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京街道

浜町2丁目

木版画同好会「ばれんの会」

高松真澄

 

秀吉が造った文禄堤の堤防の上に家康が整備、江戸時代は大名行列も通り大阪~京都を結ぶ大切な道であった。守口(宿)では祝町から文禄堤をのぼり本町橋を通って竜田通に、難宗寺の道標に従って浜町へ、瓶橋の刻みのある橋柱を後にして1号線を渡り、一里塚跡の碑を通り水道局前を経て淀川の堤防へ。

 

平成10年6月のある日、「守口歴史街道」の世話人会を京街道の文禄堤沿いの中華料理店で行なった。その店は白壁の蔵を奥に持つ旧家を改装した建物である。都会では味わえなくなった日本家屋の雰囲気を残しているので、開店そうそうであるが繁盛している。2階から淀川の方向に向かって眺めると、かつて賑を極めた淀川の水運の景色が祐彿としてくる。古くは浜町あたりから小野妹子が遣隋使で出発したと伝えられている風景に、江戸時代の朝鮮通信使の船団が風を切って淀方面に向かっている姿も重なっている。朝鮮通信使の正使、副使の亀甲船の一行を幕府御楼船や、西国大名の出した川御座舟が取り巻き、朱、黄、緑色の幡をなびかせて移動する様子をイメージできる。このページェントを見るために、淀川の堤に群がった数万の人達の歓声も耳を澄ませば聞こえてくる気さえする。第1回の通信使は慶長12年(1607年)に訪問したと記録にあるが、秀吉が毛利、小早川、吉川家に命じて作らせた文禄堤はすでに完成していたと思われる。文禄堤沿いには、その後うだつを建てた商家が並び、東海道57次守口宿を西に東に移動する人達が街道を通過した。浜町に袖うだつを建てた家がみられる。うだつはかつての商家の衿持(きょうじ)であったが、それを知る人も少なくなった。しかし、問いかければ沈黙を破って、昔のことを語ってくれるかもしれない。

西浦信博

(八雲中町3丁目)

転載:守口市民憲章制定25周年記念木版画集『守口百景』

作成:守口市木版画同好会ばれんの会1998年

テキスト入力:元市民憲章副会長 はまがみ