お正月も終われば、世間では新たな年を迎えてのすがすがしい 仕事初めです。

日本中の人、世界中の人、誰も彼も「おめでとう」「おめでとう」と口を開きます。両腕を生きたまま引き千切られた様な私は、その日から拳を握り締めたまま口を緩めることを覚えました。

私は彼のいない「新世界」に初めて足を踏み入れた時、ある現象に戸惑いました。

出勤途中のバスの中の人、街頭を足速に行き交う人、会社の中の人、どんな人の顔を見てもその人が棺桶の中に寝ている姿が見えてしまうのです。慌てて首を振って視線を逸らして他の人を見ても、みんなやっぱり棺桶に寝ている。

大声で笑っている人も、お弁当を食べている人も、偉そうに部下を叱り付けている人も、一様に目を閉じて、白い衣装を身に纏い静かに棺桶に納まっている。今私と話している人に「あなたが棺桶に寝ている姿が見える」などと言ったら、きっと眉をしかめるでしょう。でも私には、はっきりとその姿が目に浮かぶのです。

そんな私がまだ入社したばかりの職場で、どんな仕事ができていたのかよく覚えていません。泣き腫らした顔で受付けの席に座り、お客さんを前にして返答をしなければならない事がとても苦痛でした。

長い一日が終り仕事からやっと解放され、更衣室から逃げるように外に飛び出した途端、また涙が溢れ出ます。寒さも感じずコートを手に持ったまま、とぼとぼと町の中を歩いていると、よく若い男の人から「大丈夫ですか?」と声を掛けられました。私はハッとして目を上げます。

当時、若い男性を見るのが張り裂けるほど辛かったのです。(どうしてこの人は生きているのに、あの人は死んでるの?)と見詰めてしまうのです。男性は私の涙に驚いて見返します。私はますます泣き顔になって「すみません。」と走って逃げました。

通りの激ししい国道で信号待ちをしている時、車が向こうから 飛び込んできてくれる事を心底願って、吸い込まれるような気持ちで歩道の際に立っていると「バカヤロー !」と車の中から怒鳴られました。

人波に押されてようやくバス停に辿り着き、バスを待ちます。

バスが来てもわざと何台かは乗り過ごして、それでも行く当てのない私はバスに乗るしかありません。空っぽになった私の肉体だけをバスが揺らしながら運んでいきます。芯から疲れた体を座席に預け、頬杖をついてうす暗くなった車窓を眺めていると、父が開局以来通い続けた放送局の電波塔から、赤い光が点滅しているのが見えました。あの日も、父はこの電波を送るために出張に行ったのだと力なく眺めていると、自転車に乗った帰宅途中の父がバスの中の私に気が付いて、自転車のベルを鳴しながら、右手を高く揚げている幻を見た気がしました。私は唇を噛んで目を逸らします。

やがてバスが停留所に着きました。数人の人に紛れて横断報道を渡ると、彼が転勤するまで四年間勤めていた銀行がそこにあります。まだ明か明かと電気が灯っています。みんないつもと変わらず忙しく働いているのです。その中にあの人の姿を見ます。右側の融資の席に座って仕事をしています。私が銀行に行った時、すぐに気が付いて窓口に来てくれた時の笑顔が浮かんできます。私の目に、また涙が溢れて前が見えなくなります。(あの人だけが、いない…)

そうやってバス停から家まで僅か二百メートルの距離を夢遊病者のようにふらふら漂い歩き、二十分も三十分もかけてようやく 家に辿り着きます。

家も、会社も、通勤途中も、何処にも私の居場所がありませんでした。何処にもあの人達がいないからです。何処にも私が生きていくはずだった「世界」がなかったからです。

「生きる事…」私にはその方法すら分からなくなっていました。

一歩足を前に出す事、一本の指を動かす事、視線を上げる事、声を発する事、咀曙する事、飲み込む事、そんな「生きる」ための日常の基本動作の一つ一つが、ぎこちなく不自然な事をむりやりしているような、底無し沼で喘いでいるような、重苦しさがありました。ただ、ただ、理由もわからぬまま、何かをぐっと我慢していました。

そんな私にとって「死」はとても身近に感じられました。それはもはや観念の世界ではなく、手を伸ばせば直ぐに私の手を握り返してくれるような親しみを覚えました。

「死」にこそ希望を見出だせる。

「死」だけが私を慰めてくれる。喜んで迎えてくれる。

「死」は安逸を保証してくれます。私と「死」との境界線は消滅していました。例え死が無の世界でもいい。この記憶さえ抹殺して貰えるのなら、私は安らかに眠ることができる。

そんな時、姉が広島から帰ってきました。義兄の暴力に耐えれなくなったのです。