それから私達は、日之枝城から4k離れた原城に向かいました。ここも原城跡と言う石碑が立っていますが、城壁が残っている訳ではありません。島原の乱の後、幕府が残存する石類などを徹底的に破却したからです。
「原城」は、松倉重正が1624年に手狭だった「日之江城」から「島原城」を建設した折、一国一城令にならって、「日之江城」ともに廃城にしたそうです。
その「島原城」を造る時に重正が苛斂誅求をした事と厳しいキリスタン弾圧から、一揆が勃発しました。天草からも沢山のキリスタンが海峡を渡り、天草四郎で有名な「島原の乱」にまで発展したのです。
それは日本の歴史上最大の一揆で3万7千人もの人が廃城だったこの「原城」に籠城しました。
3カ月たっても城は陥落せず、幕府側の失った兵は数千人にも及び、焦った幕府は、老若男女問わず、幼子に至るまでことごとく虐殺しました。
最後はオランダの力まで借りてようやく城が落ちたといいます。
今、ネットで調べてみると、私達が訪れた2年後の1992年から発掘調査が開始されたと書かれていました。
発掘された人骨はどれもバラバラで首と胴や腕が繋がっているものは一体もなかったそうです。
骨は石垣の下で固まって発見されるものが多く、その上には例外なく巨石がある。つまり遺体を集めて石垣から落とし、その上に城壁の石を落とし、土をかぶせたと思われるそうです。
その側から、銃弾を溶かして作った、粗末なクルスやロザリオもたくさん発掘されました。
三万七千人の人たちは飢えに耐えながらも、このクルスを握りしめて暗闇の中で祈りをささげていたのでしょうか。
けれど今ここには、城を焼き尽くす赤黒い炎も、その雄たけびも、「ハライソへ参ろう」と歌いながら、銃弾に立ち向かっていく少年も老人も、火が付いたように泣き叫ぶ赤ん坊の声も、幼子と共に膝をついて祈る母親の姿もありません。
松尾芭蕉の俳句に「つわものどもが夢の跡」という有名な句がありますが、ここに籠城した人々の中に、この世の栄達を夢見て戦った人は一人もいなかったでしょう。
見えていたのはキリスト、ただその人だけ。
死を殉教として喜んで迎え打つ姿は、幕府の兵達にはきっと、魔物に憑りつかれた者に見えたのではないか。
頭から血を流しても、腕をたたっ切られても倒れない。
殺しても、殺しても起き上がってくる化け物のようだった。
だから戦いが終わったその「夢の跡」には、しばらく誰も近づけなかったのではないでしょうか。
「あそこに行けば、足を引っ張られて海に連れ込まれると言うぞ」と言うささやきが、そこら中に広がったかも知れません。
城を焼き尽くした時と同じ炎の色で染まる逢魔が時には、何百、何千の烏が来る日も来る日も集まって来た。
カラス達は、焼けただれた廃墟を見下ろしながら、その上をぐるぐる、ぐるぐる回り続ける。
あたりは耳を覆いたくなるほどのカラスの鳴き声で埋め尽くされる。それはまるであの日の惨劇を思い起こさせるほどの激しさで、異様に叫び続ける。
やがて空中の渦巻きから、バラバラと地上に降りてきた黒い影達は、破壊尽された巨石の上に一列にならぶ。
立ち枯れた木の枝にとまって、じっと下を見下ろしている。
その黒い切り絵のような大きな影が、赤黒く沈んで行く廃墟に無数に張りついている。
まるで死んで行った信徒の魂のように。
やがて夜のとばりが降りてくると、烏たちは、巨石の下に潰されたシャレコウベたちと共に闇の中に溶け込んでいく。