全国手話通訳問題研究会という団体があります。各県に支部があるのですが、自分はもと、宮城支部の会員でした。その宮城の支部創立時のメンバーの一人です。実は、その団体の30周年記念誌の原稿依頼があったので、たった今書き上げて送ったところです。その時代のことはここではあまり書いてこなかったので、その時代を振り返ります。
医学生時代は、手話通訳派遣制度の中心手話通訳者だった。もちろん、地元にはベテラン通訳者は何にもいて、通訳の仕事についている人もいる。自分は時間がとれる学生という立場で、派遣通訳をになってきたのだ。
宮城に通研支部(全国手話通訳問題研究会宮城県支部)を作ろう。こう言い続けていたのが僕でした。ほとんどの県では、すでに支部ができあがっています。東北の中心地でありながら、支部結成は全国でビリ争いをしていました。支部ができたのは、たしか平成元年ですね。支部を作りにあたり、散々議論を積み重ねてきましたが、どうしてもトップにたつ人がきまらない。みながいろいろな理由で支部長を避けようとしているのです。周辺はきまっても、トップが決まらない。そんな中、結成集会が開かれることになりました。結局、結成集会当日の朝方ぐらいに支部長が決まったのです。支部を作ろうと声をあげながら、それが実現できない実情にいらだちを感じ、「僕が支部長をやる。」と決めたのは、ほんとにイライラした気持ちからでした。
その翌年には医師になり、朝から夜遅くまでの多忙な医局生活がはじまります。常にポケベルをもらされ、いつ病院から連絡がくるかわからない状態。初期研修医に自由などなく、必然的に手話の活動には参加しなくなっていきました。徐々に手話も忘れていき、「病院」という手話が瞬時にでてこなくなったときには、もはや手話通訳不能な状態になっていました。それでも年に1回支部総会ぐらいには顔をだしていたのですが、手話を使えないので、ベテラン手話通訳者に通訳をすべてお願いしていました。「手話ができなくても支部長ができるんですよ。」と、手話経験の浅い人たちの勧誘口説き文句にもなっていました。通研支部というのは、手話が上手い人たちの集団だという雰囲気がありましたから。手話ができない(できないのではなく、忘れたのです)と言われることも悔しいので、その後自力で手話通訳士試験を突破しました。当時の手話通訳士試験の合格率は数%と極めて低く、手話通訳の世界ではあこがれの目標でしたね。現在に至るまで、医師で手話通訳士資格の持ち主は自分しかいないと思います。
結局、11年間ほど支部長をつとめ、その後は後進に譲りました。会員数も結成当時は20人ぐらいにもなったのですが、今は130人ほどの組織になっているようです。手話にかかわって40年、今年での活動引退を表明しています。今後は耳鼻科医として、さまざまな団体支援をしていきます。