殴られたという右の頬と目が腫れていました。
「沙織ちゃんの方がずっと大変で悲しいのに、心配かけてごめんね。」と泣いて謝る姉を見て、
(死のう…、もう、死のう。みんなでお父さん達の所へいこう)と思いました。
父と言う大黒柱を失った我が家は、土崩瓦解。大切にしてきたものが、一つ崩れ、二つ崩れ、姉の未来まで崩れされば、もう守るべきものは何一つ残っていない。ここが奈落の底です。この世で欲しい物なんてもう何もない。この世にかけらの未練も残っていない。全て父と共に消えてしまった。残っているのは、私達の抜け殻だけ。もう、こんな所にいなくてもいい。お父さん達も「早くおいで」と手招きしている。もう旅立ってもいい。
それは自然の成り行きです。土砂崩れに合えば人は死んでしまいます。私達は運命の土石流に襲われたのです。それで自らの命を絶ったとしても、それも自然死です。
人は脆弱だと眉をひそめるのでしょう。以前の私も「死んだつもりになれば何だって出来る。」と思っていました。でも、それは生きたがっている時の話しでした。死にたがっている人が、死んだつもりになれば、喜んで死にます。
私は皆で死ねる方法を真剣に考えました。睡眠薬、ガス、溺死、縊死、轢死、転落死…。
そのころ悪夢によくうなされました。恐ろしい人達から追いかけられて、断崖まで来た時、真下を見ると目の眩む高さで、遠くの岩にぶつかった波が白い飛沫をあげていました。この先に道はありません。私は意を決して飛んだのです。その瞬間、頭の上に何百トンもの巨大な岩が落ちてきた様な衝撃を感じました。 その衝撃が酷くリアルで、今でもよく覚えています。転落死はきっとあんな感じなのだと思いました。
海の中で死んだ事もあります。十m以上ある壁のような大津波が迫ってきて、高台へ必死に逃げたのですが飲み込まれました。波の中で何もかも一色単になったのに、私の意識だけがそれに同化できない。海の水は四方八方から私に迫り、私の中に侵入し 、押し潰しにかかる。そんな中でたった一人、声すら奪われ苦しみもがいていました。激しい孤独を感じました。気が付くと私は海底をふわりふわりと歩いていました。抵抗しなければ水の中は、考えていたほど苦しくありませんでした。溺死も案外いいのかもしれない。
けれど、その頃の私は、来る日も、来る日も、彼からもらったウサギの縫いぐるみを抱き締めたまま、泣き暮らしていたので、たとえ自殺するためにしても、積極的に思索して行動すると言うことは至難の技でした。体が動かない。頭も働かない。もっと、そのままで、ひっそりと心臓が止まる方法…。
ある日、新聞の見出しに『老人が餓死自殺』と書いてあるのを目にしました。餓死自殺…。ああ、どうしてこれに気が付かなかったんだろう。これこそが自然死です。
食欲は生きるための本能です。生きる希望を失ったものには、食べるという行為は拷間のような屈辱でしかありません。その頃私達は、一合のお米を三人で食べるのに何日もかかりました。味覚はとうに失われ、唾液さえ全く出ません。お茶でむりに飲み込んでも、喉にはりついたまま落ちてくれません。虚ろな目をして一言の会話もないままただ口を動かします。生きたくもないのに咀噌する、この一噛み一噛みが、まるで恥辱を受けているような気がしてきます。
それを食べなければいい。それだけの話しでした。
そんな大変な時期に、今度は職場での配置転換を言い渡されました。
私は大手の建設会社の営業所勤務でした。主な仕事は受付と事務です。今でこそ「セクハラ」になりますが、三十数年前の女子社員の謳い文句は 『職場の花』です。男性の機嫌をとって、ニコニコ笑っている事も大事な仕事の一つです。それなのに泣き腫らした暗い顔をした私の存在は、目障りでしかなかったのだと思います。
「もう、ここには来なくてもいい。今日からデパートの新築工事現場に行きなさい。向こうの工事長に話はしてあるから。」
と氷より冷たい視線で、掃き捨てるように命令されました
「新しい所で心機一転働いたほうがあなたのためにもいいでしょう。これはあなたの為を思って決めた事です。」
想像もしていなかった移動でした。そこに行けば、また仕事内容はもちろん、回りの人間関係も全て変ってしまいます。こんな時期に新たな人達に接し、全く違う仕事を覚えなければならない事は、考えただけでも私には耐えられませんでした。ぎりぎりで生きている今の私には、小石のようなものでも、岩よりも大きな障害物になります。今、新たな自分を開拓していく力はどこにも 残っていませんでした。
明らかに私の辞表を狙っての移動を私の為だと言った上司の欺瞞を憎みました。
ここでも「死ねよ」と言われている気がしました。
仕事は工事現場ですから女性職員は私一人でした。何十人もの男性の中に混じって、現場の事務から、設計事務所の雑務、得意先から職人さんの世話まで目の回る忙しさです。そんな忙しさの中でも片時も悲しみは薄れませんでした。忙しさで紛れるような悲しみではなかったからです。
私の体は筒のような空洞となり、その中を激しい嵐が始終吹き抜けていました。よく工事現場の八階から、
「ここから飛び下りたら死ねるな…。」
と下を見詰めました。まだむき出しのコンクリー卜の殺伐とした壁の風合いが、私に相応しいと思いました。
「死ぬのならここにしよう」と決めました。現場から死人を出すことは、せめてもの心ない上司に対する復讐にもなるからでした。