神々の土地①人民の神と貴族の神 | 百花繚乱

百花繚乱

駆け出し東宝組。宙から花のように降る雪多めに鑑賞。

 

最近、iphoneやらインスタグラムにログインするたびに、 「あなたは今、兵庫県にいますか?」 といちいち確認を求められる。

 

ここんとこ、とんとムラ行けず、まあさまの退団公演すら断腸の思いで、東京が初見。

おそらく歴代一高い宙男の神輿に担ぎ上げられて 「きゃー」 と悲鳴をあげるまぁさまや、まぁさまの写真をもってしゃしゃり出る真風&大喜びのまあさまを、劇団のドアごし、どセンで熱視してるせおっちにむかって、「そこ、代わってくれ!!」 と絶叫していた有様なので  (※私の中でせおっち、結構まあさま担疑惑) 、 兵庫にいるのは間違いなく私の生霊だと思うし、面倒なのでもう全部 「はい」 と答えるようにしている。 (のっとられても知らん)

 

 

■舞台美術

宝塚舞台美術の素晴らしさは、徹底的なリアリティと宝塚の様式美との巧妙な融合だと思う。

ロシア美術の勘所を、完全に再現していて感動した。

見事にロシア、見事に宝塚。

 

・オープニング

ニコライ二世の暗殺をセルゲイ大公が救うシーン。

たった数秒のシーンだけれど、緋色と漆黒、濃密な闇と茫洋とした光

かの有名なイリヤ・レーヴィンの「 イワン雷帝とその息子」をはじめとした身内による殺戮を繰り返したロシア王朝を描くときの、ロシア美術の色そのもの。

そこから重厚なオルガンの音が鳴り響き、雷鳴へとつながるオープニングは、混迷のロシア帝国へいざなう鮮烈なオープニングだった。

 

・セルゲイ皇帝宅の雪原の背景。

ロシアの雪はぶ厚く描かれる。水面に走る波のように荒く、泥と塵の指紋が残る。

ロシアの雪の清冽さと、根雪の重厚さの質感がリアルに出てた。

 

・ロシアのイコン。

アレクサンドル宮殿の柱に描かれているイコンは、ニコライ皇帝の父親のアレクサンドル2世が暗殺された場所に建築された「血の救世主教会」 の中の柱のイコンだったと思う。

ちなみに、ユスポフが感嘆してたイコンは、イエスを抱いたマリア像の顔周りのベールと着衣が黄金の装飾になってる、「our lady」と呼ばれるイコンの王道。

 

宝塚の再現率のすごさは、二次元→三次元だけじゃない。

三次元→三次元においても、遺憾なく発揮される。

 

 

■衣装

これも唸りまくった。

ロシアの皇室の女たちの最高級のドレスは象牙色と乳白色、そして真珠

すっしーさん演じる皇太后マリアの貂のガウンは、象牙色の生地にふんだんな銀糸で刺繍されていて雰囲気そのまま。

イリナの白いドレスも、りんきら演じるアレクサンドラ皇后のドレスにも銀糸金糸がふんだんにあしらわれていて、宝塚的でありながらロシアのニュアンスが意識されてた。

ニューヨークに渡ってからも、ロイヤルファミリーは乳白色のいでたちをしてるのがいい。

衣装は鉄板の有村先生・・さすがです。

 

 

■聖愚者と農奴  

愛ちゃんのラスプーチン、圧巻だった。

現実のラスプーチンとは、かなり違う描かれ方だったと思うけど、大地の呪力や精霊・民衆のまがまがしいパワーというものを象徴する存在としては成功だったと思う。

 

皇族の神と、民衆の神は違う。

イコンに描かれた聖人たちと、民衆たちが信ずる地霊は違う。

民衆たちの信じる神は、竈の神や火の神といった、生活に根ざした荒々しい自然神だ。

過酷で広大な風土への恐怖が、畏敬となって、神となる。

それは人力では御しがたい混沌とした力だ。

 

貴族たちがラスプーチンを恐れ、ツィンカ酒場でジプシーたちの舞踏を見てオリガがおびえたのは、皇族が支配し掌握しようとしている近代社会とは対極にある呪術的な力を感じたからだろう。

貴族たちの神 =属するものの忍耐と服従の上に成り立つ規律的な縦社会 を根源的に覆す、民衆の神= 混沌とした暴発的な力 を肌で感じたのだろう。

だから、貴族社会の支配を継続させようとするドミトリーは、古い神=ラスプーチンを殺すしかなかった。

 

ラスプーチンは、聖愚者にあたる。

日本で言うところの「捨聖」のように、官僚化した宗教法人に属さず、民衆の中に混じり、苦行を続け、自ら悟りを体得する宗教者。

皇太子を治療した力も、おそらくは農民たちの呪術・民間療法に近い力であったと思うし、農民のロシアを象徴する存在としてラスプーチンを配置したのは見事だったと思う。

ボリシェビキたちが革命を始めるとき、その背後に死せるラスプーチンが覆い、人民を操っているかのように動き、哄笑するシーンも、印象的だった。

 

ロシアの農奴の話になると必ず引き合いに出されるレーピンの「ヴォルガの船曳」

中野京子さんの 「怖い絵」 の中に入ってもいいんじゃないかと思うほど怖い。

土気色の顔をした農奴達が、骸骨のようにやせこけた体に襤褸布をまとい、傀儡のごとく虚ろな眼で巨大な船を曳いている姿で、そりゃ革命おこるわ、と思う。

上田先生が 「どうしてもジプシー音楽を使いたかったからジプシーにした」 と言っていたが、農奴→労働者をジプシーにしたことで伝わりにくくなった極度の貧困や惨めさ 痛ましさ、悲惨さを体現しているのがラスプーチンなのかな、と。

だから粗野で醜ければ醜いほど、庶民の現実の過酷さを思わせて、いい

 

リアリティ的には損なわれたとしても、ミュージカル的にはジプシーダンスは大成功で、

ツィンカ酒場でのダンスがすごかった。

渦を巻く円舞、うねるコーラス、どんどん高まっていく熱量が圧巻。

振り付け、前田清実、桜木涼介。

 

ずんちゃんも、あきももさすがのしなやかなダンスで目を引いたのだが、なんと言ってもそらがはまり役だった。

ああいう男くさい凄みがある役、とても似合う。

シンプルに腕を上げたり下げたりしながら体をよじらせ、ぐるぐると円の中で踊っているだけなのに、身のこなし、手の上げ方、とにかく目を引く。

 

これはたまたまかもしれないけれど、イリナの暗殺に行くとき、三人衆がぐっと体を前傾姿勢にして少しため、舞台からはけていくのだが、三人の背の角度がぴたりと同じで、ぞっとするほど不気味でよかった。

 

 

■人民の神と貴族の神

最後、亡命したマリア皇太后は、「私たちの大地」という。

「あの土地はロマノフのものでも革命家のものでもなくそこに生まれてきた魂たちのもの」 と言うけれど、それは宝塚的なお約束というようなもので、マリア皇后の土地と、人民の土地が同じものとは思えない。

少なくともそれを示唆するようなエピソードは劇中になかったと思う。

ドミトリーが農夫と接触があったり、人民を統括するよき君主でありたいと願った箇所があり、彼が皇帝になっていたら、二つの神のよき仲介者となれたのではないかと思わせるが、彼は失敗した。

 

タイトルの「神々の土地」は、 「貴族の(神々の)土地」 という意味であって、それが失われてしまったことへの追悼の意を含んでいると思う。

あくまで、追放された神々=貴族の、滅びの美の物語だと思う。

国を救いえたかもしれない、聡明で美しい貴公子の物語。

混沌とした時代の中でもまれ、消えていく悲劇。

 

どなたかが、この作品の本当の主人公は「時」だと書いていたように記憶しているけれど、すばらしい慧眼だなと思った。

一人ひとりの生き様はしっかり描かれているけれど、それを押し流していく抗えぬほど大きな「時代」という存在を常に感じる。

逆に言うと、時代という額縁の中に入っているからこそ、個々の生き様が切なく写るのか。

 

「神々の土地」は非常に限定された時代の、限定された人々の話でありながら、星逢にも金色にもなかった、「時代と個人」 という普遍的テーマに到達しえた珠玉の作品だと思う。

 

最後、大地の上に、ラスプーチンやラッダや皇室の人間たちがみんな登場して踊るのエピローグ。

こういうシーンが宝塚的で大好き。

ジプシーのゾバール(桜木みなと)の影ソロがドラマティックで哀切で素晴らしかった。

登場人物全員が、旅人に見えた。

広大な大地の上に、束の間訪れて去っていく旅人。

 

華やかな演目ではないけれど、余韻のある、ひたすら美しい作品でした。