やっと仕事が終われば、またいつもの様に亡者のような顔をして家路を辿る毎日でした。

その頃の私の脳内のシナプスは、いったいどんな電気信号に支配されていたのでしょうか。毎日、何をしている時でも、それは突然にあの人の赤い車が目の前で落ちていくのです。

あのガードレールの隙間をぬってジャンプした後、真っ逆様にひっくり返って落ちていく。その映像が頭の中で何度も何度も繰り返される。まるでもう一つの別世界をたった今目撃しているかのようにはっきりと見える。私はその度に空しく手を宙にかかげて「ちょっと待って!ちょっと待ってください。その車を止めて。そこを通らないで!」と首を振り、泣き叫び、頭を抱えるのです。

そしてその映像は決まって、病院の集中治療室に変わっていきます。父の体に馬乗りになった看護婦達。激しい人口呼吸で肋骨を折られ、口から血を滴らせて死んでいった苦痛に歪んだ父の顔。

その日も、そうやって長い間泣き叫んでいました。母も姉もそんな私をどうする事もできずに、いつも遠くで見守っているだけでした。

泣き声は鳴咽に変わり、引きつり、しゃっくりになり、息もできなくなった時、ふと視線をテーブルに移すと父が勤めていた放送局から社報が届いていました。まだ封も開けていません。それは生前から毎月届いていたものでしたが、関心も無かった私はほとんど見たこともありませんでした。けれどその時は、しゃっくりを上げながら封を切りました。

父が開局以来いつも携わって来た○○山のテレビ送信所の写真がトップに掲載されていました。ぼんやりとページをめくると、迎春、新年、年頭の挨拶等の言葉が瞼の外を通り過ぎます。

溜め息をついて社報を閉じて、後ろの紙面を目にした私の瞳が釘付けになりました。そこには大きく『深町達也氏逝く 』の見出しと共に父の写真と 父の経歴等を書いた記事が載せられ『謹んでご冥福をお祈りいたします』と結ばれていました。

私の回りで時が一瞬だけ止まりました。

そしてその後私の心臓は一気に炸裂し、その社報を放り投げて叫びました。

「どうして!どうして私のお父さんがここに載るの!どうして他の人じゃなくて、私のお父さんがこんな所に載るの?冥福なんかお祈りされるの?昨日まで元気だったのに。出張に行かなかったら、今もここ、この場所にいるのに!」

何処にもぶつけ様もない怒りと悲しみが吹き出しました。畳をかきむしり、拳を振り上げて泣いたのです。泣いて、泣いて、泣いて、頭の中が腐るほど泣いて、自分が哀れで、自分がみじめで、自分がかわいそうで泣き続けました。治まっていたしゃっくりが、もっとひどくなり、引き付けを起こして息を吐く事もできなくなりました。

その時でした。涙で潰れた目で前を見ると、父と彼がそこに立っていました…。

私は、口をぽかんと開けたまま見詰めました。

二人…立っています。

父が向かって左、その少し後ろの右側に寛之さんが立っています。

スーツを着ています。

白い光線が後ろから眩しく二人を照らして、逆光になり顔が朧気にしか見えません。でも、姿形は紛れもなく父と彼でした。私は魂を抜かれた者の様に茫然と見詰め続けました。瞬きもしゃっくりも忘れて見つめ続けました。

泣き叫ぶ私とは対称的に、二人はとても穏やかに優しく笑ってます。

父が言いました。それは柔らかくて暖かな丸い毛糸の玉のような、あの懐かしい父の話し方でした。

「沙織ちゃん…。今は悲しいだろうけど、本当は沙織ちゃんほど幸せな人はいないよ。沙織ちゃんはね、世界中で一番幸せな人よ。」

私は驚いた子犬が首を傾げて主人を見上げるように父の話を聞いていました。

「人間の最大の弱点はなんだと思う?それは『孤独』。別れも 、老いも、病も、死も、人間がそれを恐れるのは、その根底に孤独への恐怖があるから。どんなにお金や力があっても人間はその孤独にだけは耐えられない。どんなに幸せそうに見える人でも、孤独への恐れはいつでも付き纏っている。今の時代、外国で一人離れて暮らしても、電話をすれば繋がると言うけれど、それは物質的な幻想でその電話を切れば途切れてしまう。でも沙織ちゃんは違う。これから一生、その『孤独』に怯えることはない。これから、いつでも、どんな時でも、何処にいても、私や寛之君が一緒にいるから、一生孤独になることはない。沙織ちゃんは、その人間の最大の弱点を克服している。何にも怯えるも事なく生きて行ける。だから 沙織ちゃんほど幸せな人はいない。今は分からないかも知れないけどいつか解る時も来る。だから焦らないでゆっくりいきなさい。どんな時でも私たちが一緒にいるから。」

父はいつものように、とてもわかりやすく丁寧に教えてく れました。寛之さんはその後ろで黙って微笑んでいました。

私は眩しい光の前に立っている二人を目を細めて見詰めていました。

私の集中力が途絶えたのか、やがて二人は見えなくなりました。