最近、クライアントから、
「桃原さんはMですよね」
と言われます。
どこかの掲示板に書いてあるのかもしれませんね。

しかし、私は 「S です」。

SMは確か、サルトルが述べたのだと記憶しています。
間違えていたら、申し訳ございません。
例として、Sを見る側、Mを見られる側に対置していて、Mがファッションショーのように見せる側に移るといった立場上の変換で書いてあったように思います。
ヘーゲル以来の弁証法が使われていたように記憶しています。
(AとBをぶつけて、Cというより良いものを探していく、動的な過程のこと。)
私は実存主義哲学が好きですが、マルティン・ハイデガーが好みで、ジャン・ポール・サルトルはあまり好みではありません。
ただ、アンガージュマン(自分を社会に投げ掛けること)という考えは大切だと思います。
(サルトルは、AとBをぶつけて、いったとしても最終的なものは人間の目には判断できないとする。ヘーゲルは最終的な絶対知は国家に至るとする。)

と、SMについて話がそれてしまいました。

私は昔、ある社長からSMのSは、サービスのS、Mは満足のMと言われたことがあります。

私は、Sは、積極性のS としたいです。
私は、好奇心の塊ですし、常に挑戦者であり、冒険者で在りたいですから。
完成よりも、未熟でよい。
未知へ臆することなく、突き進みたいと考えています。

無限の可能性。

これを信じて行動するのが、私です。

ロシアのロケット学者の名言

「今日の不可能は、明日、可能となる。」

と言う言葉が好きです。

ハイデガーは、ツォリツコーンゼミナールで、上が空いた円を描きました。
視力測定で使うような円です。
「どちらが空いてますか?」
と聞かれる円です。

ハイデガーの円は、人間は閉ざされていないという点に重きがあるのだと思います。
また、閉ざすべきでもないと。

こういう考え方に、「銀河鉄道999 」の冒険者としての考え、源氏物語を描いた「あさきゆめみし」の無情感を漫画から、受け継いでいったわけです。

村上春樹作品は、実存主義哲学が深く関わっています。だから、実存主義哲学からすると非常に興味深い。
村上作品のターニングポイントは、「ネジ巻き鳥のクロニクル」だと思います。

村上作品は、「生」と「死」の側の人間が必ず登場します。
そして、「生」の側の人間と「死」の側の人間は直接コンタクトを取りづらいので、主人公の「生と死」の間の人間を通じてコンタクトをとります。
「ノルウェーの森」が特に顕著です。
「生」と「死」のどちらにも属さない主人公だからこそ、深い井戸には、はまらないのです。
そして、主人公は、「生」と「死」の間でペンディングして、選択しないのが村上作品でした。

しかし、「ネジ巻き鳥のクロニクル」では、暴力を使ってでも、主人公は「生」の側を選びとっていきます。
さらに、「海辺のカフカ」「1Q84」でも、暴力を使ってでも、積極的に「生」を選びとっていきます。
その意味でも、自分を引き受けて、暴力を使ってでも、「生」を選ぶという、これまでのモラトリアムから、現実社会を強く意識しているのだと思います。

なんか、脈絡のない文章になってしまいましたね。
SMと実存主義哲学と村上春樹作品と繋がっているのです。
ということで、御許しください。


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