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弥治右衛門記念碑

藤田町3丁目

木版画同好会「ばれんの会」

山田耕治

 

藤田村は水はけが悪く、稲の水腐れ被害が毎年のようにおこっていた。慶安元年(1648年)、藤田村の小泉弥治右衛門は村民の被害を取り除こうと幕府の許可なしに排水樋を造り、幕府を無視したと弥治右衛門一家は処刑された。村民たちは犠牲になった弥治右衛門を後世に伝えるべく俗名を刻んだ道標を造った。

 

今は家がぎっしりと建てこんで、見渡す限り田圃であった風景は失われているが、この弥治右衛門碑のある一画だけは昔の面影を残している。ここに立つと幼いころの自分の姿がまざまざと浮かんでくる。大木の緑陰があり、清らかな水をたたえた水路がこの辺りでは急流になっていて、夏には子どもたちの絶好の水遊び場であった。この水路は梶町から古川へと連なっており、魚もたくさん泳いでいた。電線を入れて感電したウナギを捕らえたことも覚えている。私が小学生であったころは古池があった。後にこの池は埋め立てられ、その際に人骨が出てきたので、弥治右衛門にゆかりがあるかもと、そこに今の墓を建て葬られたと聞く。現在も毎年3月21日に行われている弥治右衛門祭だが、近年は形式的になっており、寂しい限りだ。往時は近隣の小学生も先生に引率されて参列し、にぎやかな催しのなかで弥治右衛門の業績を聞き遺徳を偲んだものである。今の小学生たちは弥治右衛門という名前すら知らないのではないかという気がする。少なくとも守口市の学校教育の中ではぜひ取り上げてほしいと思う。

吉田弥三郎(藤田町3丁目)

取材:若津博一(藤田町5丁目)

転載:守口市民憲章制定25周年記念木版画集『守口百景』
作成:守口市木版画同好会ばれんの会1998年
テキスト入力:元市民憲章副会長 はまがみ