「情緒」を大切にする日本人の観点からすると、大人たちが利用する施設は様子見しつつも再開し出している中で子どもたちだけが家にいることを余儀なくされているというのは、納得しにくかったところも多々あったでしょう。

心ある方からは、「この状況はむしろ逆なのではないか。」という声もあがっていたように思います。何しろ子どもたちがその学齢期にあった学びを得られる機会は「今」しかありません。一方で大人たちの娯楽であれば、何も「今」である必要はないでしょう。こういった良識ある方々の声に救われた子どもたち、親御様、学校関係者の方々も決して少なくなかったことと思います。

私はというと、確かに上記のようなアンバランスはとても感じておりました。仕事柄、休校中の子どもたちと接する機会が多々あり学校行事が根こそぎなくなってしまったことを残念がっている彼らの様子を毎日のように見てきたからかもしれませんが…。

冷静に考えるとだんだん見えてくるケースでした。学校は学び舎であるがゆえに利益追求の場ではありません。対して多々ある施設は利潤がなければ立ち行かなくなります。そして当時は兎にも角にも「感染拡大防止」のためにできることであれば何でもやらないわけにはいきませんでした。こうした合理的な観点から、学校をクローズし施設をオープン、という結論に至ったわけですね。

この点は充分に理解ができます。あの頃は自粛で収入が激減した方々が本当にたくさんいらっしゃいましたからね…。
ただ、少々バランスが悪かったか、という気がしなくもない部分もございます。
極端にいうと、〈0か100か〉だったイメージがあります。理想としてはこのバランスが〈50 対 50〉になるべきだったかもしれませんが、こればかりは難儀だったといえましょう。

経済の面はもちろんではありますが、やはりこれらの場合「施設」の方が新型コロナウイルスとの相性がまあまあ良く、「学校」は新型コロナウイルスとの相性が最悪だったことが見えてきます。今は治療薬が普及とまではいかなくても存在しており、個人の好き嫌いを横に置けばワクチンもある状況にあります。だからといって「かかってOK」とはさすがになりませんが、少なくとも当時と比較すれば新型コロナウイルスに対する「安心材料」が増えました。当時は、「明日は我が身か…。」と思わせんばかりの他国の惨状などが次々と報道され「絶対にコロナウイルスを身近に持ち込んではいけない!」という風潮でしたからね…。

コロナウイルスに罹らないためには、
「会話など他人と接触しない」ことが第一、いや全てでした。
大人が営業している施設であれば、呼びかけなどで接触を最低限に保ちつつ提供されるサービスを満喫することは不可能ではありません。事態の深刻さをダイレクトに知っているわけですから、良識ある判断のもとに注意喚起に従うでしょう。そうすれば、感染リスクを最低限に留めつつ営業が可能となります。
一方で、学校ではそもそも「感染リスクを最低限に留める」ことが不可能です。子どもは本能的に周りの友人と会話し、盛り上がりたいからです。そして大人に比べたら、当然一つの物事に対し我慢ができる時間も短い。そうなると、子どもたちが最高に盛り上がる要素を半ば強制的に取り上げざるを得なかったことになります。その「半ば強制的に取り上げざるを得なかった」代表例が学校行事だったと考えれば、ようやく繋がってくるところですね。

子どもたちにはかわいそうでしたが、仕方のない判断でした。ただ、もう少し視野を広げれば「根こそぎなし」は防げたかもしれません。
たとえば、体育館に集まっての卒業式ができないのならば一人一個帽子を配布し、時間になったら無会話で校庭に向かって走って出る。そして、一斉に帽子を高々と空へ向かって投げる!
こんな形で「新しい思い出づくり」もできたかもしれません。

「校庭にみんなで一斉に出て、帽子を空へ飛ばす」なんてことをしたら、絶対に子どもたちは歓声を上げるに決まっている!!と思われる方もいるでしょうが、そこは逆かと思います。

「みんなで楽しくおしゃべりができない代わりに、全身で卒業の喜びを表そうね!」と実施意図をきちんと伝えれば、子どもたちはその「イレギュラーなセレモニー」に対するプラスの緊張感を感じるでしょう。この「プラスの緊張感」が与える影響はかなり大きいです。新鮮な印象が制限を受け容れる心のゆとりを生み出すからです。このようにして、「可能性0」をなくすことはできたようにも思います。

あのような閉塞的な日々は二度とやって来て欲しくないですが、「ピンチをチャンスに変える」というよりは「ピンチの中でも楽しみを見つける」工夫は必要かもしれません。

STEP in TIME 塾長

STEP in TIME!