映画「天気の子」を観た後、「エアコン風邪」とでもいうのか、たぶんオフィスのよく効いた空調によって喉を痛めたらしく、酷い風邪をひきました。

その風邪、やけにこじれてしまって、咳も止まらず、鼻水もザーザー、横隔膜の下部の辺りも痛くなって参りました。
また、こういうときに限って仕事も何だかんだ忙しいときたもんだ。
おまけに、こじらせ風邪の後半、右眼が結膜炎のように充血、涙が滲んで視界不良まで……。

なかなか医者にも行けず、8月~9月をまたぐ週末、珍しく2日間とも寝込んでいました。
症状が酷いので、「何もしない!」と決めて寝込んでいたのですが、ついスマホに手が伸びてゲームしちゃう。いろんな人のブログ読んでしまうww

ゴロゴロしてると本も読みたくなって、新書サイズの日経プレミアシリーズ『AI 2045』(つまり「シンギュラリティ」を迎えると想定される2045年に向けての現在位置でのAIの話を、各国で取材した日経記事の多角的考察にして豪華な集成です)を「つまみ読み」(?)しちゃう。


貧乏性のなせる業。
ちゃんと休むべきときに、完全休養を受け入れる心の準備ができないダメダメな大人=おっさんK ww

「あっ、そういえば」と洗濯までもはじめちゃう。
(その頃、まだ酷暑でしたものね。)

何もしない!
実は、何もしないことを実現するのは、かなり高度な心構えが必要なことに気づかされました。

忙しかったりすると逃避的に「何もしないでゴロゴロしてたい」と想うんですが、いざ何もしないでゴロゴロしていないといけない、となると大人しくしていられない、余計なこと(?)つい何かに手を出してしまう。

たぶん、人間の好奇心の強さ。
機械のように、あるいはデジタルのようにスイッチを切って完全OFFができない。
食欲減退でも、何も食べない訳にもいかず、食べ始めるとちゃんとそこそこ食べられる。

改めて、生命体のホメオスタシス(恒常性)、完全なOFFがない連続性の強さなのか弱さなのか、しかし、これはこれでしたたかなシステムを自分のなかにも確認しました。

おそらく『AI 2045』の【エビデンス】を真似る風の教訓だと、ヒトはデジタルの完全スイッチOFFを見習うべきと思いました。
スイッチOFFの十分な休憩が前提で、息子が以前通っていた進学塾のスローガン=「ヤル気」スイッチがONするのかも。っていうww


You Tubeで見つけたヒーリング系(?)のレーベル=Wave music(同名の音楽レーベルも存在しますが、そことは別みたいで詳細不明です)の静止画の音源
 ADRENALINE♪ VENIICE×Miles Away×Karra
アドレナリン=交感神経を興奮させるホルモンなので、心のトキメキを扱っている楽曲世界です



動画サイトのWave musicは魅力的なスチール写真に蛍光のような虫のように飛ぶ無数の光、あるいは風に舞う粉雪のような白い光点が息づくビジュアルを必ず音源に添えています
面白いのと選曲センスが好きでよく聴いてます。
音楽も心のホルモンの一種で間違いないですよね♪

デジタルのロボット、サイボーグ、レプリカント、フィギュアたちは、果たして音楽を聴くのか?
どんな音楽を聴いたらヒトの傍らに寄り添うデジタルの彼ら・彼女らは、心安らかに今夜スイッチOFFできるんだろう?
夏休みももう終わりですね(息子も今日から、通学)。
一方、首都圏での大雨と低温が3年近くも止まらなかったという設定の「天気の子」、やっと昨日(25日)の日曜に観てきました。

とても観たかった映画。
映画館で観ることができて、ほんとうに良かった!



新海監督は、エンターテイメントの映画とインタビューなどで強調されているようでしたが、もう少し現在の社会、個人(主に若い人)にメッセージ性もこめて描いた映画のようにも感じました。

主人公が偶然、手にした殺傷力のある武器と、ヒロインが偶然、身につけた祈りの異能との対比とか、設定も実は練りこまれているんじゃないか。
それでリピート鑑賞する人も多いんじゃないかと想像しました。

気象=広大な空も舞台になっています。
その空は宇宙にひろがっていく。
その意味で、とてつもなく際限ないファンタジーでもあるので、「ありえない」のリアル感の一言では崩れない夢幻のストーリー、堪能しました。

Kの感想では、前作「君の名は。」よりもストーリーの複雑さが整理されて、観る人にわかりやすく提示されている祈りの物語、という受け止め方をしました。
「祈り」というのは、とくに宗教色が強いものではなくて、「明日、天気になぁ~れ!」的な、明日への希望的な願い。
お天気=晴れた青空を仰ぐと、感情が気持ちよくなるレベルの、こうなって欲しいなぁー的な「祈り」のこと。

今回も100%の晴れ女の流れから、「巫女」などの話題、気象神社、代々木界隈の雑居ビル屋上の小さな祠の鳥居など、日本古来のアニミズムの景色もでてきていました。
こうした舞台設定は、たぶん人の善なる側面、聖なる側面を示唆するのか。
パンドラの箱理論(?)を仮想するKには、監督に直接、話を聞いてみたいような気持ちもします。

とにかく、「天気の子」を観て、また以前観たときは複雑って思った「君の名は。」のDVDなりを改めて観てみたいとも切に思ったKでした。

実家がある浦和に立ち寄った後、浦和PARCOのユナイテッドシネマ浦和で観た訳ですが、おのずと岩本町乗換え・京浜東北線の北向電車に乗るため、田端~上中里~王子を通過して、まさに「天気の子」の陽菜(ひな)と弟の凪(なぎ)の住むアパート界隈の傍らを通過して、その地縁を感じつつ、Kの現住所=江東区のゼロメートル地帯・すぐにも水没しそうな東京の地面の縁を意識してから「天気の子」を観ました。

RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい♪」のMVのロケ地も上中里の田端機関区のJR車両基地の傍らでした。

愛にできることはまだあるかい♪の問いかけにはちゃんと応答があって、愛にできることはまだあるよ! なんです。

祈りは通じて、「大丈夫!」が返ってくる映画。

自分にも、ほかの人にも「大丈夫!」がいえる、明日、天気になぁ~れ!の願いをいつも気持ちに持っておきたいかなぁ。

RADWIMPS 愛にできることはまだあるかい♪


17日の『博士の愛した数式』小川洋子著についてのカキコミ(1)では、美しい数字=完全数と、12年の歳月の出来事の総和が完全数28に収束する大胆な構成に焦点を当てたかったので、肝心の博士について説明をはしょりました。

それで、この小説の最大の魅力、とても厄介な感じ(!)に言及できませんでした。

かつてとんでもなく数学の才能に恵まれた博士の輝いていた頃と、いまの沈潜した博士の現実・姿、その落差も言葉も出ないくらい博士の暮らしぶりから推測がつきます。

この博士の特異な人物造形なり、また博士との濃密な関係性が示唆されながら、途中まで秘密のベールに包まれてツンデレ感たっぷりの杖をつく義姉、主な登場人物はたったの4人で構成される小説です。
そのため最期はファミリー(?)のような絆というか形を繋ぎあげて、博士の輝くかつての数学の才能、ルートが博士に伝えつづけてきた活発な子供の温かみ、そして2人+「私」の憧れ=阪神タイガースの剛速球投手・江夏豊=背番号は完全数28の最盛期の姿がオーバーラップして結末するという構想力の大胆、骨太に驚嘆しました。

この完全数の公約数のひとつひとつ=エピソードやトラブルのあれこれが「私」から語られる形で小説は進んでいきます。

母屋の義姉から家政婦紹介協会に、離れに住まう義弟(64歳)の世話を見てくれ、との依頼があり「私」が派遣されます。

博士は身長が低いうえに、とても猫背、そして17年前の交通事故での後遺症のせいで、80分を過ぎると記憶が消失してしまいます。

そのため防備のメモがいくつもジャケットに安全ピン留め(錆びているものも)されて、ミノ虫のように体裁が悪い。

自分たちだって、クリーニングに出した上着、買ったばかりのシャツに、照合用の色紙のホッチキス留めや価格のタグの外し忘れがあると、ひどくこっ恥ずかしい思いをしますが、博士はそれが常態。

メモには「……解析的方法の失敗が……」、「……ヒルベルト、第13問題の……」、「……楕円曲線の解を……」などの数字、記号の断片メモや「僕の記憶は80分しかもたない」。などが書き留められて、短期記憶できない博士を援ける欠片になっています。

17年前で博士(交通事故の被害に遭遇した当時47歳)の時間は止まったまま。
優れた研究者にして数学教授の博士は、残された記憶のほとんどのベースが数学にまつわることに限られます。

いまでは今日会った人のことも覚えられないので、社会から疎外感を強めて、外出するのも、人に会うのも嫌がります。

家政婦の「私」とも毎日が初対面となるため、少しでも落ち着きを得ようと、博士はまず「私」に数を聞くことしかしません。

『「君の靴のサイズはいくつかね」
新しい家政婦だと告げた私に博士が一番に尋ねたのは、名前ではなく靴のサイズだった。一言の挨拶も、お辞儀もなかった。‐略‐
「24です」
「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」(補注:1×2×3×4=24)
博士は腕組みをし、目を閉じた。しばらく沈黙が続いた。』

一事が万事。「私」も厄介な雇い主にプレッシャーを感じながらも、同じ家政婦紹介協会から派遣されて、クビにされたり自主的に他の派遣先に切り換えた先輩家政婦9人の訴えを聞いて、何とかお世話のヒントを引き出せないか、仕事をつづけようと努めます。
「私」には10歳の息子がいて、生活は決してラクじゃないから。

「考えを邪魔するな」と博士に怒鳴られたりしながらも、そんな「私」を奮い立たせた発見は、博士の袖口に新しいメモがあるのを見つけたこと。
「新しい家政婦さん」と書いたメモ(似顔絵つきww)があったから。

そして、「私」の誕生日が2月20日と聞いて、博士は数学論文のご褒美でもらった外国製高級腕時計の限定生産番号284の刻印を「私」に見せてあげます。

220と284は友愛数。

『220:1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284
 220=142+71+4+2+1:284

「正解だ。見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。めったに存在しない組み合わせだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」』

この友愛数の次の一組を見つけようと「私」と息子の2人で計算してるんですよ、と博士に伝えると大きな変化が起こってきます。

『「次に小さい友愛数は、1184と1210だよ」
「四桁ですか? じゃあやっぱり、到底私には無理だわ。息子にも手伝わせたんです。‐略‐』

博士は「私」に息子がいることを知ると、子供ひとりで家で留守番は寂しいだろう、心配じゃないか、と気が気ではない様子。

博士は10歳の子供を一人待たせて、母親が目の届くところから離れていてはいけない、息子を連れて家政婦の仕事をすればいいといって、袖口のメモを書き直しました。
「新しい家政婦さん」メモの似顔絵の後ろに、「と、その息子10歳」と。

こうして博士の離れの住まいに、学校を終えた「私」の息子も立ち寄るようになって3人で過ごす時間が始まり、記憶や父親や、シングルマザーという欠けたものを抱えているけれど、焦点を当てていくと、ストレートじゃない厄介な美しさを秘める不足数ばかりの3者の関係性が深まっていく物語です。

そこで示される博士の心配性の気難しさ、疎外感、繊細さやら優しさ、それでもルートの博士に寄せる一直線の信頼感など、ちょっとどれも厄介なんですが根にある純粋さから印象は美しいです。


例によってKが映像作品化するなら、主題歌または劇中歌は何を選曲するか?
読書しているときから明確なイメージづけができていました。

不足数的な欠落を抱えた3人+17年前に大切な人を喪失した(目の前に存在していても空蝉のような抜け殻とも言える)義姉の4人と、グレーゾーンに立ち尽くすところから始まる物語だったので、リンキン・パークのShadow Of The Day♪、エンディングの余韻が静謐のなかの豪腕・江夏豊投手の背番号にして完全数の28とぴったりオーバーラップします。



それと実は本作品、既に映像化されていました。
博士は寺尾聰、「私」は深津絵里、義姉は浅丘ルリ子らのキャスティングだったようです。そちらはピアニストの加古隆さんがサントラ音楽を担当したみたいです。
ただ小説の構成を読み替えて映像化したようにウィキなどに解説してあったので、原作とは少し印象が違う物語になっているかもしれません。