くと、やわらかな蕾を付けた桜の木に沢山の白い紙が結び付けられていました。

 風雨にさらされたこの何百枚もの紙には、結びつけた人々の小さな願いが込められています。

 けれど、この願いのほとんどは結び終えてその手を放したと同時に忘れてしまうほどの願いで、本人にとっては叶っても叶えられなくても、そう人生において大した転機にはならない事も私は知っています。

 この白い紙の中の一枚は、まさしく私が八年前に同じ様な気持で、幸せに満たされた腕を伸ばして結んだものに違いないからです。

 「天の御言葉」、「神様の御手の中で」、「ただ信仰により希望が」…。

 その文字は、誰の心も揺らさないまま、白い紙の上でヒラヒラと春風に揺れていました。