この県道は、彼があの時電話で言っていたように広い綺麗な道でした。
彼が運転し始めてこの場所に来るまでは、なだらかな坂道が続き両脇にはのどかな田畑が広がっています。そしてこの事故現場の後も、同じように和やかな景色が続きます。
ただ、ここ、この場所だけが、まるで彼の死に場所をむりやり用意した落とし穴のように、風景が差替えられています。
両脇を山肌の雑木林に挟まれているため、陽はもちろん、滅多に風も通しません。降った雨は何日も何ヶ月もその場所に立ち止まり、落ち葉は水溜まりに身を静めたまま苔むして行きます。雪が降れば、冷たく固い氷を造るでしょう。
彼が通ったその晩も、昨日の雪を厚い氷りに変えて、ひっそりと獲物が罠に掛かるのを待っていたのです。
なだらかな坂道を上ってこの場所まで来た時、突然氷りにハンドルを取られて、慌ててエンジンブレーキを利かせると、尚更スピンしてしまって、「アッ!」と声を上げた瞬間そのまま落ちたのでしょうか?それとももしかしたら、前から下ってきた車が滑って中央車線をはみ出し、それを避けようと左にハンドルを切った時、滑って落ちたのでしょうか。今となっては分かりません。
でもそのガードレールが、そこの一か所だけ抜け落ちていなければ、そこで留まったはずです。それにガードレールの下は、崖といっても私が想像していたような深い谷間の崖などではありませんでした。そこは人家へ続く細い道路が走っていて、土止めをされた擁壁の下、わずか二メートルと少し位の高さでしかなかったのです。たとえガードレールの間隙をぬって落ちたとしても、その程度の高さなら、そのまま着陸出来たのだと思います。でも彼の車は、そこにまた、ちょうどあった幅七十センチ程の段差に弾みをつけられ、真っ逆様に落ちてしまいました。
私は彼が転落した下の細い道に降りて、苔むした擁壁を見上げて思いました。
(こんな所で人は死なない…。こんな低い所で落ちて死んだりしない!)
それは父が階段から落ちた時と同じでした。あの時も、必死に生きのびようとする父の足を何者かが掴んで、むりやり死の世界へ引きずり込んでいったのでした。
「お前達の願いがどうであれ、これから先の道は、初めから用意していない。それはすでに取り決められた契約だ。」
と言ったような、強い何かの意図を感じたのです。
泣いても、わめいても、哀願しても、取り縋っても、聞き届けては貰えない。物凄い力で、ずるずると引き摺られいく。どうにかして方向を変えようと力の限り舵をきっても、スクリューはへし折られ、帆はなぎ倒され、初めから定められていた方へと押し流されていく。それは私達のか細い腕ではとても止められない。そんなエネルギ―にも似たとてつもない力が、無理やり彼等を連れ去ったように思いました。
だって偶然にしては話が出来過ぎているでしょう。こんな偶然、宝くじに当たるよりも難しい。「事実は小説よりも奇なり」と言うありふれた言葉があるけれど、こんな筋書きを実際に生きるのだけは嫌、絶対に嫌でした。
足元に視線を落とすと、湿った落ち葉の中に、車のガラスの小さな破片が散らばっていました。私はしゃがんで、それを掌に拾い集めて握り締めました。僅かに血が滲んでも痛みも感じませんでした。
それは粉々に砕け散った彼の命の破片でした。拾い集めても決して元には戻らない。私の大切な「夢」のカケラでした。
(それなのに、どうして、私が生きているんだろう。どうして、一緒にここで死ねなかったんだろう。)
あの日…、私は古沢駅まで行って、あの人を驚かせようと思った。「助手席に人がいると疲れない。」と言って笑っていたあの人の笑顔を思い出して、隣に座っていようと思った。でも、あの三十日の寒い夜、淋しくて…、私はまた性懲りもなく彼の愛情を疑った。(こんな私をあの人がいつまでも大事にしてくれるはずがない。)と思ってしまった。あれだけ、父を失った私を支えてくれた彼の真実を私はただの気紛れだと投げ捨てた。だから、あっさり行くのを辞めてしまった。
もし信じて彼のもとに行っていれば、私を乗せている彼は近道などせずにゆっくり海岸つたいに帰ったかも知れない。そしたら、あの人は私をご両親に紹介して…。たとえこの道を通っても、あの人はきっと私をかばいながら、ここで一緒に落ちて、こんな所に私一人おいてけぼりを食わずにすんだのに…。罰が当たっ たんだ。あの人の愛情を信じなかったから、その当然の報いを受けんだ…。あの人と出会った日から、自分に自信がなくてずっと ずっと疑ってきたから、あの人はあきれ果てて私を置いて逝ってしまった。それは自業自得なんだ…。
私は諦めて、ガラスの破片を一つだけそっとハンカチに拾い上げました。それは、私に相応しい結婚指輪の代わりのガラスのダイヤモンドでした。
「帰りましょう。」と塩川さんが背後で言いました。
「はい…こんな遠い所まで、ありがとうございました。」
「僕に出来ることは、こんなことくらいしかないから…。」
何時の間にか陽が沈み始め、辺りは薄暗くなっていました。私は持ってきた花束を置いて車に乗りました。車を走らせながら塩川さんが言いました。
「あいつは口が堅くて、はっきりしないと何にも言わない奴だから…。でも深町さんと交際していることは、だいたいわかっていたから佐々やんが死んだ時、これは知らせなくてはいけないと思って、あの日電話をしました。」
「本当にありがとうございました。塩川さんが教えてくれなかっ たら、最期のお別れもできずに、私、ずっと家で待っていたと思います。」
「あの時、電話口でひどく泣かれて、あんなに泣かれたの初めてだから、どうしようかと思って困りました。」
「あの時は…、すみません。本当に…。」
長い道程を帰る途中、入江に浮かぶ船の明りを眺めていると、初めてあの人が「手をつないでもいいですか ?」と私に尋ねて、 「手 ?」と戸惑っていると、笑って私を見て、私の手を取ったまま車を走らせていた事が思い出されます。私の手をすっぽり包んだその大きな手を思い出しているうちに、泣きながら眠ってしまったようでした。
「着きましたよ。」
塩川さんの声で目を覚ました。
目が覚めれば、また厳しい現実が目の前に立ちはだかるのです。