けれど一人で行く力がどうしても湧きません。頼りの姉は遠くにいるし、親友に頼んで電車で一緒に行ってもらいました。

古沢駅に着いた時は、辺りはもう真っ暗でした。数人の人を降ろしただけで電車はすぐに走り去りました。

寂しすぎる改札を出ると、赤い車が待っていてくれるような気がして顔も上げずに一台だけ留まっていたタクシーに乗り込みました。タクシーが料金メー夕―を止めた時、前を見ると独身寮らしき二階建ての建物が見えました。彼に会える訳でもないのに、私の胸が高鳴ります。

明るい電灯に照らされたガラス張りの玄関を開けると、靴箱の上にピンクの公衆電話がひっそりと侍んでいました。

(ああ、ここで、この受話器を持って、あの人は私と話していたのに…。)

私は震える指先を伸ばしてその受話器にそっと触りました。扉の隙間からひんやりとした風が入ってきて、見知らぬ私を横目で見ると、無言のまま通り過ぎて行きました。

私の電話の声を覚えてくれていた彼の同僚が、私の姿に同情して彼の部屋へ案内してくれました。

「まだ、そのままにしています…。」

(佐々木さんは、本当にもう…ここにいないのですか?)と尋ねたい気持ちを押し殺して、その人を見詰めます。

部屋の中に入ると、そこは彼の香りで満ち溢れていました。部屋の隅にあるベッドは、今起き上がったばかりのように布団が無造作に折れ曲がっています。

本棚には少しの小説と車関係の雑誌や仕事の本。

棚の上にはコヒー好きの彼が使っていたコーヒーメーカーと白いマグカップ。高級そうなステレオコンポ。たくんのレコードとカセットテープ。

洋服箪笥にはスーツ。整理箪笥にはきちんと畳まれた見慣れたセー夕―や私が誕生日にプレゼントした服もありました。

あの人が使っていた机、あの人が座っていた椅子。部屋の中は、つい今まで彼が存在していた気配で満ち満ちています。ちょっとだけ待てば、あの人が今にもこの部屋に戻って来そうな、帰ってこない事のほうが不自然な気がするのです。

私はベッドの横にひざまずき、彼の残り香のする枕にそっと触れました。

(毎晩仕事が終わって私に電話をしてくれた後、疲れた体のままこのベッドに寝たんですね。眠りに落ちるまで、ずっと私の事を思っていてくれたんですよね。)

あの人の綺麗な死に顔が浮かんできます。涙がまた頬を濡らします。

(あなたはこんなに早く死んでしまう人だったんですか?私たちに残されていた時間は、たったあれだけだったんですか?)

私は枕に落ちていた彼の髪の毛を掌に拾い上げ、唇にしばらく当てた後、ゆっくりと飲み込みました。彼の存在全てを私の中に入れてしまいたかった。どうにかして繋がっていたかった。でも、この世に残された私に出来る事は、何一つありませんでした。

泣きながら振り向くと、机の上に彼がいつも身に付けていた腕時計が置かれていました。それは水深百メートルまで潜れる時計で光がなくても見えるので、寝る時でさえいつもしていると言っていた時計でした。

「あの人の腕時計…。」

私は吸い寄せられるようにそれを手に取りました。

それは主人を失っても正確に時を刻んでいます。音もたてずに、どんな迷いもなく、一秒、一秒、確実に動き続ける秒針を眺めていると、寛之さんの見えない魂がそれを刻んでいるように思えてきます。

「今の時」を刻む役割の時計が、その「時」を越えた「永遠の時」がある事をこの静かな秒針が示しているような不思議な感覚に囚われました。私がここに来る事を知っていた未来の彼が、過去と未来の時を越えて、彼の生きた魂の存在を伝えるために、この時計を私に手渡したかったのではないかと思えたのです。

この時計が、私とあの人とを繋ぐ唯一の物に思えました。それがこの世での「物質的な証し」だけを欲しがる私の為に、あの人が私に示してくれた奇跡だと思えたのです。

何故なら肌身離さず嵌めていたこの時計が、ここに残されていた事がとても不思議だったからです。

彼が死んだ事を知ってから流れ続けていた私の涙が、その時初めて止りました。私は自分の腕に彼の腕時計をしっかりと嵌めて抱き締めました。その時計が三十数年後の未来に再び奇跡を起こしてくれる事をもちろんその時の私は知る由もありません。

ここに長くいる事も許されません。私は急いで彼のコートのポケットから使いかけのハンカチを取り出し、愛用のコーヒーカップと、私が贈ったサマーセー夕―、彼の香りのシェーブーローションをわずかな形見として持って帰りました。

再び古沢駅に戻り電車を待っていると北風が身に染みます。

ここでこうやって彼と電車を待っていたのは、暑い夏の夕暮れ、彼との縁切をお願いして宇佐神宮に参拝した時でした。その時の彼は優しくて、この駅のホームに立って、右手を挙げてずっと見送ってくれていた姿が思い出されます。

(その人が今はもういない…。)

私は力なく闇の中に沈んだ線路を見詰めました。