以前、テレビのドキュメント風の番組に著名な人気作家さんが出演されてて、ご自身の著作の一節を音読するシーンがありました。
途中まで朗々と音読されてましたが、声が途切れて「ここまで。僕にはもう読めません。ごめんなさい」といって、本を閉じてしまったのを見たことがあります。
短い音読の間にも、自分の著作のよく知る世界に没入して、感情移入のあまり冷静に音読をつづけることが難しくなった、という説明でした。
「えっ!?」と驚いたのを覚えています。
ただおっさんKも眼の手術が慌しく決まった春先に、いまのうちに読んでおこうと読書を急いだ本=『博士の愛した数式』小川洋子著で、あっ、ヤバイかも……。と、本のページをたどるのを地下鉄のなかで中断するのを2度くらい経験しました。
泣きそうな感じを自覚して、おっさんが純文学で落涙はないだろう、との予防策でした。
通勤中の『博士の愛した数式』の読書は諦めました。
『博士の愛した数式』、第1回本屋大賞受賞作で、芥川賞作家の小川洋子さんの代表作のひとつでもある小説です。

小説は10歳の息子を抱えるシングルマザー「私」が、家政婦として派遣された先の博士(かつて○○大学数学研究所教授だった)のお世話をするなかで、息子の「ルート」(√の数式記号からとって博士が命名したニックネーム、野球少年でもあり阪神タイガースの熱心なファンでもある)も交えて独特の交流をはじめて以降の12年間、いくつものトラブル、エピソードを乗り越えて、その特殊な関係が成熟して美しく昇華していく過程を述べた物語。
……そんな風にも簡潔・要約できるような小説でした。
でもでも、そんな簡潔・要約化を拒むような緻密で濃厚で、いくつもの美しいガジェットで読者の感嘆といい意味での驚嘆へと導いてくれる、純文学とみせかけておいて徹夜必至のような、次へのプロットの扉が開かれるのが待ちきれないワンダーな読み物でもあるのでした。
芥川賞受賞作家をつかまえてKが褒めるのもナンだかなぁ~ではありますが、
たとえばルートが、学校帰りに博士宅に立ち寄って宿題したり、博士とも交流するようになると……。
江夏投手の防御率の数値を知りたがる博士→もう引退してるし、江夏は阪神からカープに移籍したんだよと現実を告げるルート→奪三振が似合う剛球ピッチャー江夏投手の背番号は28→28は完全数→28=1+2+4+7+14→約数の和が一致する
(因みに博士が「私」に説明する完全数の正体は、
「一番小さな完全数は6。6=1+2+3」
「あっ、本当だ。別に珍しくないんですね」
「いいや、とんでもない。完全の意味を真に体現する、貴重な数字だよ。28の次は496。496=1+2+4+8+16+31+62+124+248。その次は8128。その次は33550336。次は8589869056。数が大きくなればなるほど、完全数を見つけるのはどんどん難しくなる」
億の桁の数字を博士が苦もなく導き出してくるのに、私は驚いた。
「当然、完全数以外は、約数の和がそれ自身より大きくなるか、小さくなるかだ。大きいのが過剰数、小さいのが不足数。実に明快な命名だと思わないかい? 18は1+2+3+6+9=21だから過剰数だね。14は1+2+7=10で、不足数になるわけだ」
私は18と14を思い浮かべた。博士の説明を聞いたあとでは、それらは最早ただその数字ではなかった。人知れず18は過剰な荷物の重みに耐え、14は欠落した空白の前に、無言でたたずんでいた。 ‐略‐)
というような美しい数字の真実がいくつも博士との間の話題になり、数の整然とした美しい世界に眼を洗われたうえで、作者・小川洋子さんの文学の美しい企みも示されています。
もうルートが22歳の若者に成長して、博士が移った先の老人施設に「私」らとともに会いにいった最期となる訪問のシーンが、結末部に描かれます。
博士の胸に下がるIDカードのように見えるもの、それは私とルートが博士の誕生日にプレゼントした背番号28・江夏豊投手の野球カード(2人でとても苦労して手に入れた)をクリアーケースに入れたもの。そのカードがいまや博士のIDとして、胸にかかって存在証明のようになっています。
読者のKにも、完全数の秘密の繋がりが見えてきそうになる瞬間!
博士とルートの共通の憧れ=剛速球投手・江夏、背番号28、そして完全数!
ここから以下は引用です。
その美しいパーフェクトな光景に驚嘆するのみです。
「ルートは中学校の教員採用試験に合格したんです。来年の春から、数学の先生です」
私は誇らしく博士に報告する。博士は身を乗り出し、ルートを抱き締めようとする。
持ち上げた腕は弱々しく、震えてもいる。ルートはその腕を取り、博士の肩を抱き寄せる。胸で江夏のカードが揺れる。
背景は暗く、観客もスコアボードも闇に沈み、江夏ただ一人が光に浮かび上がっている。今まさに、左手を振り下ろした瞬間だ。右足はしっかりと土をつかみ、ひさしの奥の目は、キャッチャーミットに吸い込まれてゆくボールを見つめている。マウンドに漂う土煙の名残が、ボールの威力を物語っている。生涯で最も速い球を投げていた江夏だ。縦縞のユニフォームの肩越しに背番号が見える。完全数、28。
物語はここで終わります。
12年の歳月をかけて、約数のすべての和が完全に一致して28に収束する。キャッチャーミットに吸い込まれた剛速球のような大胆な仕掛け、精密・精緻な静謐の小説。
作者・小川洋子さんの構想力もパーフェクトすぎる……。
途中まで朗々と音読されてましたが、声が途切れて「ここまで。僕にはもう読めません。ごめんなさい」といって、本を閉じてしまったのを見たことがあります。
短い音読の間にも、自分の著作のよく知る世界に没入して、感情移入のあまり冷静に音読をつづけることが難しくなった、という説明でした。
「えっ!?」と驚いたのを覚えています。
ただおっさんKも眼の手術が慌しく決まった春先に、いまのうちに読んでおこうと読書を急いだ本=『博士の愛した数式』小川洋子著で、あっ、ヤバイかも……。と、本のページをたどるのを地下鉄のなかで中断するのを2度くらい経験しました。
泣きそうな感じを自覚して、おっさんが純文学で落涙はないだろう、との予防策でした。
通勤中の『博士の愛した数式』の読書は諦めました。
『博士の愛した数式』、第1回本屋大賞受賞作で、芥川賞作家の小川洋子さんの代表作のひとつでもある小説です。

小説は10歳の息子を抱えるシングルマザー「私」が、家政婦として派遣された先の博士(かつて○○大学数学研究所教授だった)のお世話をするなかで、息子の「ルート」(√の数式記号からとって博士が命名したニックネーム、野球少年でもあり阪神タイガースの熱心なファンでもある)も交えて独特の交流をはじめて以降の12年間、いくつものトラブル、エピソードを乗り越えて、その特殊な関係が成熟して美しく昇華していく過程を述べた物語。
……そんな風にも簡潔・要約できるような小説でした。
でもでも、そんな簡潔・要約化を拒むような緻密で濃厚で、いくつもの美しいガジェットで読者の感嘆といい意味での驚嘆へと導いてくれる、純文学とみせかけておいて徹夜必至のような、次へのプロットの扉が開かれるのが待ちきれないワンダーな読み物でもあるのでした。
芥川賞受賞作家をつかまえてKが褒めるのもナンだかなぁ~ではありますが、
たとえばルートが、学校帰りに博士宅に立ち寄って宿題したり、博士とも交流するようになると……。
江夏投手の防御率の数値を知りたがる博士→もう引退してるし、江夏は阪神からカープに移籍したんだよと現実を告げるルート→奪三振が似合う剛球ピッチャー江夏投手の背番号は28→28は完全数→28=1+2+4+7+14→約数の和が一致する
(因みに博士が「私」に説明する完全数の正体は、
「一番小さな完全数は6。6=1+2+3」
「あっ、本当だ。別に珍しくないんですね」
「いいや、とんでもない。完全の意味を真に体現する、貴重な数字だよ。28の次は496。496=1+2+4+8+16+31+62+124+248。その次は8128。その次は33550336。次は8589869056。数が大きくなればなるほど、完全数を見つけるのはどんどん難しくなる」
億の桁の数字を博士が苦もなく導き出してくるのに、私は驚いた。
「当然、完全数以外は、約数の和がそれ自身より大きくなるか、小さくなるかだ。大きいのが過剰数、小さいのが不足数。実に明快な命名だと思わないかい? 18は1+2+3+6+9=21だから過剰数だね。14は1+2+7=10で、不足数になるわけだ」
私は18と14を思い浮かべた。博士の説明を聞いたあとでは、それらは最早ただその数字ではなかった。人知れず18は過剰な荷物の重みに耐え、14は欠落した空白の前に、無言でたたずんでいた。 ‐略‐)
というような美しい数字の真実がいくつも博士との間の話題になり、数の整然とした美しい世界に眼を洗われたうえで、作者・小川洋子さんの文学の美しい企みも示されています。
もうルートが22歳の若者に成長して、博士が移った先の老人施設に「私」らとともに会いにいった最期となる訪問のシーンが、結末部に描かれます。
博士の胸に下がるIDカードのように見えるもの、それは私とルートが博士の誕生日にプレゼントした背番号28・江夏豊投手の野球カード(2人でとても苦労して手に入れた)をクリアーケースに入れたもの。そのカードがいまや博士のIDとして、胸にかかって存在証明のようになっています。
読者のKにも、完全数の秘密の繋がりが見えてきそうになる瞬間!
博士とルートの共通の憧れ=剛速球投手・江夏、背番号28、そして完全数!
ここから以下は引用です。
その美しいパーフェクトな光景に驚嘆するのみです。
「ルートは中学校の教員採用試験に合格したんです。来年の春から、数学の先生です」
私は誇らしく博士に報告する。博士は身を乗り出し、ルートを抱き締めようとする。
持ち上げた腕は弱々しく、震えてもいる。ルートはその腕を取り、博士の肩を抱き寄せる。胸で江夏のカードが揺れる。
背景は暗く、観客もスコアボードも闇に沈み、江夏ただ一人が光に浮かび上がっている。今まさに、左手を振り下ろした瞬間だ。右足はしっかりと土をつかみ、ひさしの奥の目は、キャッチャーミットに吸い込まれてゆくボールを見つめている。マウンドに漂う土煙の名残が、ボールの威力を物語っている。生涯で最も速い球を投げていた江夏だ。縦縞のユニフォームの肩越しに背番号が見える。完全数、28。
物語はここで終わります。
12年の歳月をかけて、約数のすべての和が完全に一致して28に収束する。キャッチャーミットに吸い込まれた剛速球のような大胆な仕掛け、精密・精緻な静謐の小説。
作者・小川洋子さんの構想力もパーフェクトすぎる……。

