歯茎を切開して抜くとは聞いていましたが、まさか親知らずくらいで、こんなひどい目に会うとは想像できませんでした。部分麻酔なので目隠しはされていましたが、手術中の状況はよくわかります。周囲の会話ももちろん聞こえます。

「これ、抜けないな。」と担当医が言っています。

「だめだ。」もう一人の医師が来てのぞいているようです。

「ああ、根が横に食い込んでるな。深いな…。」

「顎の骨、削るしかないかな。」

大きな金槌のようなもので、ガンガン叩きます。ドリル音も響きます。頭が近いので、そのまま脳みそまで叩き割れそうな震動です。

「ああ、抜けない。どうしようか。」

と言われるうちに、麻酔が切れたのか何とも言えない鈍痛が増してきました。もう、一時間以上口を開けたままです。このまま麻酔が切れたらどうなるのだろう。

ずきずき痛む頭の中は不安と恐怖で大パニックになっていました。どうしてこんな目に会わなければいけないのかと、痛みで自然と涙が頬に伝わり、ただただ後悔しました。

もう限界だ、もう我慢できないと思っていた時、やっと手術も終わって病室に戻ることが出来ました。

看護師さんが「痛むかも知れませんので、決められた時間に沈痛剤を飲んでください。今晩は出血が続くと思いますが、うがいはしないで、このガーゼを取り換えてください。」と説明される内容を必死に記憶しました。腕には抗生物質の点滴の管がつけられたままでした。

その通り出血は続き、すぐにガーゼは真っ赤になるし、しかも鈍痛は薬を飲んでもよくならず少しずつ増していくようです。私は生理痛が酷く、毎月鎮痛剤や痛み止めの注射で治めて来たので、人より薬が効かないのかも知れません。

消灯後はただもう、痛みとだけ向き合っていました。

午前零時もとうに過ぎた頃、もう少し我慢しよう、もう少しと思いながらも耐えられなくなって、廊下の手すりを伝わってナースステーションを目指しました。

遠く廊下に漏れ出るナースステーションの灯りが灯台の灯りにすら見えます。ようやく辿り着いて痛みを訴えると

「薬は決められた時間以外には飲めません。」

と冷たい一言。

ナースコールを使うのは申し訳ないと思ってここまで来たのに、もう少し気の利いた慰めは言えないものかと思いました。また、這うようにして病室に戻りました。それから一晩中うなっては真っ赤なガーゼを取り換えました。

でもそんな痛みの中で、いつの頃か頭の中は寛之さんの存在で一杯になっていきました。あの人をしっかりと感じるのです。

翌朝、自分の顔を見てビックリしました。顔が風船の様にパンパンに腫れています。頬っぺたの中に眼も鼻も口ももぐりこんでしまっています。

母と姉がお見舞いに来てくれました。

「そんなに腫れて、大丈夫なの?こんなことになるなんて。」

とあまりの私の顔の変貌に驚いています。

「うん。昨晩は大変だったけど、今は少し落ち着いた。でもね、お母さん。不思議な事があってね。痛くて痛くてどうしようもなかった時、寛之さんをすぐ近くに感じた。本当にそこにいた気がした。」

母は、私の額の髪をかき分けながら言いました。

「また、戻っても仕方ないでしょう。」

母が静かに言ったその言葉が私の中で広がっていきます。「戻っても仕方ない」そうでしょうか。生きていればあの人の事を思ってもおかしくなくて、死んだから思ったら変だとか。どこかが違う。言葉ではよく表せないけれど、あの人と私の間に生きているとか死んでいるとか関係ない気がするのです。

もう、他の人を思う事はやめよう。私はこれでいいのだと思います。私には私の舞台があるのです。私の演ずる役がある。役者は偽善者でも欺瞞にみちた汚れ役でも、与えられた役をただ演じ切ればいい。今はそう思います。

 

 ―あなた方は自分の持っている確信を放棄してはならない。

その確信は大きな報いが伴っている。

神の御旨を行って、約束の物受ける為にあなたがたに必要なものは忍耐である。-へブル1035-36