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文禄堤

本町1丁目

木版画同好会「ばれんの会」

清田義雄

 

この本町付近は昔の淀川の本堤防で、秀吉が毛利三家に命じて築造させた文禄堤の南端にあたり、東海道守口宿の宿場町といわれたところである。陸橋のところには「船頭ヶ浜」といって船頭さんの家があり船着場として、年貢米などはここから諸国に積みだされていたようである。

 

京阪電車の守口市駅から道ひとつ隔てた本町は堤の町、文禄堤と呼ばれた。ここが、いわゆる京街道の宿駅として栄えたところであり、今もそのたたづまいに、いにしえの面影を偲ぶことができる。文禄堤は、豊臣秀吉が伏見城と大坂を結ぶ道路として、文禄3年(1594年)毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に命じ、淀川左岸の堤防を改修整備させたもので、その長さは、当時約27キロにおよぶものであり、京都と大坂を結ぶ重要な街道であった。京へ向かうときは「京街道」、大坂へ向かうときは「大坂街道」と呼ばれ東海道57次の宿駅に指定されたのであった。当時は、街道を行き交う人々でにぎわう活気のある町であったようである。私が小学生のころは、この町にも子供たちが多く、一日中子供たちの遊ぶ声や、走り回る姿が見られ、夕飯時には各家から母親の「ごはんやで、はよかえりんかいな」の声がここかしこから聞こえ、それでも暗くなるまで遊びに熱中した昼間の熱気を取り去り、さわやかな夕涼みのひとときが、街角のいたる所で見られた。そんな時代をこの町で体験した人達も今は少なくなり、時が過ぎてしまった。もともと交通に便利な地理にあり、最近は古い家も近代的なマンションヘと、その家並も次第に変わりつつあり、さらに新しい時代へと変貌しようとしている。そんな本町かいわいの長い時の流れを静かに見守るように、本町橋のたもとに「京街道」の道標がたてられているのである。

田代精作

(本町1丁目)

転載:守口市民憲章制定25周年記念木版画集『守口百景』
作成:守口市木版画同好会ばれんの会1998年
テキスト入力:元市民憲章副会長 はまがみ