30数年前からの自分の物語を写し書いています。今現在の事ではありません。

 

 一昨日(1991年3月14日)広島で工事中の橋げた崩れると言う大事故が起こりました。14人の方が犠牲になりました。

 私達は、そのニュース画像に一瞬手を止めて見入るのですが、直ぐその後には普通の日常に戻ることができます。けれど、残されたご遺族の方々の人生は、もう決してその日常を手に入れる事はできません。今、その時を境に、無理やりねじをねじ切られるようにして、方向転換させられるのです。

 それは戦争であれ、事故であれ、自死であれ、災害であれ、病死であれ、同じことだと思います。

 そこを通ったばかりに、そこに居合わせたばかりに、他の生き方を選べなかったばかりに、平凡に暮らせたはずの毎日を奪われるのだと思います。

 誰だって不幸には見舞われたくない。誰だって家内安全、無病息災を願って暮らしている。でも、そこに人間の切ない願いと創造主の御心との間に大きな矛盾が生じる気がするのです。

 何故なら、やはりそれがなければ見えないものがあるから。それがなければ、必死に、とことん求められない道があるから。それがなければ開かない扉があるから。

 人間は有限の「時」にだけに思いを馳せる。でも、創造主(宇宙)には有限も無限もない。すべての上に構想を持つ。

 

 そんな思いに駆られている時に丁度、立花隆さんの「臨死体験レポート」をテレビで見ました。

 8年前のあの日から、死後の行方を捜し続けている私には衝撃的な内容でした。